Ⅴ-13 No time to miss "now".

 〉和枝かずえくん


 憧れを追いかけて、それぞれの世界と向き合って、努力を重ねてきた君のことを、私は信じています。また人を信じられるようになった私が証です。だから君も信じ抜いて、君を謳い抜いてください。

 その和音が、何年経っても希望になりますように。世界の悲しみをかき消すノイズになりますように。


 いってらっしゃい、和くん!


 つむぎ


 *


 コンクール当日、日曜日の早朝。いつもより随分と人が少ない最寄り駅のホーム。

 詩葉うたはが選んだのは。集合時間には一本ぶん早い時間帯だったが、案の定、希和まれかずの姿が見えた。


 いつからだろうか、こんな状況で彼から声が掛かることは少なくなっていた。間合いの選択権をいつも渡してくれる希和の姿勢は、詩葉にとっては有り難くて、少しだけ寂しい。

 せめて今は、近づける今は、私から距離を縮めたい。


「やっほー、まれくん」

 まだ残る緊張を飛ばすように大きめに声を掛けると、希和がこちらを振り返った。

「ああ、詩葉さんおはよう。元気……みたいだね」

「うん、ばっちり眠れました」

 希和がそこまで察知しているかは分からないが、昔よりも寝付きはよくなっていた。不安に苛まれる深い夜も、憂鬱が立ちこめる重い朝も、陽向や希和のおかげで随分と減ってきた。


「まれくんも快調?」

「うん、昔から緊張で眠れないとかはないから」

 嘘ではなさそうな、しかし微妙に歯切れの悪い返答。眠れないのは緊張のせいではないなら――浮かびかけた推測を止める。そこはもう、私の出番じゃない。


 出番じゃない、けれど。

「ただ。やっぱり、寂しいかな」

 逸らされた目線、いつもよりも固い声。希和の横顔は、言葉以上に深く寂寥を語っている気がした。


「それは、」

 私もだよ、と言いかけて止める。

 最後だけど。それ以上に、晴れの場なのだ。寂しがるより、胸を張っていたい。胸を張っていてほしい――その寂寥を晴らすには、きっと。


 一歩、もう一歩、希和に近づく。

「……ねえ、まれくん」

 振り向いた頬、思っていたよりも高い位置に両手を伸ばす。

 ふにゃり。意外と柔らかい男の子の頬が、指先ですぐに熱くなっていく。

「うたは、さん?」


「笑おう? 寂しいより、怖いより、私たちに似合うのは笑顔だよ。

 この場所が、お互いが、大好きだって笑う顔だよ」


 ――その「好き」が、たとえ合わない形どうしであっても。


 つまんだ頬が、くしゃりと崩れる。覗いたのは、思い描いていた通りの、見慣れた笑顔。


「分かった、伝わった……全く、ずるいよ?」

「ヒナちゃんには内緒だからね」

「バレたら社会的に殺されちゃう……」


 ぼやくような声の後。

「……けどありがとう。元気出た」

 その言葉をきちんと置いていくのが、なんとも彼らしかった。


 電車に乗り込み、ほどなくして結樹も合流する。

「なんだ、もういるじゃん」

 平坦そうな言葉の裏、安堵しているのがちゃんと分かる。いっときは人に甘えない強さを求めていたことも、いまは人と分かち合う強さを大切にしていることも、自分なりに知っている。

「あれ、結樹もみんなに早く会いたかったの?」

「それは詩葉だけだ。責任者は早めにいた方がいいってだけだよ」

「最後までデレないですね結樹ゆきさんは」


 高校に上がるタイミング。希和が合唱部を訪ねてきたとき。私が結樹への恋慕に気づいたとき。離れるタイミングは何度もあった、それでも続いてきた三人の時間に、またひとつピリオドがつく。

 一年後は、久しぶりに顔を合わせることになるのだろうか。あるいは、後輩たちのコンクールに来られない事情も出てくるだろうか。分からない未来は、寂しくも怖くもあるけれど。


「そんなにセンチメンタルな訳でもないけどさ。思ってたより、今日のこと楽しみだよ私は」

 やや逸らした視線で言う結樹に、ぐっと体を寄せる。揺れる長い髪は、いつも以上に綺麗に整えられていた。

「私も楽しみだよ、みんなのことも、歌も、すごく大好きだし」


 あふれるときめきも、積み重ねてきた愛しさも、こんなに確かなのだ。幕が下りる瞬間まで、過ぎゆく今を寂しがっている暇なんてない。今をこぼしてなんかいられない。


 *


「よし……着いたぞ」

 実家から数十分。同期たちを乗せた車を操ってきたハンドルには、思った以上の汗が滲んでいた。

「お疲れ様、直也なおやくん」

「快適だったよ」

「夜のは俺に任せて、ゆっくりしてろ」

 由那ゆな紅葉もみじ真田さなだが下りていくのを見送った後。目が合った助手席の陽子ようこは、やけに真面目な顔つきをしていた。

「……なんだ?」

「いや、ハンドル握ってるだけで、直也でも随分と大人に見えるなって」

「俺でもってなんだよ」

「まあ、オレも安心したよ。一緒に生きるなら、やっぱりお前だ」

「急にどうした」

 陽子はふっと吹き出してから、少しだけ窓の外を見て、ぐっと顔を近づけてきた。

 一瞬だけのキス――窓の外を見ていたのは、人目を気にしていたのだろうか。久しぶりの感触は、描いていたよりずっと突然で、分からないままに過ぎてしまった。


「陽子、お前はな……もっとこう、ムードとか」

「行くぞ、遅れる」

「ずっる!?」

 

