Ⅳ-4 Nobody is whom you must not love.
「さあ、どうぞ」
「お邪魔、します」
随分と緊張した様子の
一学期の終業式後も続く、補講という名目の授業延長戦も終わり。それに伴って合唱部の練習も休止期間に入り、名実ともに夏休みとなった日のこと。
レズビアンの自覚に動揺している詩葉と、ゆっくりと話し合うために、
ちなみに詩葉は、親には部活だと言って外出してきたため、制服姿である。そして陽向の唯一の同居相手である父は仕事中のため、家には誰もいない。制服姿の詩葉を密室に連れ込むというシチュエーションに、興奮しないと言えば嘘だが。
しかし今は、そんなことに想像を巡らせている場合ではない。陽向は自制心を総動員する。
詩葉を自室に上げ、麦茶と簡単なお茶菓子を用意してから、向かい合う。
「さて、詩葉さん。あれから二週間ほど経ったけど、少しは気持ちの整理がついたかな……ああ、つきましたか?」
慌てて敬語に直す私へ、詩葉は笑って答える。
「もう敬語じゃなくてもいいよ、ヒナちゃんのこと年下だって思えないし。
あの日ほど酷くはないけど、やっぱりまだ落ち着かないし、
一歩ずつ、詩葉の心の形を見極めていく。支えの手を差し伸べるべきは、どこだ。
「自分のこと、認めてあげられてる?」
「認めてか……元々、自分に嫌な所が沢山あったから。そういうのも含めて、女の子が好きってこと、まだ受け入れられては、ないかな。けど、納得はできてるよ」
「納得っていうと、違和感みたいなものはあったのかな」
「うん。いつになっても、男の子のこと好きにならないなって……不思議というか、焦りというか」
「女の子ばっかり気になることには?」
「そうだね……思い返せば、あれもこれも恋だったんだなって気づくけど。そのときはずっと、これも友達としての好意なんだって思ってたから」
危惧していたほど、混乱が長引いている訳ではなさそうだ。そのことにまず、安堵する。
「じゃあ、一つ確認しておきたいんだけど。
これでお互いに、女の子が好きだってことが分かりました。その上で、詩葉さんは、これまでみたいに私と触れ合いたいって、思えますか?」
私と詩葉の間。これまでは「同性間」だけで済んでいたが、そこに「恋愛対象間」も含まれていたと、明らかになって。その結果、スキンシップに抵抗を覚えるという可能性は、当然あった。
しかし詩葉は、目を閉じて考え込んでから。
「……触れたい、触れてほしいってのは確かで。けど、それより切実に、私はヒナちゃんのあったかさが欲しいです」
温もりが欲しい。その感覚の切実さは、私自身もよく分かっていた。
私が差し出した掌へ、詩葉はゆっくりと手を伸ばし、指を絡めてぎゅっと握り締める。伝わる温度は、きっとどんな言葉よりも、確かだ。
「私がスキンシップにこだわる理由、詩葉さんにも聞いてもらっていい?」
詩葉は少し首を傾げてから、頷いた。
「私ね、かなり重度のマザコンなんだ。うちのお母さん、普段は海外で働いてて。私を妊娠してから、しばらくは日本で育ててくれたんだけど。保育園くらいからずっと、家にいる日の方が珍しくて。だからお母さんと一緒にいられる間、ずっと……多分、詩葉さんが引くくらいべったり、私は甘えっきりで。
お父さんはお父さんで、すごく頑張って面倒見てくれていて、それに不満はないんだけど。それでも、お母さんじゃないとダメな部分……お母さんが撫でてくれて、抱きしめてくれないと、満たされない心の部分が、ずっとあるんだ」
お母さんが抱きしめてくれる。
それは、何にも代えがたい幸せであり。離れていても、ずっと心を支え続ける魔法であり。母ほどではないが、数少ない親友と呼べる女の子との間でもそれは実証されてきた。
故に陽向にとって、大事な人とのスキンシップというのは、何より確かで、強力な方法だった。
そしてそれは、詩葉にも当てはまるだろうことは、少しずつ試行と観察を重ねた上で、確信していた。結樹を例外としても、
「……だから、かな。ヒナちゃんが抱きしめてくれるときね。ずっと昔、お母さんにそうしてもらってた頃のこと思い出すんだ。今はもう、取り返しつかないくらいすれ違って、そんなことできないんだけど」
詩葉が泣いていたあの日の、
つい昨日。いずれ詩葉に告白するつもりだと、希和から連絡を受け。「彼女の気持ちの整理がつくまでは待ってほしい」と回答した。
以前は、邪魔な男子だという感情が拭えなかったが。あの日以来、彼と私の間には、詩葉を支えるという同じ目標を持つ、共闘者のような不思議な感覚が生まれていた。
向かいにいた詩葉が立ち上がり、私の隣に腰を下ろす。さっきよりも近い距離。
「私にとってヒナちゃんは。立場は後輩だけど、お姉ちゃんみたいで、ときにお母さんみたいで……ヒーローみたいで。いまの私が、一番、支えに思える人です。
なら、ヒナちゃんにとっての私は、何ですか……どうしてこんなに、私に真剣に向き合ってくれるんですか」
いま、訊かれたくはなかった。「あなたに惚れているから」という答えをここで出してしまったら、それは結樹を失った心の空白に、レズビアンだと気付いた動揺につけ込むのも同然なようで。
……あるいは、告白することが、詩葉の自己肯定への最短距離なのかもしれないが。少なくとも今の陽向には、それは正道ではないと思えた。
「大事な仲間で、大好きな友達だから。そんな人が、自分と同じ、人に言いにくい悩みに直面していたら、全力で助けたいって思うでしょう」
嘘ではない。けど、本当の気持ちに嘘をつきたくもなくて。
