第20話 そのとき
「じゃあ、またね」
やはり以前と麻衣は違った。透き通るような輝きではなく、柔らかくて温かい明かりだった。麻衣が変わったのか。柚希の方が以前と違ったのかもしれない。麻衣は柚希の歩く道の先を行く存在だと思っていた。歩く道はそれぞれ違うかもしれないと今は感じもする。離れてはいるが、遅れているのではない。
「初詣の帰りは寄り道しないで帰れっていうしな」
到は縁起を担ぐ人なのか。柚希はまだ到という人間をよく知らない。到は春人には近いが柚希からは少し離れたところにいる。遠ざかってはいないけれど、近付きもしない。この距離感で今はいいと思う。
公園の裏手を歩き道は橋に抜ける。一方は駅へ。もう一方は柚希の帰る場所へ。正月で表の通りは賑わっているが、大きな町ではない。裏に入ればすれ違う人が減った。辺りはかなり暗くなってきたが、日が落ちるにはもう少しの時間があったはずだ。
空は曇天。街灯に明かりはなく、ベンチに人の姿はなかった。葉の落ちた樹の名前が柚希にはわからない。見えるままの景色だったが、切り取られる対象はどこか恣意的で悲愴な印象を受ける。見る景色を選んでいるのは柚希自身であることは分かっていても。
目の片隅に入った花壇には小さな白い花が咲いている。マーガレットのようなノースポールのような。名前は分からないけれど以前の自分なら知覚することもなかった花の色。これが希望なのだろうか。
柚希の前を春人が歩く。
今この瞬間に同じ道を歩いていることは間違いではない。柚希にとってきっと幸せなことなのだと思う。実はそれで充分なのだ。
柚希はいくつもの今を過去にしてきた。柚希にとって過去にしたい今だったから後悔はない。待つことで今日は終わり過去になる。
春人と同じ夢をみることはできないことかもしれない。歩いてきた道が違うから。そうは思うけれど、それは本当なのだろうか。今を手放さなければ永遠に来ないあるかもしれない、可能性の明日。
手を離すことをためらう。本当に手放さなければいけないのは今なのだろうか。明日ではだめなのか。来年の春には終わるのだ。幸せな思い出が柚希にはきっと足りない。時が過ぎるまま、大切に出来る思い出を残してもいいではないか。
柚希は立ち止まる。
俯いた視線の先には何度も踏み拉かれ茶色くなった落葉樹の葉。元の形も失って重なって散らばっていた。足下のそんな様子にまで色がある。
内側から溢れだしてくる感情が冷めた感覚に火を入れて手足が震える。理性が自分に残っている内に決着をつけよう。
「……春人くん」
柚希のそれは理性なのだろうか。理性と本能はどのくらい違うのだろう。現実の世界に、自分の欲求を諍いなく反映するために人が作った技術の名前かもしれない。何が理性的で何が本能的なのか柚希にはもう分からなくなっている。今の柚希が信じる理性的な行動の先にどんな結果が待つのかそれさえも。
春人は足を止めて振り返る。
「ん?」
とぼけた表情。いつも疲れているかのようなめんどくさそうな振る舞い。いい加減にもみえるそんな部分には、きっと春人はこだわっていない。
春人という存在が柚希の意識を捕らえて離さない。ガラス玉などではない。月を照らす太陽だった。
柚希は今日、もう心を決めていた。今になって揺らぐなんて……けれど。
努めて平静を装って柚希は続けた。
「もしもだけど……」
ずるい言い方だと思った。この期に及んで。
「わたしが、春人くんとずっと一緒にいたいって言ったらどうする?」
鼓動が急激に速くなる。柚希の様子が春人に平静に見えるのかは分からない。けれど、できるだけ春人が素直に答えられるように。
きっとそんな配慮は春人にはいらない。これも柚希が自分が傷つかずに済むように逃げ腰になっているだけなのか。
春人は振り返ったまま、ただ立っている。
驚いているのかもしれないし、考えているのかもしれない。
そして春人は口を開いた。
「もしも……か。うん」
春人は正面を向いて柚希との距離はそのまま続けた。辺りの薄暗さに表情は分からない。
「……俺は、楽しいことだけ追いかけてるけど、ユズがそんなふうだったら、ずっと一緒にいられる未来……なんてのもあったのかな。でも、そんなのはユズじゃないよな」
春人は笑った。珍しくはぐらかさない。いや柚希に準備があったから意味が拾えたのかもしれない
そうか。
あったかもしれない。それは、ないということだ。
春人のように楽しいことだけを追いかけられるだろうか。柚希にそんなことはできない。
予感はしていた。
けれど、今はできなくてもこれから……。
春人ははっきりと言い直した。
「俺にはそれはできない。別れを悲しいものにしたくないから」
ずっと春人はまっすぐ柚希を見ていた。
否定。
いろんな条件をつけた拒否だったが、満たせない条件に意味はない。
柚希は安心すべきではないか。春人を不幸にせずに済むのだと。
――。
四肢の、全身の力が失われていくような感覚。錯覚だ。
柚希の脳裏に過去の脅威が圧倒的な存在感を持って噴き出す。記憶という名の虚像。柚希の今からいつも色を奪っていく積み重なった澱み。
意識すらここを逃げ出そうとする。視野が絞られて小刻みに揺れる。けれどもう柚希はそんな自分を許さない。目を開いて前を見る。歯を食いしばって現実にかじり付く。
――いまは……そんなこと、関係ない!
春人の姿と鮮やかな風景だけが目に映る。それだけでいい。
喉が絞まる。けれど呼吸をすれば何かが言葉になって溢れそうだ。
痛い。柚希が予想していたものよりもずっと。
眉間が、目が、顎が、喉が、腕が、そして胸が、全身が軋んだ。
「……と答えると思う」
春人は静かに付け加えた。あくまでも仮定の話。春人は柚希の逃げ道を塞がなかった。そんな優しさが普段の春人にあっただろうか。卑怯だと感じる自分の姿勢をしっかりと諫めてくれている気さえした。
身体が震えが失われた。止まったのか、感じないだけなのかは分からない。 逃げていた感情を迎え入れようか。
言葉を、態度を選ぶことを放棄する。
「――春人くんはどうして、そんなふうにわたしを見透かしたようなことが言えるの? わたしの何を知っているの? いったい何なのっ!」
ああ、そうか。この人はそんなふうに思っていたのか。柚希は自分の言葉でそこにいた自分に気付く。爆ぜて飛び散るおぞましい感情。いつも自分に向けられてきたそれを、今は柚希が春人に向けている。
「どうしてそんな高いところから見下ろすの! そんなにわたしが惨めにみえるの?!」
取り返しのつかないことは覚悟していたはずだ。
――そんなの、うそ。
覚悟なんてできない。嫌われるなんて、見捨てられるなんて……。けれど、自分の言っていることは何だ。無茶苦茶で、まるで破滅を望んでいるようではないか。
そうか。
破滅を望んでいたのではなかったのか。
見透かしたようなことをいっているのは自分だ。なにも分からないのに分かっているかのように先回りして。見上げているのも、惨めにしているのも自分だ。
いくつもの柚希が掻き混ざって、自己像が自分の言葉で裂けていく。
柚希はまだ何かを言おうとした。けれど声にならない。空になった肺に喉をを震わせる空気が残っていなかった。口がパクパクと開いたり閉じたりしただけだ。
無様だ。これが柚希が守ってきた自分なのか。
焦点が合わなくなって身体が落ちる感覚がした。足の力が抜けて膝から崩れたのだ。しかし倒れはしない。柚希は両手を地面について耐える。まだ柚希の支配は柚希にある。絶対に渡さない。自分とは誰だ。それは「わたし」だ。
思考が散り散りになって繋がらない。それでも柚希は自分の手綱を放さなかった。
「ユズ」
膝をついて、春人はこちらを向いている。
「俺はユズの何も知らない。ユズも俺のことは知らない。言わないからな。……でも、言いたくないことは言わなくてもいいと思うよ」
春人の言葉はどこか距離を感じる冷めた最後通牒。柚希は失うのかこの人を。どうして自分は分からないのだろう。ひとつ気付いてもいつも足りない。学んでも柚希にはいつも大事なものが足りていない。
柚希の焦点が春人の顔を捉える。覗き込んだ春人の表情が見える。
「だから、卒業までよろしくな」
春人の表情は少し困った笑顔だった。
――。
いつでもいなくなりそうなのに、そこにいる。
こんな人のことをなんというのだろう。柚希の語彙には見当たらない。
精一杯、歯を食いしばってみても意味はない。それは目から出るものだから。
柚希は溢れ出すものを受け入れた。
街灯に明かりがともる。
春人は柚希を見ている。言葉をかけるでもなく、手を差し伸べるでもなく。ただ見守っていた。
視界が滲んで歪んで世界のいろいろなものの形が分からなくなる。けれど春人はきっとここにいる。
涙の色はたくさんのものが映り込んで、虹色に見えた。
「……春人くんってわりと冷たいのかな」
柚希はいつもにもまして重くなった瞼のまま春人の姿を見る。
「いつから温かいって錯覚してた?」
春人は缶コーヒーの飲み口を口に当てたままもごもごと言った。
自分で言っておいて柚希は春人が冷たいなんて思わない。
いや思うことはあっても、それでいいと感じているのだ。柚希は自分の気持ちが分からないし、まだまだ素直にはなれないようだ。
「……でも、春人くんのそういうところも好きなのかもしれない」
柚希は視点を虚空に戻して呟いた。それは嘘ではないと思う。
「あのなぁ、ユズ。……今まで俺は一言も『好き』なんて言われてないの知ってる? 自己完結し過ぎてない?」
春人が半ば笑いながら言った。
そうだったのか。そうかもしれない。
「……うん、ごめんなさい。わたしは春人くんのことがたぶん好き」
柚希は謝るが「たぶん」は余計。言い方が曖昧なのは確からしさに疑いがあるからではなく、単純に照れくさいからだと思う。
「それは、ありがとう……」
少し戸惑ったふうな春人。どうして戸惑うのか。催促されたのは柚希の方だった気がするけれど、まあどうでもいい。
どのくらいの時間この場所にいるのだろうか。寒空の下、身体はすっかり冷え切っている。春人は自分の飲み物しか買ってこない。けれど付き合わせているのは柚希だ。なぜか少し悔しい。このまま凍死すれば当てこすりくらいにはなるかもしれない。
それも素直な気持ちではない。別に飲み物を買ってきて欲しいわけではなくて、柚希には春人に要求したいことがたくさんあったのだ。もちろん春人にそれを断る権利はある。けれど柚希は、最初の伝えるということをしてこなかった。だからこそ生まれる気持ち。
「……春人くんはどうしてわたしにかまうの? 好きでもないのに」
柚希は少し嫌みに聞こえるように言った。今まで何度かはぐらかされた質問。付け加えた「好きか好きでないか」は関係ない気がする。事実、そんな気持ちがなくても柚希は今まで行動して生きてきたのだから。
自分でも信じられないくらい言いたい放題ではないかと思う。正月から災難だと春人に同情はするけれど、不機嫌なので柚希はそれを言わない。
「んー、ユズってさ、ずっと生きるの諦めてるみたいな感じがしてて」
春人はあっさりと答えた。「好きでもない」を否定しないのは悔しいけれど、それは柚希の自業自得。
――それは、言葉にしなくても伝わるんだね。……態度に出してるから当たり前か。
しかし、生きているのを諦めている感じだとどうして柚希を構う理由になるのだろう。柚希のことを面倒だと言っていたではないか。そっとしておけばいいと思う。
柚希はため息が出る。
自分の自動的な思考にことごとく同意できない。
そんなふうにはまったく思わないし、そうなればきっと柚希は悲しい。もっと構って欲しかったのが本音。回りくどくて、情けない本性。
たとえば、もっと生きることを諦めるといいのだろうか。それでかまってもらえたとしたら、今度は生きることを諦めていられなくなる。
作戦として成立していない。そんな演技力はないし、なくていい。ますます自分が許せなくなるだろう。
諦めているようにみえるだけで、実は、柚希は生きることを諦めてなんていない。春人はそう思っているということだ。
今は柚希もそうかもしれないと感じる。
本当に諦めていれば、誰にどんなふうに思われていてもこだわる必要なんてない。もし、何もかも失っていたなら、柚希はすでにここにいない気がする。
「わたしは、きっと諦めてない。生きること」
柚希は言った。
「うん、それでいいと思う」
春人は笑った。
柚希にはそれが正しいことなのかは分からない。でも春人はそれでいいと言う。柚希が生きていることを、もしかしたら春人は本当に許してくれたのかもしれない。
少しだけ自信が湧いて、悪戯心が出る。
「あ、春人くんのこともね」
「そういうのは、いいって……」
本当に困っていそうなのでやめよう。柚希は風が吹けば倒れそうなくらいに不安定なくせにとても重いのだ。面倒な性格はずっと今まで生きてきた自分がよく知っている。
「ごめん、もういわない」
柚希は笑った。
笑えたから大丈夫。
柚希は無言の春人を見る。
確認した春人の表情は笑顔だったが、どこか怒っているようにも、困っているようにも、悲しんでいるようにもみえた。
「春人くん、遅くまでごめんね。……帰ろっか」
おそらく寒さで身体の感覚が麻痺している。本当に凍死でもしたら、春人には大迷惑だ。
「……あ、うん。そうしようか」
春人は何かを考えていたふうだったが、柚希の声に反応してこちらを向いた。
手をベンチについて力を込める。ゆっくり立ち上がる。痺れた身体が痛んで平衡感覚を失いそうになったが、少しずつ身体を起こせば大丈夫だ。
春人も合わせてゆっくりと立ち上がる。
「だいじょうぶ?」
春人は手を差し出す。そんな春人もよろけているではないか。
そうだった。この春人にここまで心配をかけてしまうようなことを今日はしてしまったのだ。どうして簡単に忘れるのだろう。
春人は楽しいことが好きなのだ。それでお返しはしよう。
「……ありがとう」
柚希は断ろうと思ったが、素直に春人の手を取った。なるべく寄りかからないように両足にちゃんと力を込めて。
手を繋いだのは初めてかもしれない。手袋ごしにお互いの冷えた体温は伝わらない。それがふたりの関係。けれど柚希は、少しだけ春人と繋がれた気はした。
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