 さっさと降りていく陽子の横顔が少しだけ紅い、それを目撃できただけ反撃だろうか。

 免許なら春休みのうちに取ったし、家族や他の友人を乗せたこともあった。それでも、陽子を――これだけ大切で、これだけ大切に思ってくれる彼女の身体を預かることには、やはり別種の緊張があった。

 とはいえ。喋りたいことなんて山のようにあるだろうに、いつもより口数を抑えて、ずっと周囲に目を配ってくれていた陽子の姿に、安心できたのも確かなのだ。


 到着したのはコンクールの会場、以前は演者として訪れていた場所だ。先に来ていたらしい和可奈わかな弦賀つるがが、こちらを見つけて手を振っている。

「わ~~か~~な~~さ~~ん!!」

 案の定、というべきか。和可奈めがけて陽子が飛び出していったし、同じ大学のはずの由那も便乗していた。


「彼女が他の子にベタベタなの、中村もつくづく不憫だなって思うよ」

 紅葉がからかうような目線を向けてきた。

「生憎、慣れてるんでね。それにお前ほど嫉妬深くねえよ」

「和可奈さんに嫉妬してるのは否定しないんだ?」

「ほっとけ、女子には勝てねえって知ってる」

 早々に諦めた中村に、紅葉の口元がつり上がる。


「けどさ。自分が出ない舞台でもこんなに楽しいの、やっぱり後輩ってすごい存在だよね」

 ポジティブな感情が表に出にくい紅葉には珍しく、嬉しさの躍るような声。

「まあ、な……けど紅葉なら、もうちょっと色々考えるんじゃないの? どんな成績になるかとか、審査員目線で」

「事前に聴いておけば分かるよ。けど今回はその辺の情報一切いれてない。

 結樹はただ、楽しみにしてほしいって言ってた。ならあたしはそれを信じるし、どんな評価するかもあたしの耳で決める」


 聴かれ方を誰より重視してきた紅葉には珍しい気もしたが、これから音楽を仕事にしようとしている彼女にしてみれば、せめて合唱部の音楽には安らぎたいということなのかもしれない。

 何より、結樹は紅葉にとってとても大事な後輩のはずだ。同じパートの師弟として濃い時間を過ごしてきただけでなく、真田を巡る交流でさらに深い仲にもなったようだ……三角関係を経て絆が深まるというのもよく分からないし、何があったかも中村には知らされていないのだが。とにかく、特別な友情のように思える。


 後輩、といえば。

「ケイ、男声の奴らから連絡きた?」

「いや、特に……観に行くことは伝わってるだろうし」

「そっか、だよな」

 特に寂しがってもいなさそうな真田の口ぶり。何か声をかけるのがOBの務めだろうかと思いつつ、どう言葉をかけるかも思いつかず、結局そのままにしていたのだ。それで寂しがるような後輩だとは思えないが、何か引っかかるのも確かである、

 ……そう思ってしまうのは、横にいるのがベッタベタすぎる先輩後輩だからだろうかと、和可奈にじゃれついている陽子を見て思う。


「久しぶり、元気そうだね」

 振り向くと、こちらも到着したらしい倉名くらなだった。

「うっす、倉名さんも……しかしこう揃うと、高校に戻ったみたいですね」

「にしては雰囲気が変わりすぎだけどね。けど君ら五人、よく全員揃ったね? 仲良いとは思ってたけど」

「ああ、コンクール応援のついでに温泉に行こうって話なんですよ。三月はスケジュール合わなかったので、卒業旅行も兼ねて」

 わざわざ車で来たのは、その後に旅館へ向かうからだった。中村は運転慣れしてきたし、真田も由那も免許は持っている。


「泊まり、ねえ……陽子さんが色んな意味でハッスルしそう」

「俺がよ~く分かってるので、いちいち言わんといてください」

 中村の返しに吹き出してから、倉名は満足そうに元部員たちを見つめる。


「楽しいね、やっぱりここは」

「ですね」

 何年も見てきた、倉名の横顔だが。今が一番、晴れやかな気がした。大学で何かあっただろうとは察しがつくが、それ以上は踏み込みにくい。踏み込めないままでもいいのだが。


「……飯田くん、緊張してるかな?」

「案外、大きく構えてると思いますよ。あいつなりに自信ついてきたみたいですし」

「だといいね。ちゃんと、自分を褒めてあげられるステージになってほしいよ」


 頷いて、ホールに目を向ける。


 共に過ごした青春の続き。自分の知らない、重ねてきた努力の果て。

 最も近くではない、それでも大切な彼らの成果を確かめに、かつての共演者たちが歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る