Ⅴ-8 Can't live for me.

 学年最初の定期試験が終わった、五月下旬の日曜日。


「じゃあもう一回、手振り追加で」

「うん、行こっかヒナちゃん」


 詩葉うたは月野つきの家で、陽向ひなたと共にミュージカルの練習に励んでいた。練習なら前日にも学校で行っていたのだが、「最近ふたりっきりになれてない」と寂しがる陽向から自主練(という名目のおうちデート)に誘われたのだ。テストの手応えもそれなりに良かったため、親の説得もそこまで難しくなかった……それに、こうして部活を言い訳に外に出られるのも、残り少ないのだ。


 詩葉が演じるギラハと陽向が演じるキーナは、作中でもコンビでの演技が多いため、二人で演じることを目指してきた。その目標が叶ってからも、できる範囲で演技や歌にアレンジを加え続けている。

 いま取り組んでいるのは中盤、ギラハとキーナがウィングスたちを説得するシーン。譜面通りに歌うのは安定してきたので、より表情が豊かな歌になるように工夫している所だった。


 声色も語尾のニュアンスも、自分で意識したほど相手には伝わらない。大げさすぎるくらいに強調して、そこに身体の動きも加える。

 さらに、キャラクターが同じ目標に向かっているのであれば。

「ここの語尾さ、ヒナちゃんも被せてみない?」

「良さそう、キー合わせよっか?」

「どうだろ………あんまりピッタリすぎるのも変かな、私がもうちょっと高くするから低めにはいれる?」

 歌や仕草のシンクロも、過剰にならないように加えていた。他の部員も巻き込むとなると難易度は上がりそうだったが、陽向とならば容易だ。去年のゴスペルライブ以来、お互いの呼吸ならすぐに合わせられる。


「じゃあ次のパートでもシンクロ入れよっか?」

 一緒に楽譜をのぞき込みながら、陽向の提案をしばし検討して。

「ここ、途中からまれくんと合流するからな……言えば合わせてくれそうだけど、あんまり負担かけたくない」

 アクアズに敵対的だったウィングスの中で、キーナの次に友好的なのが、希和が演じるダーズなのだ。希和がその役に決まったことに、陽向は随分と複雑そうな顔をしていたが、詩葉にとっては予想通りではあった。希和のシナリオを読んだ時点で、彼がこの配役……運命的に出会う詩葉と陽向、それを後押しする希和、という構図をイメージしていたことは察しがついていた。彼が変な所で分かりやすいのか、自分が妙な所まで気づいてしまうのか……どちらにせよ、他の人にはない見どころとして楽しめていたのは確かだ。

「そうだね、じゃあふたりだけの所で思い切り遊ぼうか」

 ふたりだけ、という響きに力が籠もるのも相変わらずだった。自分が心変わりするとは思えないし、陽向の独占欲も大半は杞憂なのだが。それはそれで可愛い。


 そうやって、ひと通りおさらいやアレンジが終わった頃に。

「ねえ」

 呼びかけと共に、背中から回される腕。その声の色で、要件はすぐに察しがついた。

「さわりたい?」

「詩葉もそう思ってたでしょ?」

 甘えた声と、押しつけられる柔らかさに。充足に包まれながら、髪を撫でて答える。

「帰る時間、忘れないくらいにね」


 腕を引かれ、ベッドの上へと連れていかれる。そのままいつものように押し倒されるかと思いきや、陽向は両腕を差し出して期待の籠った視線を送ってくる。

「……私が脱がせればいいの?」

 躊躇しつつ確認すると、勢いよく首肯が返ってきた。ひとりで脱ぐのではなく私を「脱がせる」ことにこだわってきた陽向だったが、自分がされる側に回りたがるのは初めてだった。


「もしかして、今日ボタンシャツなのって」

「一つ一つ外れていくの、ドキドキしそうじゃん?」

「やっぱりね……ほら、あっち向いて。流石に見つめ合いながらは恥ずかしいよ」

 陽向の後ろから手を回して、上からボタンを外していく……といっても、元から胸元は開いていたのだが。年相応よりもやや大きめのサイズとはいえ、綺麗に見えるように意識されているのは察しがついた。家の至る所にあるアイテムを見ても、陽向が身体の見え方に気を遣っているのは分かる。それが、「詩葉の前で可愛くありたい」という一点に基づいていることも、分かる。


 私がそれに追いつこうというのは、少なくとも今は経済的に難しいし、そもそも体型だって違う。だからせめて、今は。

 露わになったふくらみをなぞりながら、耳元に口を寄せる。

「嬉しい、今日も可愛いヒナちゃんでいてくれて」


 自分の体温が、それを追い越すように陽向の体温が上がる。普段はあんなに格好いいキリッとした顔なのに、こんな言葉に真っ赤になってしまうのが楽しくて――そう愛しく思っているうちに、向き直った陽向にぎゅっと抱きしめられる。

