Ⅲ-9 We sing right here.

 本番を前にした、緊張と昂揚を含んだ独特の空気。懐かしい感覚を味わいながら、倉名くらなは今回のNHKコンクールの会場へと歩いていた。

 近くでは母が、うるし家の……沙由さゆの母と盛んに喋っている。倉名の妹の香永かえと沙由は小学校から一緒だったこともあり、両家は母娘ともに仲が良いのだ。

 盛り上がっている母と反対に、父はどこか所在なさげというか、退屈そうというか。

「おい栄太えいた、演奏中に寝てたら起こしてくれ」

 なるほど、眠いのか。

「いや、僕は別の所で聴いてるんだって」

「ありゃ、そうか。コーヒーでも買ってこねえと」


 エントランスに近づくと、待ち合わせていた和可奈わかなが目に入る。向こうもすぐに気づき、笑顔でこちらへと歩いてきた。

「あら、和可奈ちゃん! またお洒落になったわね~、大学どう?」

「こんにちは、ありがとうございます! 見ての通り、色々楽しくやらせてもらってます」

 母のうるさいくらいに勢いのある挨拶に、模範解答のような明るくハキハキとした受け答えをする和可奈を眺めながら。相変わらず、彼女の愛想のよさは鉄壁だなと思う。

 無理して取り繕っているのではなく、半ば自然にそう振舞えるらしいのが、彼女の恐ろしい所の一つであるように思える。


 母が和可奈との会話を途切れさせる気配がなかったので、半ば遮るように声を掛ける。

「お母さん。じゃあ僕は、山野やまのさんと聴いてるから。また後で」

「はいはい、しっかり香永のこと祈ってるのよ! じゃあ、和可奈ちゃんも」

「はい、すみませんが栄太くんお借りしますね」


 両親たちがホールへと入っていくのを見送ってから、再び和可奈と向き合う。

「さて、と。久しぶりだね、倉名くん」

「うん。メールで聞いてた通りに元気そうで……充実してそうで何より。楽しいでしょ、大学」

「そうだけど……別に、遊んでばかりじゃないよ?」

「君が勉強さぼるとは僕も思ってないって。ただ、全力で楽しんでるんだって顔に書いてあるから」

 君のそういう表情の眩しさが、僕の青春を照らしてくれたんだ……とは、さすがに今は言えなかったが。

「……そんなこと言うの、君くらいだよ。見透かされてるなあ」

 口をとがらせる和可奈に、少し笑ってから。


「ところで、みんなの近況はどう聞いてる?」

 みんな、雪坂ゆきさかの合唱部。倉名も連絡は取っていたが、恐らく和可奈の方が頻繁に話は聞いているはずだ。

「なかなか良い仕上がりみたいだよ。もしかしたら金賞ゴールドに届くんじゃって話も奏恵かなえとしてた」

「金、ねえ……去年は銀の中でも上位だったし、一年の子も有望だって聞いてるから、強ち夢でもなさそう」

 コンクール金賞。少なくとも過去十年間で成し遂げたことはない領域だ。

「賞がどうだろうと、あの子たちが悔いのないように歌えればいいんだけどさ。客観的にも誇れる成果っていうのかな、そんな何かがあの子たちには必要だとも思うから」

 恐らくは奏恵や由那ゆなといった、自己肯定感が著しく低いメンバーのことを考えているのだろう。悔いはなかった、楽しかった、けど指標となる成果は振るわなかった……それを前向きに受け入れられる部員は少なくないだろうが、ひどく虚無を抱える人も、また確かにいるのだろう。


「けど、どんな結果であろうと、僕らはさ」

「うん。全力で褒めてあげよう」

 頷きを交わしてから、二人は客席へと歩き出した。


 *


 ステージに張り詰める静謐な空気を縫って、美しい歌声が響く。

 誰にとっても青春を懸けているであろう瞬間の緊張感に、舞台袖の希和まれかずは膝が震えているのを感じていた。

 今は、出番がひとつ前の高校の自由曲が披露されている。あと数分もしないうちに、希和にとって最初のコンクールが、そして三年生にとっては最後のコンクールが始まる。

 演奏会や文化祭でステージに立つことは経験済とはいえ、やはりコンクールの空気は鋭さが違う。

 自分が積み重ねてきた、あなたたちと一緒に積み重ねてきた努力に。

 ちゃんと、報いることができるだろうか。

 あなたたちの美しい歌を、乱してしまわないだろうか。


 そんな不安を受け止めるかのように、後ろにいた中村なかむらの手が、両肩に置かれた。振り返ると、彼はいつも通りにリラックスした、しかしいつも以上に優しい目で、僕を見ていた。

 安心しろ、俺たちなら大丈夫だ、と。そう言っているのが、分かる気がした。

 頷いてから、右手を掲げ。静かに、拳を突き合わせる。

 そして、袖で待機している部員たちを見渡す。

 出会ってから過ごした時間の長さも、濃さも。僕からの見え方も、僕への見方も、みんなそれぞれ違うけれど。

 ひとりひとり、ほんとに格好よくて、愛しい人たちだから。

 その手に、最高の輝きを。

 

 希和の視線がソプラノパートに差し掛かった頃、陽向ひなたと寄り添っていた詩葉うたはと目が合う。いつも以上に緊張していそうな、しかしそれ以上に熱く燃え上がる意志を宿したような、そんな表情。

 ……最近は、思い出すことも少なくなってきたけどさ。

 この合唱部に僕が関わるようになったのは、詩葉がきっかけだった訳で。

 彼女が大好きな場所を、僕の力で広く伝えることができたなら、そう思って取材に踏み込んで……居心地が良すぎて、結局入部して。

 同じ部活に入れば、距離もさらに縮まって……付き合えるようにもなるんじゃないか、そんな甘い期待とは裏腹に、君との距離感は複雑になるばかりで。情けない姿を見せてしまうばかりで、こんなはずじゃなかったと憂鬱になる日もあるけれど。

 

 それでも。

 君が連れてきてくれたこの場所は、僕と君とみんなで歌うこの今は。

 その先に何が待っていても、ずっと色あせない宝物になるから。


 ありがとう、まだ宜しく――頑張ろう、ね。

 そんな想いを込めつつ、頷いて。同時に笑顔を返してくれた詩葉の胸中は、分からないが。


 視線が一周して。すぐ前にいた福坂ふくさかもこちらを見ていた。

 寡黙で、表情の変化も乏しくて、しかし歌の実力は折り紙つき。同じパートで練習していて、常に僕よりも習得は早くて、ときには遠慮がちに中村のミスを指摘したりもしていた。

 何を考えているかは分からないなりに、自分のことを疎ましく思っているのだろうという予感はあった。

 だから、少なくとも合唱においては、自分が彼の先輩だとは思わないようにしている。

 それでも、後一年を共に歩む仲間であることには変わりはないから。

 少し迷ってから拳を掲げると、彼はわずかに眉を動かしてから、それに応えた。

 拳が合わさる。前団体の最後の歌声の残響が消え、拍手。


「さあ、いよいよだよ」

 松垣まつがき先生が小声で言い、部員たちが整列する。

 ステージにいた生徒たちが係の生徒が合図をした所で、福坂の背中をそっと押し、続いて希和も歩き出す。


 スポットライトの眩しさ。ホールを埋め尽くす顔の見えない聴衆。

 緊張は加速するかと思ったが、むしろ引いていった――大丈夫、いつも通りに。


 松垣先生の礼、客席から拍手。

 そのどこかにいるはずの、和可奈と倉名に想いを飛ばす。

 あなたたちが導いてくれた道の続きから。あなたたちが磨き上げた輝きの反射を、響かせた歌声の反響を届けます。

 もらった幸せを、全力で返します。受け取ってください。


 松垣先生がこちらを向き、指揮の態勢に。部員たちも、歌う姿勢を整える。

 先生の手が閃き、決して戻らない「本番」の時計の針が動き出す。


 課題曲、「ここにいる」。


 練習を始めた頃。新しい課題曲を味わいつつも、前年の課題曲……というよりも、それを歌う部員たちの鮮烈な印象が色濃く残っていた希和は、いまひとつ気持ちを切り替えられずに。

「今回のも素敵ですけど、去年の方が正直好きですよ」

 と、中村に話したことがある。

「ん、そうか? この曲、飯田っぽいような気がしてたんだが」

「と言うと?」

「だってお前、言葉選び結構気にするし。たまに寂しそうってか、居場所を探すような目をしてるし」

「……先輩、実は思慮深い人ですよねやっぱり」

「昨日、陽子ようこに真逆のこと言われたぜ」


 そんな中村の言葉が予言になったかのように、僕は次第に、この曲にのめり込むようになっていた。

 自分が分からなくて、分かってもらえなくて。見つけたくて、見つけてほしくて。

 伝えたい自分は確かにいるのに、伝えるのはそう簡単なことではなくて。


 それでも、伝えることを諦めずに。胸にうずまく言葉にしきれない感情を、言葉に託して。伝えた先に、自分を塗り替える言葉があると信じて、日々を歌う、自分を歌う。


 そしてそれは、自分だけじゃなくて、誰しもがそうだ。「あなた」も同じように歌っている、全く違う感情を託して。


 そんな歌声の、言葉の重なり合いが。一つ一つは違う、けど同じ場所で確かに重なる色彩が。

 他のどこでも見つからないような、鮮やかな輝きで自分の世界を照らすことを、僕は知っている。僕たちは、知っている。

 

 だから、今度は。僕たちが掴みかけている色彩を、輝きを、もっと確かにするために。もっと、広く届けるために。


 音に乗せた、言葉を置いて。

 息を吸う。

 届け、響け、力強く。

 僕たちは。


“ここに、いる”

 

 *

 

 美しく、しなやかに、表情豊かに、力強く。

 倉名が愛した彼らの歌が、ホールの神聖な空気を満たしていく。


 後輩たちが、混声合唱のスタンダード一本ではなく、様々な音楽に踏み出していたことは知っていた。それは部にとってプラスになる良い変化だと、倉名は基本的に捉えていた。しかし一方で、和可奈と自分が先頭になって築き上げてきたものが無駄になってしまうのではという不安も、ゼロではなかった。

 それならそれで、現役である彼らが選んだ道だからと、自分は既に部外者だからと、苦い感情はしまい込むつもりではいたが。どうやら、それは杞憂らしく。


 間違いなく、上手い。去年に引けを取ることは確実にないし、倉名が後輩たちに抱く愛着による贔屓目を差し引いても、去年の自分たちや他校のレべルよりも抜きん出ているように聴こえた。


 ふと隣を見ると。一曲目の途中だと言うのに、和可奈の横顔には幾筋もの涙が光っていた。演奏中に泣く予定じゃなかったのにと、目元を押えながら、しかしステージからは目を逸らさずに。

 彼女の、涙で滲む視界に広がる景色は、きっとこの上なく美しい――そうでしょう、山野さん。それが、君が掴んだ、君へのご褒美だ。


 改めて、ステージに目を向ける。

 下手でどうしようもない当初からは大きく成長した、それでも思い描いたレベルには程遠かった、自身の歌。

 誰よりも大切だった彼女と、誰よりも大好きだった彼の和音に、ノイズを入れる訳にはいかなかった、諦めるしかなかった自身の恋。

 

 薄れはしても消えはしない、青春の痛みを。

 優しい色に塗り替えてくれたのは、今ステージで歌っている、君たちだ。

 

 ――さあ、後少し。精一杯、輝き抜いて。


 倉名の祈りに応えるように、美しい和音と共に、課題曲が幕を閉じた。

 いつも以上に温かく聞こえる拍手の後に、再び松垣先生が指揮を執り始め。


 駆け上がる旋律と、流れ落ちる旋律のハーモニーと共に、自由曲が始まった。

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