Ⅳ-6 Let's celebrate "now", "here" & "us" together!

 香永かえの身体から響く、豊かでありつつも鋭くソリッドな歌声が、音楽室の空気をびりりと震わせる。

「……こんな感じですか?」

 声を出し終えた香永がジェームズに尋ねると、ジェームズは指を鳴らし「Amazing」と答える。

「お手本のように上手です、驚きました」

「ありがとうございます、ジェフさん教え上手!」

 香永は元気よく答えると、景気よくジェームズとハイタッチを交わす。


 その様子を見ながら、希和まれかずは歌詞と睨めっこしている清水しみずに話しかける。

「やる前は慎重派だったけど、決まったなら全力で新しいこと吸収できるっての、香永さんの美徳だって思わないかい」

「そうっすね~、僕らがヘタっても香永はずっとしっかりしてそうで心強い限りです、ただこの代でヘナヘナしてるの僕だけな気もしますが」

「キヨくん、軟弱そうに見えて、受け流すの妙に上手いから大丈夫だよ」

「褒めてるんですよねぇ?」

「勿論」


 続いてジェームズのレクチャーを受けていた福坂ふくさかも、力強いミックスボイスを出し、ジェームズに褒められていた。数分前、ジェームズのアドバイスを全く実行に移せず、お互いに頭を抱えていた希和とは対照的に、である。


 夏休みが明ける、少し前。晴れて結成が決まった合同ゴスペルチームHumaNoiseヒューマノイズは、早速ライブの準備に移っていた。信野のぶの市立大学では、弦賀つるがを中心として楽器奏者が音取りや練習を開始。一方の雪坂ゆきさか高校では、ジェームズが頻繁に合唱部を訪れ、音取りと共にゴスペルでの発声法や文化的背景をレクチャーしている。


 多くの部員にとっては、これまで習得してきた合唱部での歌い方からは離れることになる。元からヘッドボイスや裏声よりもチェストボイスで歌う癖のついていたあきや、歌い方の制御が上手い香永や福坂はすぐに適応したが、まだ思うように声の切り換えができない部員も多い。そして僕はというと、適応できない筆頭である……まあ、合唱式の発声が上手かった訳でもないのだが。


 とはいえ、今回の僕が不得手ばかり、という訳でもなく。

「それより、まれさんよく歌詞覚えられてますね……Hosanna、覚えてもすぐ混ざるんですけど。コツとかあります?」

「コツというか……意味の流れが頭に入れば大体は言えるし。後、混ざったら韻で判断するとか」

「韻って、ラップじゃなくても使ってるんです?」

「そう。例えばChorus前半だと、一番の語尾がyouとtoとdoで、二番だとnameとclayとawayじゃん」

「ほんとだ、歌っててリズムいいなって思ってたのはライムの効果もあったんですね」

 合唱部では英語のフレーズ作りを手掛け、Web小説書きの和枝かずえとしてもタイトリングに英語を使うことが増えた成果か、大量の英語詞を頭に入れるのは、僕にはそれほど苦になっていない。


 それは単なる詞の記憶だけでなく、内容の理解についても言えるらしい……ということを、春菜はるなにも指摘される。

「希くんは訳すときに、クリスチャンの人がどう歌うかってのも考えられる人じゃん。私は、英語の授業で訳すときみたいな……感情がついていかない、そんな向き合い方になっちゃうから」

「なるほどねえ。僕だって本場のクリスチャンの気持ちは分からないけどさ、想像とか置き換えなら出来るから。この辺の話、ジェフさんがまた詳しくするって言ってたけど」


 英語であるというだけでなく、キリスト教における讃美歌という一般的な日本の高校生にはあまり馴染みのない文化がベースにあることが、歌詞への感情移入を二重に難しくしている……という話は、一年前も出ていた。もっとも、だから余計なことは考えずに「音として」覚えればいい、という考え方を持つ真田のようなタイプもいたのだが。


 こんな風に、部員たちは所々で壁に直面していた。とはいえ、新しい体験への期待感はそれぞれが持っているようだし、ジェームズが加わっての練習は常に賑やかで、つまりは非常に楽しげな空気が合唱部を包んでいた。


 そして。

「こんにちは、お待たせ!」

 到着したのは、大学での講義を終えて駆け付けた和可奈わかな。制服姿だった一年前とは打って変わった夏色の私服姿は、校舎の色調から随分と浮いていたが、彼女がいることの安心感は相変わらずだった。