「それに、ね。こんなに可愛いくて素敵な人が、自分と結ばれ得る側だって知ったら。絶対、悲しい思いなんてさせたくないじゃない」
私は、君の恋人になる。目指す姿に、変わりはない。
けどその前に、陽向が詩葉と結ばれるに値するかどうかを、詩葉自身に判断してほしいから。誰かの代わりでなく、同属からの安心感からでもなく、「この人と生きていきたい」と心から思えるようになってから付き合いたいから。
「だからまずは。詩葉さんが、自分のことを、結樹さんのことを、受け入れる所から始めよう」
詩葉は頷いてから、目を潤ませて、私に寄り添う。
「うん、お願い……ヒナちゃんがいて、良かった」
それからレズビアンの、あるいは性的指向と性自認……「性の在り方」に関して陽向が持ち合わせていた様々な知識を、詩葉と共有していった。この手の知識は、学校や社会で教わるレベルは浅すぎるか間違ってるし、家庭でとなると各世帯のばらつきが大きくて何ともいえない。そもそも、教える側がどれほど現状を偏見なく認識できているか、という話にもなるのだが。
幸い私の両親は……リベラルというか、新しい感覚や情報に対してかなり敏感なこともあり、性的少数者に関する情報も(恐らく同年代の中では)早くに触れることができていた。とはいえ、娘に「結婚する男性はしっかり選ばなきゃダメだよ」と疑いもなく言っているのも確かなのだが。
しかし詩葉の場合、「新しめ」の情報に触れる機会は少なかった、あるいは保守的な固定観念を刷り込まれていた傾向がかなり強いように見えた。だからこそ、自覚したときの自己嫌悪、動揺が激しかったようで、私が教えるたびに、表情に安堵の色が広がっていった。
「人の恋とか性に関する個性の考え方って、私が思ってたよりずっと難しいんだなってのが本音だけど。簡単じゃなくていいってのは、すごく安心できた」
「そうだよ。だって私と詩葉さんだって、どこかは違うもん」
結局、人と人の間で、あらゆる感覚が完全にマッチするはずはないのだ。それは異性愛者だろうと同様で。
しかし、その違いを越えてでも、誰かと結ばれ共に歩くことは尊いのだと思う。
詩葉へのレクチャーがひと段落した頃。
「あの、ヒナちゃん、さ」
「うん?」
詩葉が何か言おうとして、躊躇う。その背を押すように、じっと目を見ると。
「私は。君を好きになってもいいんだよね?」
「……もし詩葉さんが私と付き合いたいと思ったらどうなるかって意味なら。勿論、私は君を歓迎します。むしろ私が、君を好きになっちゃいそう。
けどね。好きになっちゃいけない人なんて、誰もいないよ」
以前の私は。恋の形が合わない相手なんて諦めて、結ばれ得る相手を探し近づくことに全力を注ぐべきだと……叶わない恋を引きずることに意味はないと、そう信じていた。
だが、詩葉から結樹への、希和から詩葉への想いに触れて、その観念は変わった。
伝えられなくても。結ばれなくても。
近づいちゃいけなくても。
誰かを好きになるその心は、ときめきは、痛みは、とても尊い――否定する資格なんて、誰にもない。
「それでもね、詩葉さん。
君の好きな人が、君を好きでいる幸せを。私は、君に知ってほしい」
だから、絶対。私は、君の心を掴み取る。
*
夏休み終盤、合唱部の活動日の朝早く、陽向は希和を呼び出した。
「昨日、詩葉さんと色々お話しまして。ビアンであること、結樹さんとのこと、まだかなり戸惑っているようですが、前向きに受け入れていけそうな気配はありましたよ」
「前向きに受け入れられるように、君が言い聞かせたってことでしょう……ひとまず、ありがとう。僕には立ち入り難い領域だったから、君が受け止めてくれて良かった」
ここで礼を言えるのが、彼の美徳なのだろう。
「それで。彼女への告白は待ってほしいって、僕に言ってたけどさ。好きなのは、陽向さんだって同じでしょう? 君の場合、僕と違って勝算はだいぶある訳だし」
「ええ、いずれお付き合いするつもりですが、まだ伝えるつもりはありません。フラットとまではいかなくても、いま直面している挫折と動揺から立ち直ってからじゃないといけないと思ってます」
「立ち直ったって、どう判断するつもり?」
「そこなんですよね」
「……決めてないの?」
嘘だろ、という希和の視線に、肩を竦めて答える。方針自体は決めていたものの、具体的に何を指標とするかは決め切れていなかった。
「詩葉さんの自己申告が一番なんですけど、自分から言うとも思えないんですよね……」
「じゃあ、詩葉さんを見守りつつ、君と僕とで合意したら、とか」
「決め手に欠けそうですが、それが妥当でしょうかね……希和先輩、詩葉さんのこと全然分かってないようで、意外とよく分かってますし」
「……褒め言葉だと思っておくよ」
「ええ。きっと、今の詩葉さんには、私たち二人ともが必要です。私は、同じ側で寄り添える人間として。あなたは、これまでも今も知った上で、受け入れ励ましてくれる違う側の人として。
いずれ、想いを伝えていい日が来ます。それまでお互い、友として仲間として」
「詩葉さんが自分と向き合う、自分を見つける、その支えになる」
手探りには違いないが、道筋は付いた。
世界で一番に好きな、好きになってしまった、たったひとりの女の子の心を救うための、何もかも違うふたりの共闘だ。
「じゃあ、約束です」
希和へ、小指を出した手を差し出す。
「私たちは、詩葉さんの幸せを諦めない」
希和は息を吐いてから、同じように手を伸ばし、指切りをする。
「ああ。幸せに、しよう」
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