Ⅲ-13 Save her, please.
「うわあ、部屋が広いっすねえ……」
「人数の上では、十五人から五人が抜けただけになるんだけどさ。存在感とか考えると、半分以上がごっそりいなくなったみたいな、そんな気分だよ」
三年生が引退してから、初めての練習日。
音楽室に集まった一、二年生は、先輩のいない音楽室の心細さに包まれていた。
「言葉だけでも前向きにしないか」
いつも通りに、否、いつも以上に毅然とした
「一緒に歌える人が少なくなったのは、確かだけどさ。その分だけ、聴いてもらいたい人が増えただろう?」
見回しながら言う結樹に、
「ええ。ここからは私たちの旅路です、胸張っていきましょう」
「格好いいお手本はバッチリ見せてもらったからね、来年めっちゃ泣かしてあげよ」
そして、部員一同が円になり、結樹が口を開く。
「それでは。今日の練習を始めます」
*
結樹の仕切りがスムーズだったこともあり、抜けた上級生の穴を埋めるように一年生が積極的に動いたこともあり。新体制の始まりとしては良好なスタートだったように、希和には思えた。
しかし一点だけ、どうにも気に掛かることがあった。
練習前、昼休み明けからだったろうか。口数が少なくなった訳でも、笑顔が消えた訳でもない。
無理やりに、いつも通りの自分を演じているように見えた。
加えて、練習にはいつも集中している詩葉には珍しく、聞き返したり、目線がずれていたりすることが多い。その違和感は僕以外にも伝わっているようで、
そして、常に詩葉のそばにいる陽向も、特に詩葉の様子を気にかけているようには見えない。陽向には原因が分かっているのだろうか。
「じゃあ
「うん、了解」
これからは練習後に結樹や
「まれくん」
詩葉に声を掛けられる。もうどうしようなく、動揺が滲み出ている声。
振り返って、僕は言葉を失くす。溢れそうな激情を、決壊寸前の理性が堰き止めているような表情。
「……どう、したの?」
「どうしても、聞いてほしいことがあるから。教室、来てくれるかな」
かつてないほど追い詰められたような詩葉に、何ができるかなんて分からなかったが。
それでも、返事は一つしかあり得ない。
「分かった。すぐ鍵返してくるから、先に待ってて」
足早に用を済ませてから、二年生のフロアに向かう。
夕陽の射し込む教室には、机に座り込む詩葉の他には誰もいない。
「ごめん、お待たせ」
何があったの、と訊く前に。堰が壊れたように、鍵が壊れたように、詩葉は泣き出した。
泣き虫な女の子であったことは、四年前から知っていた。悔し涙も、嬉し涙も、何度も見てきた。
それでも。こんなに苦しそうに泣く姿は、見たことがなかったし、想像したこともなかった。
震える華奢な肩に、支えの手を伸ばそうか、迷う。
だって、君が触れてほしい人は。支えてほしい人は。僕じゃなくて。
「結樹、がね」
――絞り出すように声にした名前、その人でしょう。
けど、その人は。
「
途切れ途切れに、詩葉は訴える。
昼休み。結樹から、真田に告白したことを報告されたこと。
初めて結樹が、詩葉の前で泣いたこと。その後に、晴れやかな顔をしていたこと。
親友に頼られるのは、嬉しいはずなのに。
結樹が誰かに告白したことが、どうしようもなく、どうしようもなく、辛くて、許せなかったこと。
「気づいちゃった。
私、結樹が、好き。
結樹に、ずっと、恋、してる」
認めたくはなかったのだろう。僕だって薄々感づいてはいたけど、気づいてしまいたくはなかった。
それでも。好きな人が、他の誰かを好きなせいで、涙する姿に直面して。
気づくしかなかったのだろう。
女性として女性を愛する、自分の恋の形。
「――まずは、さ。自分のこと、認めてあげよう」
精一杯に、優しく聞こえるように発した僕の声は、震えていた――ごめんね、詩葉さん。
君を好きになるほどに。君が近くなるたびに。君が僕を好きになる未来は、見えなくなっていた。根拠のない予感は限りなく、確信に近づいていった。
それでも。どこかで期待はしていたのだ。君が僕を選んでくれる、そんな未来。
君にとって最上の男性でいられれば、いつか。
その願望が、前提として間違っている可能性に。どうして今まで、きちんと向き合わなかった。
序列の問題じゃない。価値の大きさの問題ではない。
最初から、僕らの恋の形は合わなかった。