「やった、和可奈さん!」

 喜びの声を上げながら駆け寄っていった詩葉うたはに続いて、希和も歩み寄る。


「うおお、うたちゃん元気いっぱいだね……あ、飯田いいだくんもやっほー」

「ええ。おかえりなさい、和可奈さん」

 部員として戻ってきたのではないけれど。それでも、再びこの場所で一緒に歌えることを、帰ってきたと僕は表現したかった。

その言葉に、和可奈は照れたように笑う。

「うん、ただいま。そうだね、みんなただいま!」

 

 ジェームズの教え方は下手ではなかったし、言語の壁もほとんど気にはならなかったが、やはり教えることにかけては和可奈に一日の長がある。既にゴスペルの歌い方をマスターしているらしい和可奈に教えてもらうことで、手こずっていた部員たちも少しずつ手ごたえを掴んでいった。

 

 希和も、僅かではあるが前進を得られていた、

「――そう、その感じ! どう、違うの分かった?」

「言われてみれば……どこを変えたらこうなったのかは、自覚できてないですね」

 指導してくれていた和可奈へ正直に答える。

「はじめはそれでも構わないから、繰り返して覚えよっか」


 先日、信野大で話したときに吐露した葛藤の重さが嘘のように、彼女の笑顔には曇りの欠片もない。そんな和可奈へ頷いてから、ふと思い浮かんだ感傷を口にする。

「そういえば。僕が和可奈さんにこうやって教えてもらうの、ほとんど初めてでしたね……色んなこと教えてくれた先輩だってイメージが強すぎましたけど、あの頃の僕は部員ではなかったですし」

 

 僕が入部したのは、昨年度のコンクールが終わり和可奈と倉名くらなが引退した後だった。取材で頻繁に部に顔を出していたとはいえ、僕と彼女たちが同時期に現役部員であったことはない。

「そういえば、そうだったね……卒業しても居座ってる、邪魔な先輩になっちゃってるかも?」

「それは絶対にないです。少なくとも僕は、あなたに歌を教えてもらえて嬉しいですから」

「この先輩タラシ」

「なんか妙なワードが聞こえましたよ!?」

「べー、だ。ってことは倉名くんにも教わってないし、直也なおやが師匠になるのか」

 師匠という言葉の響きに、自分で笑い出す和可奈……この人からしたら中村なかむらは後輩になるから、可笑しさも強いのだろう。

「そうですね、技術の面でも、精神的な面でもすっごくお世話になりましたよ」


 お世辞ではなく、中村への尊敬と感謝は素直なものだった。彼のアドバイスが今一つ要領を得ないこともあったが。彼の機嫌が悪いときと僕のミスの多発が重なると、本気で怖くなるような表情をされたこともあったが。それでも、歌に取り組もうと意識を切り替えたとき、まず頭を過ぎるのは彼の姿だった。

「そっか。良かった、直也と陽子ようこが入ってきた直後とか、この賑やかさが感染したら動物園になるんじゃって思ってたから。だって考えてみてよ、みんなあのテンションだったらうるさくない?」

「それは確かですけど、あの二人がいないと会話がロクに生まれない学年ですし」

 由那ゆなは自分から喋るタイプではないし、紅葉もみじと真田は二人だけの世界で完結してしまうことも、ままある。

「確かにね~、そう考えると良いバランスだよね、あの子たち。元気なばっかじゃなくて、すごく真面目だしよく考えてるし。きっと、どんな間柄になっても上手くいくと思ってるし、無事にくっついて本当に良かったなって」


 陽子と中村が、引退した直後に晴れて交際を開始したという報せは、その翌日には明を通して僕にも届いていた。ハッピーエンド以外がなさそうなラブコメドラマの最終回を観たような、時間の問題だと思いつつも安堵と喜びは確かなような、そんな感覚だった。


