第19話 神前で決意する

 多くの人が大晦日には年が明ける瞬間を行事として楽しみ、また初日の昇る様を感慨深く見守る。一日の計は晨にあり、一年の計は春にあるという。戒めを破っても、うまくいかなかった理由が元旦にあったかどうか、誰も証明ができないこと。けれど不安にはなった。

 元日の道路状況や電車の運行情報を詳しく知らない。また予想も出来ない。例年の状況がどうなのかを柚希は知らないから。

 去年最後の日に麻衣から連絡があった。

 明日、初詣に行こう。

 そう言った麻衣にも不測の事態はあるのだから、柚希の想像で補えるほど未来予測は易しいものではない。

 柚希は拝殿へ続く石段の前の鳥居をくぐった。人間の塊が上へ下へと流れている。塊は近付けば壁だ。階段を上る柚希には土砂崩れのようで、確認したときにはもう通りすぎるのを待つ他にない。いくつもの通り過ぎる言葉が、繋がりを無視して柚希の中に入ってくる。人の数に酔ったのか、上ることがつらいのか分からないが息苦しかった。

 階段の先に狛犬が見える。左右に鎮座した二頭は怒りの形相で柚希を睨み下していた。正月に気まぐれでしか訪れない参拝者を快く思っていないのかもしれない。石の狛犬にそんな思考はないことは知っていたが。

 狛犬が飛びかかってくるはずもなく、脇を通り抜けて柚希は境内に出た。

 石畳の道の両脇にはいくつかのテントが設置されている。御神酒の提供場所や休憩所になっているようだ。

 普段は閑散としているが正月は賑わう。祖父母の家の近所にある神社だったが柚希は来たことがあっただろうか。初めてかも知れない。

 今日の柚希はいつもより白かった。晴れ着というわけではないが、柚希が明るくみえるようにと以前、麻衣が選んでくれたいろいろ。気が引けて身に着ける機会はほとんどなかったが、今日はそのときかもしれない。

 柚希が柚希でなかったら。

 目を閉じる。

 そこに望んだ未来があったのかもしれない。けれど、きっと今の気持ちにも出会わなかったはずだ。柚希の人生は柚希しか知らない。

 運命はあるのだろうか。そこに赤い糸があるのならそれは呪いの鎖だ。今すぐに断ち切らなくては。大切な人の自由を奪って息の根を止めてしまう。そんなことは自分も望んでいない。

 ――。

 それならばせめて、毒々しく見えるように鮮やかに。間違えて口に入れてしまわないように彩り豊かに。

 柚希はそう望む。望んでいるはずだ。

 ――ほんとに素直じゃない。わたし。

 柚希はため息をつく。そんなわけがない。せめて笑ってみよう。

 平気でいられるはずがない。

 予感が事実になることを柚希は怯えているのだ。

 見当たる限りの可能性は自分で奪っておく。その方が痛くないことを知っていたから。ずっとそうやって生きてきた。現実はあまりにも痛くて苦しい。柚希を受け入れない世界との決別。何も見ないし聞かない。自分を苦しめるのは自分だけで充分だ。それが柚希の選択だった。

 でも、もういい。

 息苦しさに見上げる空。太陽はなく、冬の雲は低く厚く大地を覆っていた。大地は鳴り、暗く重い空に押し潰されて今にも世界が圧壊しそうだ。

 けれど、空は世界を壊しはしないし地鳴りもしない。

 悪意と欺瞞に満ち溢れた世界。そんな世界にしたのは自分だ。

 世界と繋がることは苦しくて痛い。これからもそうなのかもしれない。ただ今だけは、世界と繋がる理由がここにある。

 柚希自身がここにいる。

 肌を刺す冷たい真冬の風。顔が耳が手足が痛い。身体が震えて下がる体温を感じる。柚希は風に吹かれて顔にかかった髪を片手で直すとゆっくり顔を上げた。目を開く。

 春人がそこにいた。

 ぼんやりと何かを待っている。それが自分であればいいと柚希は素直に思う。柚希はゆっくりと歩みを進める。いつもの距離の手前、春人は柚希に気付いたようだ。

「春人くん……おめでとう」

 柚希は声が少し震えた。春人の前で立ち止まる。

 春人は普段通りの気負わないカジュアルな私服だった。それを見て柚希は、やはり自分の格好は異常だという気持ちが湧く。でもおかしければ春人があっさり言うだろう。一般的にどうかではない。評価は春人がすればいい。

