Ⅲ-11 Now I'm the happiest in the world.

 君たちが、君たちらしく、最後まで青春の道を共に駆け抜けることができたこと。

 そしてその道の途中に、私が関われたこと。とても嬉しく思えました。


 歩いてきた道はそれぞれ違います。これからの道も分かれています。

 忘れたい、言いたくない、人と比べて嫌になる。そんな過去もあったと思います。未来にも、同じことが言えるでしょう。

 それでも、自分の置かれた世界に絶望したその先で、こんなに素晴らしい景色を作れたことは、きっと、この先の未来を拓く力に、照らす光になるはずです。

 愛と誇りを胸に、力強く踏み出してください。


 素敵な時間を、どうもありがとう。


「――以上、海野うんの先生からのお手紙でした」


 コンクールに駆けつけてくれていた、前顧問の海野先生の手紙を、陽子ようこが音読し終えると、拍手が起こる。

「私たちは直接には教わってないですけど。すごく、いい先生なんですね」

 陽向ひなたの言葉に、中村なかむらは力強く頷いた。

「ああ、こんなに最高な先生、なかなかいないぜ」

「……プレッシャーだなあ」

 ぽつりと呟いた松垣まつがき先生に、一斉にフォローが入る。


「いや海野先生は、経験年数の差が」

「そもそも松垣先生は声楽のプロですから、その心強さは別格です」

「それでいて、先生よりお姉さんって感じもしますし」

「私、先生のファンでもありますから」

沙由さゆさんの台詞の破壊力ですよ……」


 審査員からの講評に目を通して。

「この方、男声にやたらケチつけてますけど……」

「例年一人はいる、自信なくすなって」


 録音を聴き直して。

「……これ、本当に私?」

由那ゆなさんですよ、私たちが大好きな由那さんです!」


 先生と下級生の十一人から、三年生の五人への色紙贈呈という、恒例のサプライズがあり。

 返礼も込めて、三年生から一人ずつメッセージがあり。


 最後には、結樹ゆきを中心に下級生全員が並んで。

「先輩方、これまで、本当に、」

「――ありがとうございました!」

 

 そうやって、中村たち41期最後の部活が終わった。

 

 いつもよりも少し湿った空気の中、いつも通りにぞろぞろと音楽室を出て歩く所で、中村は真田に肩を掴まれる。


「これ以上、引きのばしても気まずいぞ?」

「……分かってるっての」

 部活という縛りが解けた以上、早く陽子との関係に決着をつけろ――と言いたいのだろう。

 真田のことなら、紅葉づてに陽子の本心も知っていそうだったが。表情から、答えは読み取れない。ただ彼は、一貫して「告白するなら部活が終わってからにしてくれ」という態度で、「友情が壊れるからやめろ」とは一度も言わなかった。

 もし中村と陽子の距離が遠のいたとして、それは同期五人のうち二人にヒビが入るということで。他の三人にとっても、影響は少なくないはずで。

 そのリスクを分かっていても止めないのは、「他の奴のことは気にするな」なのか、「答えは知っているから」なのか、「お前らはその程度で壊れない」なのか……どちらにせよ、そこにある信頼に、中村は感謝していた。


 陽子のことは、友人としても、仲間としても、この上なく大切で。大好きで。

 それでも。そこに収まらない、世界でただひとりの特別になりたいという感情も、どうしようもなく確かで。

 彼女がそうでないと分かるのは、拒まれるのは、怖いけれど。

 あり得たかもしれない、ふたりで歩く道を失う方が、ずっと怖いのも確かだったから。


 中村は、戻らない時計の針を進める。


「陽子。部室、寄っていかね?」



 

 一年間。ふたりが部長と副部長として長い時間を――今となっては、あっという間だった時間を過ごした部屋は、コンクールを終えた後だと随分と違って見えた。


 中村の誘いに素直についてきた陽子は、何かを察したのか、極端に口数が少なく、緊張しているようで――まあ、そりゃ、誰でも察するわな。このシチュエーションは。


「悪い、急に呼んで。えっと、だな」

 心の中で何回も、何回も整理した言葉のはずが。いざ彼女を目の前に、その一歩を踏み出すのは難しくて。

 だが、幸いにも。


「……話があるなら、はやく、してくれ」

 消え入りそうな陽子の声が、俺の決心を固めた。


「ああ、――鷹林たかばやし陽子さん」

 これまで殆ど口にしたことのない呼び方は、こんなにも愛しく喉を震わせる。

 震えそうに、背を向けそうになりながら、それでも瞳を逸らさない彼女へ。

 もう、迷わずに。まっすぐに。


「俺は。あなたが好きです」


 友達としても仲間としても、大切で大好きだけど。

 ひとりの女性として、心から大好きです。

 だから、俺をあなたの恋人にしてくれませんか。


 そう続けようとした言葉の続きよりも、先に。


 激しく突き抜ける、柔らかい温もり。

 陽子が俺の胸に飛び込んできたのだと、遅れて気づく。


「ずっと、ずっと、ずっと」

 堰を切って溢れる、潤んだ声。

「聞きたかった、言いたかった! オレだって!」

 俺を見つめ返した彼女の瞳は、見たこともないくらい、涙が溢れて、煌めいていて。


「――私も。あなたのことが、好きです」

「俺の恋人に、なってくれますか」

「あなたの恋人に、なりたいです」

「――だから、泣くな」

「泣かせろ、ばか」


 涙の止まらない彼女を抱き寄せ、髪を撫でる。

 想いが叶ったのなら、とても嬉しいのだと思っていたが。


 いま、胸を満たす感情は。嬉しいだとか、喜びだとか、幸せだとか。そんな言葉では足りないくらい、記憶にあるどの瞬間にも見つからない感情で。


「直也が。オレのこと大事にしてくれてるの、信じてくれるの、ずっと分かってて。嬉しくて。だから、付き合いたいとか余計なこと言って、裏切ったらどうしようって」

「俺が陽子のこと好きなの、先輩にもあいつらにもバレバレだったぞ? お前こそずっと前から気づいてたんじゃって思ってたけど」

「その言葉、そのままお前に返す」

「……やっぱり呆れるくらい似てるな、俺たち」

「どうせ。これからもっと似るだろ」

「お前らしさが移るなら歓迎だっての」

「オレが移すより多く、オレに移せよ」


 抱きしめた身体を通して、彼女の鼓動が伝わること。俺の鼓動が、彼女に響くこと。

 触れ合う頬が、柔らかいこと。背中をさする掌が、骨をなぞること。

 汗と制汗剤のどちらでもない、甘い匂いが鼻腔をなでること。

 短い髪が、指の間をくすぐりながら流れていくこと。


「ねえ。キス、したい」


 触れ合う唇は、舌は、ひんやりと瑞々しいようで、熱いようで、涙の味がしたこと。

 彼女の喉から漏れる声が、俺の喉を通る彼女の呼気が、身体の奥を震わせること。

 離れかけた瞬間に確かめたくなって、もう一度重ねたこと。


「……お前が、好きでいてくれて、良かった」


 何度も目にしてきたはずの笑顔が。

 世界を、こんなに美しく照らすこと。


 その全てが、愛しくて、愛しくて、たまらないことを。

 これまでの何もかもを、これからの何もかもを、この瞬間の愛しさで肯定できそうなことを。

 お前が好きでいてくれる俺を、心から嫌いになることなんて、できないと思えることを。

 伝えるための言葉が、今の俺にあるとすれば。


「今、俺さ。世界で一番、幸せだと思う」

「オレの方が幸せだっての、ばか」

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