「磨くのを怠れるはずないじゃん。だって私、世界で一番可愛い女の子の彼女なんだから」


 謙遜も訂正もいくらでもできそうな、した方がよさそうな言葉だけれど。せめてこの場所では、それを真実にしたかった。

「ずっと見ていてね。君の前にいる私が、一番可愛い私だから」



 同じシーツにくるまって、肌と肌を触れ合わせる。もっと激しいことだって経験はしていたが、今日の詩葉には優しく重なるくらいがちょうどよかった。


 陽向と出会う前、一人の布団の中で。こんな風に、誰かに――結樹に触れたい、結樹に触れながら眠りたいと思い描くことがあった。あの頃はその気持ちの正体には気づかないふりで、姉のような、思うように向き合えない母の代わりになるような誰かを望んでいるだけだと考えていたけれど、今は。


「ねえ、他の人のこと考えてない?」

 内心を読んだような陽向に、拗ねたように見つめられる。

「うん、ちょっと昔のこと」

「結樹さん?」

「そう。こうやって結樹と眠りたいなって、考えていたことあったから……けどね」

 眉に皺を寄せる陽向を、強めに抱きしめる。その身体の柔らかさも美しさも、向けてくれる心も、密着した身体を通して伝わる。それらを感じ取っている自分の身体が、こんなにも尊く思える。


「もうそんな風に、他の誰かのこと求めたりしないよ。だって戻れないもん、こんな幸せ味わってからじゃ」

「へえ……じっくり誘惑してきた甲斐がありました」

「されちゃいました」

「……もう、好き!」

 陽向に頬ずりされながら、甘い温もりを全身で感じながら――ふと詩葉は、何度目か疑問に襲われる。


 尊く思うのは、感謝を捧げずにはいられないのは、陽向本人だけではない。

 彼女が生きてきたこと、一緒に生きていること、その全ては、自分たちだけの力では叶わないから。

 こんなに幸せな出会いをくれた世界に、私は何を返せばいいのだろう。


 うっすらと分かるその答えは、今の陽向には到底言えないから。


「ねえ、もっと言って」

「好き、大好き……私の人生、詩葉のものだよ」


 せめて今は、ふたりだけの世界に甘えたかった。


 *


 翌週の帰り道。詩葉はその悩みについて、思い切って希和まれかずに話していた。むしろ彼にこそ話すべきではない話題なのかもしれないが、彼以外に話すあてもないのも確かなのだ。

「最近ね。いつか、子供ほしいなって思うんだ」

「……子供?」

 案の定、彼からは訝しむように聞き返された。そんな話をしたことはないし、そもそも男性だからという理由で彼を拒んだのも私なのだ。

「うん、私なんかが変だって思うだろうけど」

「いや、異性に対する欲求と子供に対する愛情って別だから、君がそう思うのは変じゃないんだけどさ」

 すぐに返ってくる、理屈っぽいフォローに安心する。

「けど……昔から、そんなこと言ってなかったよね?」


 出産に関わる話が出なかった訳ではなく、結樹や希和がその手の話をしていることもあったが、そのときに私が黙っていただけなのだ。自分のこととして考えるのを避けていた、ともいう。

「ヒナちゃんと付き合って、君が好きって言ってくれて。それから、ずっと幸せで、幸せすぎて。生きていることが、すごく嬉しくて。

 けどね。どんなにこの身体が、命が尊く思えても、どんなにこの世界が愛しく思えても。その気持ちを親に返そうとは、やっぱり上手く思えないんだ」


 年を経るごとに、緩やかに深まっていく断絶。感謝すべきだと頭で分かっていても、この先の数十年を両親と共に生きていくことに、心は首を横に振るのだ。

「けど、親子って苦しいばかりじゃないってのも分かったんだ。ヒナちゃんとお母さんとの関係を見て、こんなに幸せな形もあるんだって知った。自分を産んだ人を好きになれない、そんなジレンマに苦しむばかりじゃないなら、私は……私たちは、幸せな方になれるって信じたい。だからね」


 私に陽向をくれたように。陽向を愛せる世界をくれたように――命を宿せる力が、この身体にあるなら。

「今度は私がね。世界に命を返したい。誰かに世界をあげたい」


 私の言葉に、希和はしばらく黙ってから。

「世界に無事に育ててもらった恩には、育てる側に回ることで報いたいって。今の僕はそう思ってる、いずれはそうありたいって考えてる。だから君のその気持ちも分かるよ、けどね」