 そして、噂をすれば。


 軽快な足音に続き、ドアがノックされたかと思うと。

「みんなお疲れ――わっかっなさ~~ん!!」

 先輩モードで入ってきた陽子が、和可奈を見るなり突進し、有無を言わさず抱擁。


「あの、何しに来たんですか」

「んんふっ、和可奈さんの匂い……ジェフさんに挨拶に来たんだけど予定変更。和可奈さんと制服デートしに来た」

「ちょ、陽子、くるし」

「……これが退行って奴ですか」

 何事かと視線を向けてくるジェームズに肩を竦めつつ、入口の気配に目を向けると。案の定、諦めたような目をした中村が入ってきていた。


「悪い、ダメな先輩の見本を連れてきちまった」

「え、あなたの彼女でしょ? 早く何とかしてくださいよ」

 香永の向けたテンプレの台詞に、中村は雑に突っ込むと思いきや。


「……いや、その、な」

 赤面して黙りこくってしまった。


「……嘘でしょ?」

 知り合って一年半、初めて見るタイプの表情である。

「流石にちょろ過ぎないですか」

「キヨくんも大概だけど同意だよ」

「やだ、中村さん可愛い」


 純情が過ぎる中村の反応に、一斉に色めき立つ部員たち。

 その様子を目にした陽子は、和可奈を脇にホールドしたまま無邪気に爆弾を投下する。


「こいつ、周りに人いない時とか、たまにこういう紅い顔しないっけ?」

 少なくとも僕には未知だったし、他の部員にとってもそうだったようで。つまりは、陽子にだけ見えていたということだろう。

「陽子しか知らないよ!」

「天然で惚気を爆発させないでください!」

 和可奈と清水の、絶叫のような突っ込み。慌てる陽子。無言で踵を返す中村と、にっこり笑ってその進路に立ちふさがる春菜。


「……よく分からないんですが、せっかくお二人も来たのなら、練習の成果を見せてあげませんか?」

 状況を呑み込めずに不思議そうな顔をしたジェームズの提案が、事態の収拾につながった。


 歌う準備の途中。近くにいた詩葉は、最近にしては珍しい、しかし昔は頻繁に見られたような、喜と楽のオーラを全開にしていた。

「テンション上がってるね?」

 そう声を掛けると、彼女は大きく頷いた。

「やっぱり、ここの空気が、ここで会った人たちのことが好きだなあって。時間経っても、こうやって居てくれることが嬉しいなって!」

 その、表情と声と言葉の明るさに、心が晴れる――ここでの君に似合うのは、僕をここに連れてきたのは、そんな眩しさだ。

「同感。じゃあ、その好きな気持ちを」

「うん、歌に乗せよう!」


 今の合唱部は、僕が出会った頃の、どうしようもなく惹かれた頃の合唱部からは随分と様変わりした。半分以上はメンバーが替わったし、残っている各人の内面も変わり続けている。

 大好きだったその時のままでは、いてくれなくて。

 それでも。新しく出会えた彼らのことはまた大好きになれたし、部を卒業した後でも接点は続くし、今回の和可奈のように、思わぬ形で再共演することだってある。

 だからこの場所に、好きが向く対象は増えるばかりだった。

 この場所で向き合う好きの数も、増えていくばかりだった。


 悩みも痛みも、増えたけれど。

 それ以上に、今のここには、大好きが溢れていた。


「じゃあ皆さん、準備は――いや違いますね。 Hey choir, are you ready to sing?」

「Yeah!!」

 ピアノの前に座ったジェームズの呼びかけに、それぞれの叫びやすい音域で答える。

 指揮者コンダクター役の和可奈が、前に進み出る。そのさらに前からは、陽子と中村が期待の入り混じった視線を向けていた。その顔が驚嘆と興奮の色に仲良く染まるのが、目に浮かんだ。


 軽快なピアノの音と、ジェームズの熱い歌声に合わせて。リズムに身体を揺らして、手を叩いて、視線を交わして、自分の殻を破いていく。


 ゴスペルとは本来、神様を賛美する音楽だという。

 クリスチャンではないどころか、神道にも仏教にも明確な信仰心を持っていない僕にとって、神様というのは漠然とした概念である。しかし、精神から排除できるほど薄い存在でもない。


 願いを、祈りを向ける意義のあるような、人間を超越した大きな存在が、運命を握るような存在があるとすれば、それは神様としか呼べない。世界の出会いの一つ一つが、偶然の結果であっても構わないけれど、それらを導く何かを意識していないといえば大嘘だ。


 だから僕は、僕たちがここで出会ったことに、ここで歌えることに、それを仕組んだ何かに、感謝を伝えたいと思う。

 今を、ここを、僕たちを祝福する歌を、共に歌おうと思う。


「――Let’s praise together!」

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