第21話 落日のエチカ
触れた手には冷たさが伝わってくる。当然だった。それは石だから。
この場所には誰かいるのだろうか。
柚希はじっと石碑を見つめる。
聞こえてくるのは風と少し離れた通りを自動車が走る音だけ。
知ったのは1週間後の朝。メッセージは麻衣からでも到からでもなかった。
後日、確認したが、麻衣は本当に知らなかったらしい。到は知ってはいたようだったが口止めをされていたようだった。
――言いたくないことはいわなくていいと思う。
その言葉が何を示していたのか、柚希にもようやく分かった。
楽しいことにこだわる意味も、諦めているような柚希を構わずにいられなかった理由も。
神は全知全能で尊い存在だという。
この世界を作ったのが神であれば、どうして悲しみや憎しみがあるのか。それは神の意図したもので、それすらも尊い存在なのか。
まるで享楽的にすらみえた振る舞いも、今思い起こせば、それは理性だったのかもしれない。定められた運命に抗うために。恐怖と戦うためにどこまでも日常を追いかけ、楽しさを追及した。
今が二度と返ってこないのは、誰にとっても同じことだ。しかし、砂時計の残りが見えていたなら人はどうするだろうか。
楽しまなくてはいけないという思いが生まれても不思議ではない。
誰よりも自由にこだわったのは、不自由だったからだ。
自由に奔放に振る舞うのも、明確な意思があってのこと。それは自由だったのだろうか。
あらためて思う。
優しさに欠けていたなんて思わない。それは確信だ。
柚希は同じようにできるだろうか。残された時間を費やして、誰かのために何かをするのではない。ただ、じっと見守ることを。
二度と返らない今を大切に生きられるように。できるなら楽しいものに変えていけるように。柚希にそれを伝えようとしていたのだ。心に染みるおせっかいだと思う。
柚希に伝えた言葉。
――別れを悲しいものにしたくないから。
それは誰にとってか。
残される柚希にとってだ。
きっと、いろんなことを伝えようとしていた。けれど柚希にはその内のどれくらいが伝わっているのか分からない。だから、とても後悔している。振り返るあのときが今だった瞬間、もっと違う振る舞いができたのではないかと。
柚希にしてくれたように、柚希だって何かをしてあげたかった。
本当に望んでいたことを。
けれど。
それでも。
「ちゃんと言ってくれなきゃ分からないよ。春人くん」
柚希にそれを教えたのは春人ではないか。
悔しくて、悲しくて、寂しくて、柚希はこの場所で何度嘆いただろう。
かまうものか。ここにはもう誰もいないのだ。
柚希は俯く。やっと静かに泣ける。この場所にたどり着く前に堪えきれず涙に沈んでしまったこともあった。
神が人の運命を決めるなら、どうしてこんな残酷なことができるのだろう。春人に。柚希に。この世界にすむ全てのものに。それは神か。善なのか。
理性的に振る舞うには、きっとまだ春人も柚希も若すぎるのだ。大人げないのはしかたない。まだ子供なのだから。
最後まで自分がいなくなることを知らせたくなかった春人。どこか独善的にもみえる選択。けれど孤独ではなかっただろうか。手を握ってくれる人はいたのだろうか。どんな思いで運命を受け入れたのだろうか。いつも何を思っていたのだろうか。いつか訪れる終わりとずっと向き合いながらも、それでも周囲を悲しませないことを選んだ。
その迫り来る存在を知っていた。突然に襲い来るそれ。柚希は気付かずにやり過ごせてきた。じわじわとにじり寄ってきたらどうだろう。どんなに自分の心を挫いても、本能をねじ伏せることは簡単ではない。春人には容易いことだったのだろうか。
それの恐怖に対してどれだけのことが出来るだろう。
人は無力だと思う。
確かに、そばにいて役に立ちたい、ずっと寄り添ってあげたいと思うのは残される人たちのエゴかもしれない。向き合うのは本人なのだから。けれど……。
春人は諦められたのだろうか。諦める他になかったのかもしれない。そしてひとりで臨んだのか。
その選択が正しかったのか間違っていたのか柚希には分からない。けれど柚希は、そんな正しさを選んで貫いて欲しくなかったとは思う。
生きることを諦めていた柚希を諫めてくれた春人。
柚希は春人に何ができたのだろう。
何をすればよかったのか分からない。求められなかったから。でも望んでくれたなら、柚希はできる限りのことをなんだってしたかった。きっと、春人は望めなかったのだろう。そんな柚希にはとても。
柚希という人間は重たくて面倒だけれど、何も言わないで石の塊になってしまう人は軽薄なのだろうか。柚希の体重をあずけてもびくともしないほど、ずっと重いではないか。
この場所には誰もいない。では、どうしてここに来るのだろう。どこにいても会えないけれど、ここならば会える気がするからか。では今、この場所には誰かいるのだろうか。
それは信じていたいと思う。人の創造主が誰であっても。
少しずつ過去の出来事へ。
できるのだろうか。
あれからどれくらいのときが経ったか。柚希にとって春人との過去は、まだ今のまま。
けれど、それでいい。
あの日の春人はまだ、柚希のそばにいてくれる。
今年の桜は例年に比べて少し遅いそうだ。柚希の門出を祝ってくれるのかもしれない。
もう少しだけ近くにいていいだろうか。
この場所にはふたり。誰も咎めはしないだろう。
柚希の気持ちが落ち着くまで、もう少しの間だけ。
じわじわと辺りが暗くなる。夕暮れ逢魔が時。会えるのであれば魔でも構わない。地面に落ちたふたつの影が闇に溶けて消えていった。
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