「分かんない、分かんない――私、どうしたら、いいかな」
そして今。自分の本当に気づいて、心の向き合い方が分からず苦しむ詩葉を前に。
何を言えばいい。何を答えにすればいい。
僕の言葉は。架空の人間を、どこにもない世界を、活き活きと描き出せるようになったはずなのに。そうして編まれた言葉たちが、あんなに色んな人たちと出会わせてくれたはずなのに。
一番大事な人の心に、何を届ければいいか、分からない。
伸ばしかけた手を下ろし、握り締めた。
僕に色彩をくれた詩葉を、僕は救えない。
僕を照らしてくれた詩葉を閉じ込める暗闇を、僕は晴らせない。
きっと。彼女と同じ側で、同じ形の愛を交わせるような女性でない限り、真に彼女の心に寄り添うことはできない。言葉を尽くさなくても、そうだと分かってしまえた。
例えば、あの子なら――思い浮かんだ顔を、頭から振り払う。
今ここにいるのは、僕だけだ。
だから、伝えよう。
君の本当が、今はどんなに受け入れ難くても。誰にどう否定されようと。
世界でたったひとりの君の、大切な心の在り方を。
僕は肯定したい、この無力な手で支えたい、矮小な声で讃えたい。
「僕は――」
教室のドアが開く。
「やっぱり、ここでしたか」
振り向くと。そこにいたのは陽向だった……ああ、やっぱり、来ちゃったんだ。
来て、くれたんだ。
陽向さん。詩葉さんのことを、きっと君は、分かっていたんでしょう。
君も同じなんでしょう。
だったら。
「陽向さん。お願いだ」
*
部室に着いた瞬間に、陽向は察知していた。
晴れ晴れとした顔の結樹が、片想いに決着をつけたこと。
そしてそれを聞いた詩葉が、ひどく取り乱しているのを必死に押し隠していること。
結樹を責めたくもなったが、そこに一切の悪意がないのは分かっていた。
結樹にとって、詩葉はどこまで行っても親友だ。詩葉が自分に向ける感情――過大に慕い、求め、離れがたく思うそれらも、友情の延長としてしか捉えられないのだろう。
それが恋だと気づくには、結樹の感覚はあまりにも「普通」すぎるのだろう。それを咎めるのは、筋違いにも思えた。
とはいえ。遅かれ早かれ、詩葉は自分の本心と向き合わなければいけなかった。
陽向が予期していたよりは早かったが、しかるべき展開であるのも確かだ。
さあ、どう声を掛けようかと考えながら昇降口で詩葉を待っていたが、なかなか降りて来ない。そして、希和も来ない。
この状況で彼女が希和を頼るという、予想していなかった可能性を確かめに来てみれば、その通りで。
――どうして、こいつなんだ。
しかし振り返った彼と目が合った瞬間に、心の棘は鋭さを失う。
本気で、全霊で、詩葉のことを想って、向き合って。
その強さ故に分かってしまった無力さに、きっと詩葉以上に、彼は打ちひしがれている。
「陽向さん、お願いだ」
絞り出すような彼の頼みに、陽向は頷く。
「ヒナ、ちゃん」
泣き崩れた顔のまま、戸惑ったように声を上げる詩葉に歩み寄る。一歩退く希和と、入れ替わる。
何も言わずに、詩葉を抱きしめる。
「ヒナちゃん……?」
「大丈夫だよ」
詩葉の、熱くなった背中をさする。温もりが伝わるように、身体を寄せる――強張った詩葉の身体が、少し、ほぐれたような気がした。
「結樹先輩が好きだってこと。女の子が好きだってこと。気づいたんだよね。
そうだって考えてなかったから、怖いんだよね。
けど、大丈夫だよ。私も同じだから」
そう告げた陽向を、驚きに見開いた詩葉の瞳が見返す。
「ヒナちゃん、も?」
頷きながら、そっと詩葉へ指を伸ばし、赤い目尻を伝う涙を拭う。
「そうだよ。私も、女性を愛する、女性だから」
自覚してから、誰かに言ったことはなかった。伝えて混乱させる意味もないし、一人で納得できた故に相談する必要もなかった。
いつか、同じ立場の誰かに巡り会うときに、ひとりじゃないんだと、寄り添うために伝えようと思っていたから。
「詩葉さんは、何もおかしくない。私たちは、何も間違ってない。
君には、私がついてる。だから、大丈夫」
「……よかった、ヒナちゃんが、いて」
縋り付く詩葉を、強く抱きしめ返す。
自分の中で描いていた世界が崩れていくのは、きっと怖くて、痛い。
その痛みは、私にも分からない。
それでも。自分の本当に気づく今日が、きっと君の、スタートになるから。
「だから今は。詩葉さんが落ち着くまで、泣いていいから」
