Ⅲ-10 Super glory in our hands.
三年間の合唱部で、最後の舞台。
それまでで一番、緊張するかと思っていたのとは裏腹に。意外なくらい、
そして今までで一番、幸せに歌えていた。
今まで歩いてきた道は、決して間違いじゃなかった。信じていたその想いが、確かな実感となって胸を満たしていた。
自分たちのベストを更新したという手応えと共に、課題曲を終え。横にいる仲間の表情に視線を向けたくなる衝動をこらえつつ、先生の指揮を待つ。
再び掲げられた手に、再び意識の水準を引き上げる。全身の細胞が、歌うためだけに駆動するかのような錯覚。
無伴奏混声合唱のための「カウボーイ・ポップ」より、「ヒスイ」。
中村たち41期全員が、二年生の頃から好きだった曲だ。最後のコンクールはこの曲でと決めていたので、他の部員や先生の支持も得られたのは幸運だったが。
四声が広々と駆け巡り、まとまり、詞は遠い大地の物語を描く。お手本の音源ほど上手くはないだろうが、ステージで自身の声と合わせて聴く仲間の歌声は、どんなプロの音源よりも好きだった。
自分の左側、バス。入部当初から驚くくらいレベルの高かった
右側、テノール。難しいと盛大に悲鳴を上げながらも、声に耳を傾ける表情は真剣だった
アルト。今の合唱部のチャレンジに不可欠な、そして歌いながら楽しそうな表情を見せることが増えた
誰よりも大好きな女の子で、誰よりも信頼する相棒だった
一番遠い、ソプラノ。見せる表情のひたむきさも悔しさも明るさも人一倍だった
ホールじゅうを力強く駆け巡る清らかな高音が、クライマックスへと昂揚する四声と絡み合う。行け、輝け、由那――俺たちが大好きなお前の声を、一人でも多くの心に。
そして、主題を歌うメロディが、暖かい色に一転する。
“ヒスイを、君のてのひらに”
はみだしでばかりだった、人並みに思うように混じれなかった、ひとりひとりだけど。
偶然に出会って、惹かれ合って、自分たちを磨き合って。
重なった色は、こんなに――こんなに、眩しい、光になった。
それぞれの手に握り締めた光を、精一杯に放つ。
そして、目指した栄光を、俺たちの手に。
届いた、掴んだ、そう確信した。
高らかに歌い上げた後の、静寂。
いつもよりも苦しくない――さあ、最高のまま最後まで駆け抜けるぜ、みんな。
息を吸う。同じ空気を、一斉に吸う。
最後の数小節。これまでの合唱部での日々が、合わせた歌声が、交わした笑顔が、奔流となって脳裏に押し寄せる。
――ああ、俺は。
俺は、本当に。
この場所で、この仲間たちと出会えて、幸せだった。
最後の一音を思いっきり響かせ、切る。残響が消えていくのを感じながら、全身の力が抜けそうになる――まだ、ステージの上だ。
お辞儀をし、拍手を浴びた先生が捌けるように合図し、上手側へと歩く。舞台袖を抜け、廊下へ出た所で、先生から「一旦外出よう」と指示があった。
ホールの外は、先ほどと同じ快晴。しかし、ステージを終えたばかりの中村には。
「いつもより、澄み渡って見えません?」
思っていたことは、希和が口にしていた。
「同感だよ……なあ飯田。俺、どんな顔だ?」
「……めっちゃ幸せそうですよ」
「だろ?」
少し目の潤んだ飯田と話しながら、全員が揃うのを待つ。
例年だと、ここで誰かが泣き出すタイミング、だが。
「みんな、みんなあ……良かった、すごく良かったあ!」
その先陣を切ったのは、
つられて泣き出したり、寄り添ったり、視線を逸らしたり、笑ったり。色とりどりの表情を見回しながら陽子を探したが、彼女は由那と固く抱き合っている所だった……まあ、話すのは後でもいい。
代わりに、少し離れた場所にいた福坂に声を掛ける。
「福坂。どうだ、楽しかったか?」
すると福坂は、しばし空を仰いでから。
「自分がまた合唱に夢中になれるのか、不安だったんですけど。やっぱりここで歌うことを選んで良かったです。先輩方のおかげで、すごく楽しかったです」
「そりゃ何より、先輩冥利に尽きるわ……頼むぞ、これから」
「ええ」
落ち着いた松垣先生が、全体に声を掛ける。
「はい、えっと……ごめん、泣いちゃった。けどそれくらい、良いステージだったよ。
先生やるのも、部活の指導やるのも初めてで、ちゃんとみんなの先生できてるか、ずっと不安だったけど。
ひとりひとり、すごく頑張ってくれたから。ほんとに、みんなに感謝してます。誇りに思います。
きっといい結果がもらえると思うけど、もしそうじゃなくても。私たちが出せる最高のものは出せたから、絶対に自信持ってね」
力強く頷いて、陽子が答える。
「先生も。私たちは感謝してます、誇りに思います……先生の初めての生徒が私たちだったこと、心から嬉しく思います」
互いを讃え合う、俺たちの間を。
熱しすぎた心を冷ますように、涙や汗を乾かすように、爽やかな風が通り抜けた。
そうは言っても、やはり結果は気になる訳で。
ステージ特有の熱が引き、結果発表が近づくにつれ、部員たちのそわそわは加速していた。特に陽子は、傍目にも分かるくらい落ち着きをなくしていた
「なあ陽子、もう少し落ち着こうぜ」
「落ち着こうとしてるっての、なあどうすりゃいい」
「……何もするな」
「それができない性格だって知ってんだろ」