 彼が言いよどむ先を引き継ぐ。

「うん、私たちは向いていないよ。

 本当の意味で愛せないけど、子供に協力してほしいって、男の人にお願いするようなものだから。この時代ならいくらでもやり方はあるんだろうけど、すんなり受け容れられるとは思ってない。

 それでもね。君みたいに、私たちを分かってくれる人なら。きっと支えてくれると思う」


 希和の瞳に、動揺が揺れる。迷いながらも返される言葉は、やはり。

「……例えば、その相手が僕だったら?」

 予想できていた問、準備できていた答え。それでも、舌は重い。

「まれくんはいいお父さんになると思うよ。真面目だし勉強だってできるし、立派な社会人になるはず……まあ、君の運転とか料理とかはちょっと不安だけど」

「そりゃ、運転怖いから都会に行きたがってるくらいだし」

 ばっさりとした口調に安堵しながらも。その先、伝えなければいけない言葉を絞りだす。


「君とヒナちゃんとの家庭だったら、私も子供もきっと幸せだよ。一緒に親になってくれるのに、君以上の人は見つからないと思うよ。それでもね」

 喉が詰まる。泣くな、ちゃんと伝えろ、私。


「だからね、君を付き合わせちゃだめなんだ。私のために君の未来を選んじゃ、君の人生が私のためになったら、だめだよ」

 ――それ以上、言えなかった。傷つけたのは私なのに、私の方が傷ついたみたいに、拳を握りしめたまま、詰まる喉を堪える。


「……心も体も、愛し合える幸せを。私だけが味わったらダメだって、きっとそう思ったんでしょ?」

 希和の言葉に頷く。分かってくれると信じたのは、間違いじゃなかった。

「君のために生きられたら、それだけで良いって。今でも、半ば本気で思ってるよ。

 だから僕は、君が信じてくれる僕の未来を、ちゃんと目指すから――君よりも好きになれるヒロインを探すから」


 いつも通りに穏やかな、いつも以上に優しい声に。震えが落ち着いていく、言葉が出るようになる。

 顔を上げて、希和に伝える。

「いつか、きっと遠くないうちに。君の彼女になりたいって人が、絶対に現れるから。君はその子を幸せにできるから」

 私だって、こんなに愛し合える人がいるだなんて、夢にも思わなかったのだから。

 無責任でも、根拠はなくても、予感はこの上なく確かなのだ。


 もし私が男性を愛せていたら、きっと君を選んだ――その仮定があまりにも間違っていたとしても、その予感は伝えたいのだ。


「うん、信じます……けど、君の子供のお父さんになる人って、僕からのハードルは物凄く高いよ?」

「まだ具体的には考えられないけどね……というよりもヒナちゃんが納得するか分かんないし」


 本当は。陽向と希和と、ずっと三人で生きていたかった。性行為でなくたって、子供を授かる方法はいくらでもある。希和は、私の肌に触れられなくても、パートナーとして支えてくれるはずの人だ。それが一番、私が幸せになれる選択なのだろう。

 それでも。彼がどんなに納得したとしても、それは残酷な形に思えた。私が授かった、愛し合える誰かと巡り会う機会を、彼から奪ってしまうのは。


「今の僕らにとって、ここでの人間関係って世界の全てくらいに思えるけどさ。きっと、長い人生の始まりでしかないはずだから。色んなこと諦めるのも、決めつけるのもまだ早いんだと思う。

 一生ぶんの愛の形がここで見つかるのは、それはそれで尊いことだけど。僕はまだ、それを決めないでおきます……君が見つけた運命は、自分にも待ってるって信じます」


 本当は、もっと言いたいことだってあるのだろう。そんな簡単に、未来に先送りできる感情ではないのだろう。

 それでも。この先、お互いに自分の道を歩くために、ずっと「友達」でいるためには、ここで区切りをつけるのが正解だという確信があった。


「いつか。色んなことが上手くいったらさ、まれくんの子供とも仲良くなりたい」

「僕も。君がお母さんなら、きっと良い子だよ」


 そんなに上手くいくはずはない、あれもこれも望んだらきっと後悔する――渦巻く予感を振り切るように、望みを言葉にする。言葉にしなければ、始まらない。


「もらった幸せに報いることができたよって、ちゃんと言いたいからさ。

 離れても、ずっと応援してくれたら嬉しいです」


 希和は頷いてから、背伸びをして空を見上げる。

「……遠い未来の前に、まずは」

「うん。みんなに返そう、私たちの歌を。君と私で、見つけられた物語を――ミュージカル、頑張ろうね」


 

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