その涙の果てに、君だけの虹が見えるから――私が、連れて行くから。
*
泣き腫らした顔を洗うために、詩葉が教室を出ていくまで、希和はずっと黙っていた。
「――さて、希和先輩」
「君はどこまで気づいてるの?」
口をついて出たのは、自分でも聞きなれない、質すような固い声。
「たった今、あなたが失恋に直面した。私にはそう見えています」
「……正解だよ。そして君は、詩葉さんのことも気づいていた訳だ」
「ええ。私はいわゆる、レズビアンです……まあ、バイセクシャルの可能性も捨てきれませんが、多分ないです。
そして詩葉さんも同じだということは、すぐに確信しました」
淀みなく、しかしいつもより声に痛みを滲ませて語る陽向。
僕の記憶は九ヶ月前、市内合同演奏会の日まで遡る。
「まさか。去年の秋に一目会ったときから、気づいたなんて言わないよね?」
「あの日、ステージで歌う詩葉さんに一目惚れしたのは確かです。
そのときに抱いたのは、ただの願望でした。彼女もそうであってほしい、という」
「……じゃあ、君と詩葉さんは運命の出会いだとでも?」
「私には、そう思えました。それがひどく自分勝手な解釈だということは、分かっています」
この行き場のない激情を、陽向にぶつけるのは、間違っているのだろう。
それでも。あんなに強い心を持った彼女なら。僕が何を言ったって、揺るがないだろう。
「……三年半。君が彼女に出会う、ずっとずっと前から、僕は彼女のこと好きだったんだよ。ずっと近くで、優しい友達であろうとしたんだよ、その先で選んでほしかったんだよ、隣にいたかったんだよ」
自分では止められないくらい、声が昂る。尖る。
分かってるんだ。もっと早く告白して、もっと早く諦められれば良かったんだ。
友達でいられなくなったって、別の出会いだってあったはずなんだ。
永遠に来ない、いつかを待たなきゃ良かったんだ。
それでも。
好きでい続けた日々は、どうしようもなく、確かなんだ。
今では、もう。
詩葉に出会う前の自分の心が、思い出せない。
「そうやって重ねてきた想いが無駄だって、こんな形――」
「無駄なんかじゃない!」
陽向が激する声を、初めて聞いた。顔を歪めるのを、初めて見た。
「詩葉さんは。あなたが認めてくれたことが、嬉しかったと。気づかせてくれたことが、支えてくれたことが、嬉しかったと言っていました。合唱部を伝えてくれたことが誇らしかったと、言っていました。
何も無駄なんかじゃありません、全部、あなたがしてきたことは、詩葉さんにとって意味のある一つ一つです。
あなたの優しさは、ちゃんと、支えになってます」
「その優しさで、僕が詩葉さんを守れるだなんて。
君は思っていないはずだよ」
突き付けた言葉に、陽向はぎゅっと目を閉じてから。
頷いた。
「あなたは。他のどんな男性よりも、詩葉さんが安心できる人です。
それでも、あなたが男性である限り、真に彼女に寄り添うことは、救うことは、できない。
だから、お願いです。
諦めてください。あなたに、彼女は守れない」
残酷に、身勝手に思える、その宣言。
しかし、それを突き付ける陽向の顔は、見たこともないくらい、苦しげに歪んでいた。
溢れそうな何かを閉じ込めるように、目を閉じる。
瞼の裏。ずっと瞳に映してきた、詩葉の顔。
「さっき、君が詩葉さんを抱きしめたとき。
詩葉さんは、ほっとした顔してた。迷子の小さな子がお母さんを見つけたみたいだった、けど詩葉さんは、家族の前だってあんな顔はしないはずだ」
詩葉を見つめ続けていたからこそ、自分に都合の悪い正解が、はっきりと分かってしまえた。
「僕は、詩葉さんの恋人にはなれない。
その役目は、君の物だ。
それでも。僕は詩葉さんの友達でいることを、仲間でいることを、絶対に諦めない――隣じゃなくていい、これからだって、そばにいる」
今日だけじゃない。近頃の詩葉は、笑うことが減った。苦しそうに、不安そうにすることが増えた。陰りは濃くなるばかりだった。
その心を閉じ込める陰を晴らすのが誰かなんてことは、大事な問題じゃない。
誰のおかげだっていい。その笑顔の先にいるのが、誰だっていい。
ただ僕は、彼女に笑っていてほしいんだ。
「だから陽向さん、お願い。
柊詩葉を、救ってほしい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます