Ⅲ-7 Don't make light of us!
NHKコンクールの県大会を目前に控えた頃。
合唱部の部室には、三年生から
「42期でもう一度話し合って、改めて決定しました。正部長は私が、副部長は
結樹の言葉の通り。次代の正副部長についてのミーティングだ。
「なるほど……まあ、予想通り?」
「ああ、順当だわな」
陽子の回答に、中村も同意する。
入部当初から、精神的にも実務面でも42期のリーダー役であった結樹が部長になるというのは、部内の誰にとっても意外なことではないだろう。強いていえば、最近やる気が猛烈に高まっている
「一応だけど、異論はなかったの?」
陽子の問いに、結樹は苦笑する。
「誰かが立候補したら譲る気だったのですが、私以外の全員が一斉に推薦してきたもので」
「勿論僕らも、結樹さんが嫌であれば再考したんですけど……まあ、引き受けちゃったので」
そう答えた希和は副部長に。リーダーっぽい雰囲気はないし、むしろ気弱そうにも思えるのだが。鈍感なのか割り切りがいいのか、仕事絡みや事務的なコミュニケーションにおいては意外と物怖じしない男子だということは、中村にもなんとなく分かっていた。そうでなければ、一人で部活の密着取材に乗り込んできたりはしないだろう。
まっすぐだが緊張しがちな
「ちなみに、
残る一人について陽子が質問すると。
「彼女、形式的なの嫌いらしくて、先生方との折衝とか嫌がってまして。精神的には引っ張っていってくれそうですけど」
言われてみれば納得の理由だった。
「なるほどな、みんな納得しているなら良かったよ……じゃあ改めて、これからを宜しく」
陽子の言葉に、二人は力強く頷く。
それから、三年生から二年生へと引き継ぎの説明をする最中。中村は、
尊敬する先輩たちみたいにはなれないですよ、と言った中村に対して。倉名の返答は「僕らみたいにはならないで」だった。
「たった二人で頑張らなきゃいけなかった僕らとは違う。君たち五人は、五人だから誰よりも強い……陽子と二人でどうにかしようとか、思わない方がいいよ」
その言葉の通り。能率の都合上、正副部長である二人だけでこなしていた仕事も少なくはなかったが、意識しなければ「
それに正副部長間の関係を取っても、明らかに別種の空気をまとっていた和可奈と倉名とは違い。中学時代の苦い思い出から、中村が名目上のトップを避けただけであって、実質は限りなく対等というか、同類であったように思う。
「……とまあ、俺らはこんな形でやってたけど。全体の迷惑にならなければ、お前らで好きなように変えていいぜ。ってのも、和可奈さんたちから言われたんだけどさ」
中村の補足に、二年生の二人は顔を見合わせて。
「多分、お互いやりやすい間合いは掴めてるからね?」
「ええ。存分に顎で使ってくださいよ」
「撤回してくれ、人聞きの悪い……」
軽口を叩きつつもしっかりと意志を確認している二人を見て、安心する。
俺たちよりも大丈夫だから、きっと大丈夫だ。
今日の分の伝達を終えた所で、結樹と希和を帰らせる。さらに陽子との打ち合わせを終えた頃には、かなり遅い時間になっていた。今日は、だらだらと喋るよりはさっさと出た方がいいだろう……そう考えながらも、どこか元気のなさそうな陽子の様子が気に掛かる。
「じゃあお疲れさん、もう出るか」
「ああ、うん……」
窓の施錠や電化製品類のスイッチを確認し、鍵を取って部室から出ようとした所で。
「……陽子?」
背中に広がる、柔らかな温度。遅れて伝わる爽やかな香り。
首を捻って伺うと。中村の背中に寄りかかって、陽子が背中を預けていた。
好きな人との、予想外の距離が。嬉しくて、怖くて、心臓が暴れる。
……俺が、せっかく今まで、堪えてきているというのに。
「どうした。本番が不安か?」
せめぎ合う内心を悟られないように、できるだけ優しい声で問いかける。
「……さすが
「別にいい、好きにしろ」
しばらく押し黙っていると、陽子がぽつぽつと喋りだす。
「終わっちゃうまで、あと一週間もないんだ……どんなに頑張りたくても、もう、戻れない」
「十分すぎるくらい頑張ってきただろ。最後だけど、一番の舞台なんだ。楽しもうぜ」
「分かってるけど……みんなが、誰かが、後悔していたらって」
「あのな、陽子。部活に居る全員の感情に責任持てるほど、俺たちは偉くないんだ」
中村の言葉に、陽子はびくっと身体を震わせる。
どんなに通じ合っていても、どれだけ濃く長く一緒にいても、俺たちは結局別々の人間だ。
居合わせた人数分のひとりひとりの内心を担保できるだなんて、それこそ思い上がりだ……というのは、倉名が言っていたことなのだが。
だから。誰かの後悔を、自分の後悔として背負う必要はない。
一方で。
「だからって、最後で手を抜くような自分を、お前は許さないだろ……それでいい、お前はそれがいい」
返事はない。その代わり、背中に掛かる重みが増した。
腰の辺り、陽子の手が微かに触れる。行き場を探して泳ぐ彼女の手を、迷いながら……迷いながら自分の手で受け止めると。想像以上の強さで、握り返してくる。
普段の勝ち気な振る舞いからすると、怖くなるくらい、細くて柔らかい陽子の掌。
痛くないように、心細くないように。強さに迷いながら、力を込める。
「お前自身を信じろって言っても難しいのは知ってる、俺だって俺のことは信じきれないさ。けど、【俺たち】なら信じられるだろ」
愛情を注がれるべき時期に、実母から虐待を受けていた
彼女のために、自分の人生を捧げると決めた
友達というつながりを、一度は信じられなくなった
自分たちには想像のつかない辛さと、自分たちが遠く及ばない才能を持った三人に比べて。陽子と中村は、よくも悪くも普通だったが。普通だったからこそ。
自分たちは、彼らが安らぐ居場所の支えにならなきゃいけなくて。
自分たちは、彼らとじゃなきゃ特別になれなくて。
そんな予感を、知らず知らずのうちに共有して……その予感は、駆け出した先で、次々と確かになっていった。
「……この世代が最強だって、バカな思い込みをしたままで」
「したままでいいんだよ、誰も傷つけてねえしな」
握り返す手の強さが、ふっと緩んだ。
「他の誰がなんと言おうと、オレたちにとって最高の居場所は」
「ここだ、だから今の俺らは最強だ。そうだろ?」
自分らしくあることが、誰かにも受け入れられること。それが叶う場所がここにしかないような、歪な個性の集まりだから。
ここでしか叶わない夢があるなら、それはここで叶う夢だ。
……なんて。
「――ほんっと、発想がガキだなオレたちは!」
陽子が笑うのと同時に、つないだ手がほどけ、体温が離れる。
彼女が調子を取り戻したことに安心して。離れていく温もりを惜しむ気持ちには蓋をして。
「まだウジウジすんなら、気合い入れてやんぞ?」
中村はそう言いながら陽子の額に手を伸ばし、いつも通りに発動しないデコピンを作る。
「余計な、」
陽子はいつも通り、素早く中村の手を払いのけ。
「お世話だ」
その手の中指で、中村の額を弾く。もう何十回も繰り広げてきた茶番であるが。
「……いつもより痛えんだけど」
「すまん、ちょっと気持ちが乱れ……あ、はは、悪ぃ、ははは!」
謝りかけた陽子が、中村の方を見て笑い出す。
「いや、その、髪に当たって、アホ毛みたいに」
言われて、スマホを出して確認すると。確かに、前髪の一部が不自然に跳ねている。
「……」
無言で撫でつけて元通りにすると、「あーー、写メろうと思ったのに」と陽子から抗議。
「うるせえな、早く行くぞ」
「分かったって……なあ、直也」
「うん?」
呼び止める真面目な声に振り向くと、一拍遅れて。
「ありがとう、な」
少し照れたような、しかしそれ以上の信頼のこもった陽子のまっすぐな瞳を、中村はまっすぐに見返せなかった。
「……そういうのは、終わった後まで取っとこうぜ」
お前に伝えたいことが、たくさん。
本当にたくさん、あるから。
そのときに、悔いなく伝えられるように。
後少しの今を、迷いなく、
*
コンクール前日、部室での決起会を終えた後。
恒例の集合場所となった紅葉の自宅に、三年生の五人が集まっていた。
「こうやって集まるのも、もう最後かな」
由那の名残惜しそうな呟きに、台所の真田が答える。
「どうせ、部活が終わったって……
食器を並べながら、紅葉も続ける。
「おばあちゃんがここに住めなくなったら引き払うけど……まあ、場所は変わるにせよ?」
「数年後もお前らとって、変わり映えしねえな……まあ、いいけどさ」
言いながら、中村はこれまでの彼らとの日々を思い出す。
初めて会ったときは、なんだこの癖の強そうな連中だ、と思ったが。一緒に過ごすうちに、不思議と居心地が良くなって。お互いの癖が、
気づいたら、部活の中でも外でも、一緒にいるのは、いたいのは。
「……呆れるくらいさ。みんなしかいなかったよ、あたしには」
中村の思考の先は、紅葉が口にしていた。
出会って、まだ二年と少ししか経っていないはずなのに。これまでの出会いが霞むくらい、これからの出会いに期待しないくらい。ここではないどこかにいる自分が、怖くなるくらい。
大好きな友人たちだったし、大事な仲間たちだった。
「死にたいって思わなくなったのは、ケイのおかげだけど。生きていて良かったって思えたのは、みんなのおかげだからさ……ほんと、最高の時間だったよ」
そう続いた紅葉の言葉に、陽子が異を唱える。
「……だったよ、じゃねえだろ」
「え?」
「一番楽しい時間は、まだまだこれからだ……今がこれまでで最高だったとしても、まだテッペンじゃない」
夢見がちな楽天思考に聞こえる言葉の裏の、「そうであってくれ」という祈りに、中村は気付いていたが。表面だけしか気づかないふりをして、いつも通りに茶々を入れる。
「ポジティブバカがなんか言ってんぞ」
「空気の読めないバカがいるな?」
「まあまあ」
呆れたように笑う由那。
「……確かに陽子は、前向きすぎて引くことあるけどさ?」
「ちょっと由那さん?」
「そういう陽子だったから、私は合唱部に入っていいって思えたんだよ」
「……あったな、そんなことも」
一年生の春。集団の輪に入れない自分がいたら絶対に迷惑だからと、一度は入部を断った由那に。まずは外で一緒に歌ってみようぜと、陽子が声を掛けて。半ば強引に付き合わされた中村と、面白がってついてきた真田と紅葉と……いま思えば、この五人特有の近すぎる距離は、あの頃から作られ出していた。
「だからさ。陽子のそういう所、大好きだよ」
「由那、結婚しよう」
「それは嫌だけどさ」
「ケイ、結婚しよっか」
「成人まで待つ約束だろ?」
「……なんなんだこいつら」
それから、夕飯を食べながら思い出話に耽り。あれもこれもと脱線する前に、手早く後片付けをして。
帰り支度をしてから、自然と輪になり。
「…………」
「陽子、一応お前部長だろ」
「いや、ここ
「家主権限で命ずる」
「あーうー、はいはい」
締めの言葉を任された陽子が、息を溜め込んで、吐いてから。
「じゃあ……みんな。ありがとうは、まだ言わない」
「オレたちは同期として最高で最強だった、それは間違いない。
後は。この人たちが先輩で楽しかったって、自分たちも頑張ろうってあの子たちに思ってもらうのと。
この子たちが後輩で楽しかったって、頑張って良かったって、あの人たちに思ってもらう。それだけだ」
頷いて、誰からともなく肩を組む。
辿ってきた道は違いすぎるけれど。今、それぞれの心が見据える方向は、どうしようもなく同じだ。
「じゃあ、行くぞ――オレたちを、」
舐めんじゃねえぞ。
一斉に叫んだのは、41期の合言葉。
苦しい過去への逆襲が、幸せな現在の誇示が、不確かな未来への祝福が。
最後で最高のステージとして結実しようとする、その前夜のことだった。
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