渦巻く感情をよそに、会場の時計は順調に進み。表彰式のため、陽子がステージに向かう。
「じゃあ、オレは行くから」
「うん。心は一緒だから」
「泣いても大丈夫じゃない? 陽子はどっちでも泣きそうだけど」
由那と紅葉に見送られ、歩き出そうとする陽子を呼び止める。
いつもだったら、「行ってこい」と声を掛ける所だったけど。今日は、そうじゃなくて。
「陽子。行ってらっしゃい」
彼女は目を大きく開き、それから吹き出して。いつも通りの、笑顔。
「――うん、行ってきます」
司会の先生が、次々と校名と賞を読み上げていく。各校の代表者が、賞状を受け取る。
時に、席から上がる悲鳴。溜息。絶句。喜びと、悲しみと、安堵と、落胆と。
何百人もの感情が折り重なり、会場の中で希釈されてしまうようにも思えて。そのときの感情は簡単に消えてくれない。
「――雪坂高校合唱部、」
部員たちの間に走る緊張には、一切の注意を向けず。
中村はただ一点、陽子の表情を見つめる。
「きんしょう、」
金、か。
「――ゴールド」
雪坂の部員たちが歓喜に息を洩らす、その一拍後に。
ステージの陽子の顔が、美しく歪む。堪えていた不安が融けて涙になったのが、見えた気がした。
賞状を受け取り、深く頭を下げてから、正面にも一礼。
彼女の、涙で滲む視界に広がる景色は、きっとこの上なく美しい――そうだろ、陽子。
お前が掴んだ、俺たちが掴んだ、輝きだ。
やっと、自分の席の周りに意識が戻り。
紅葉。今まで見たことのない、誇らしげな――自分への誇らしさに溢れた顔をしていた。
真田。人知れず背負っていた重荷を下ろしたような、解き放たれたような顔をしていた。
由那。自分の居場所を、自信の支えになるような場所をやっと見つけたような、安心しきった泣き顔だった。
そうだ、結局俺たちは。自分たちの楽しさだけで満足していたようで。
周りの目など気にしていなかったようで。
周りが自分たちを認めたという証が、
閉会後、ホールの外に出ると。
「あ、お
一同を出迎えてくれた倉名は、困ったように笑っていた。
「みんな、お疲れ様、おめでとう。本当に嬉しい」
「ありがとうございます、ところで」
「ああ、
倉名が指さす先、
「過去最大級の涙の雨で。収まったと思ったら、君らが目に入った途端に泣き出したから、僕は手に負えなくて」
あの人、好きな人のことになると涙腺ゆるゆるだからな……
「陽子」
「ああ、迎えに行こう」
由那と陽子が、和可奈の元へ歩み寄って行った。
続けて倉名は、一年生たちに目を移す。
「どうよお兄、私の今の仲間たち」
前に出た香永が胸を張る。
「羨ましいくらいに格好いいよ。一年の皆、初めまして。去年までいたOBの倉名栄太です……後、妹がお世話になってます」
丁寧に挨拶する倉名に、慌てたように清水が答える。
「こ、こちらこそ。香永さんには非常にお世話になって……しかし、その」
「似てない、でしょう? よく言われます」
笑う倉名。そこに香永が近づいてぐいっと肩に腕を回す――うわあ、やっぱ仲良いのな。
「もっと褒めろよお兄、どうせ来年まで会わないんだし!」
「うお……分かったよ香永、だからはしたない真似はよして」
仲睦まじい兄妹の様子を微笑ましく眺めていると、背中を柔らかい感触が突く。
「直也」
「ああ、和可奈さん」
涙腺決壊から復活したらしい和可奈もまた、見たことのないくらい嬉しそうな、満ち足りた顔をしていた。
「ありがとうね。みんなが見せてくれたの、最高の景色だったよ」
「お礼言うのは俺たちですって。俺たちがまとまれたのも、こんなに上手くなったのも、和可奈さんと倉名さんのおかげですよ」
「それは違うよ――って謙遜するのが正しいんだろうけど。ごめんね、今は頷かせて――君たち、私たちが先輩じゃなかったら全然ダメだったんじゃない?」
「言いますねえ!?」
和可奈は悪戯っぽく笑ってから、真面目な顔で続ける。
「けどね。君たちという後輩がいなかったら、私たちはこんなに幸せな青春を送れなかったってのは、それ以上に確かなんだ。
だから、ありがとう。みんなのこと、大好きだよ」
松垣先生に挨拶に行く和可奈を見送ってから、中村は語り合う部員たちを眺める。
卒業生まで含めた、四世代。本来は揃わない彼らが一堂に会している風景は、胸を熱くさせた。
こんなにも大好きな人たちの間で。
バトンを受け取った、共に駆け抜けた、望んだ光を手に入れた。
そして今、中村たちはバトンを渡す側にいる。
「希和」
「は――はい?」
いつもと違う呼び方に驚いたような顔をする希和を、力いっぱい抱きしめる。
「うっお……なか、あ、直也さん!?」
「頑張れよお前ら、世界で一番楽しみにしてっからな!」
「頑張りますけど! 世界で一番は荷が重いです!」
「安心しろ、こっちで勝手に馬鹿みたいに盛り上がってるからよ」
夏空の下。ひとつの旅路が終わり、ひとつの旅路が始まった。
それと同時に。
いくつもの心が秘めてきた想いが、人知れず巻き起こす嵐が、すぐそこまで来ていたが――彼らがその気配を感じていたとしても。
今の彼らを照らす、彼らの掴み取った光は、あまりに眩しかった。
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