 いつもの柚希のことを、春人は変わっていると言った。今の柚希はいつもとは違う。返ってくるのはどんな反応か。

 風に柚希の髪とストールが揺れた。鼓動が早くなる。

 自意識の過剰。いつも通り流されるだけか。

「あ、あけおめ……」

 いつも通りの春人。

「って、うわっ? 麻衣かと思った……!」

 意外にも、春人は柚希の身なりに反応した。

 心配してくれているのか。大丈夫、柚希は正気だ。

 しかし意気込みがわずかに揺らぐ。

 麻衣のように見える。それはどんな意味があるのだろう。

 柚希の服を選んだのはほとんど麻衣だ。似ているのは当然だともいえる。麻衣と間違えられたのだったら喜ぶべきだろうけれど……。

「うん、一緒に選んでくれたの麻衣ちゃんだから……」

 柚希は麻衣に感謝している。でも今、自分を麻衣のようだと言われたことがなぜか寂しい。いつもの柚希と違う。そう主張しても自分の没個性という個性を捨てただけで、麻衣の真似でしかなかったから。

 自分らしいといえる自分が柚希にはまだない。少し悔しいけれどしかたないことだ。

 大丈夫、風景は色褪せない。

 拝殿前にはたくさんの色をまとった人の群れ。のぼりに灯籠。白い天幕の文字の色。はっきりとした色がくすむことはない。

 春人は苦笑して言う。

「いや、麻衣が着るより似合ってるかも」

「……?」

 変な感じだ。

 柚希には、春人の言葉がまるで麻衣を引き合いに出して、自分を持ち上げてくれているように聞こえた。

 麻衣は可憐だが、それだけではない。見た目にそぐわない威勢の良さがある。本人はかわいいことを意識していたようだが、実際の麻衣は型にはまらない格好の良さがある。春人たちは冗談で麻衣のことを残念な美人といった。その言葉は麻衣をことさら貶す意味はなく、語られる際には内面との矛盾を示唆するものだった。そんな麻衣に対する皮肉のような言い回し。でも、どうして今。

「うん、いいと思うそれ。なんか、かわいい感じ。あ、もしかして、やっぱりそういうことは考えてない……?」

 春人の言葉。最後の方は独り言のように聞こえた。

 ――!

 考えているに決まっている。顔が紅潮していくのを感じる。それは怒りか恥ずかしさか。柚希の衣装は麻衣の借り物でしかないが、それでも春人に評価してもらいたいと思ったのだ。

 いくつか春人が言葉を発した。聞こえてはいたが意味がよく分からなかった。春人の言っていることが難しいからではない。動揺して理解する余裕がなかっただけだ。

「あけおめ!」

 聞き慣れた、けれど直接耳にするのは懐かしい声がする。

 柚希は思考が一時停止した。振り返って確認する。

 もう二度と会えないと思っていた。

 今までいなかったのが嘘だったようにそこにいる。

 ――麻衣ちゃん。

 少し息があがって、くたびれた表情の麻衣と、その様子を見て苦笑いを浮かべる到が立っていた。走ってきたのかもしれない。

「あけおめ、ことよろー」

 春人がひらひらと2人に手を振る。

「ん、ことよろー」

 到が軽く片手をあげて応えた。

「ごめん、ごめん、お待たせ」

 麻衣が息を調えながら笑顔を作っていう。口調は変わらないが、どこか以前よりも大人びた印象を受ける。それは服装かもしれない。

「……ほんと頼むわ、発起人」

 春人が大げさに肩を落としてみせる。

 言い出したのは麻衣。けれど事情を考えれば責められるはずもない。むしろ柚希は感謝していた。麻衣に会えたこと。こんな機会を作ってくれたこと。

「いやいやいやいや、これでも相当空間をねじ曲げて飛んできたんだって!」

 言葉の意味はよくわからない。けれど麻衣は楽しそうだった。

「時空を操れるなら遅れないって。普通に空とか飛んで来たらいいんじゃない?」

「それはダメ。代償が大きすぎる」

 春人と麻衣。やりとりは意味が不明だ。けれどそれも懐かしい。

「そうだなぁ。それはしかたないか……」

「使い込んだ次の日に重要なイベントがきてコストが足りないという。……それがテンプレ」

 春人と到。よくわからないが、それで何かが完結した。

 temple それはテンプル。神殿やお寺のこと。ここは神社だからshrine。きっと違う。

 temper それはテンパー。名詞なら気性。動詞なら調整したり加減したり。チョコレートの湯煎をテンパリングなんていった気がする。

 template テンプレート。型のことだと思うけれど、一連の流れやひな形のことをテンプレと呼んだ。これかもしれない。

 3人の流れにいつも柚希はついていけない。

 楽しそうな姿を眺めていることは嫌ではなかった。でも今は、出来るなら参加してみたい気がする。

「っていうか、……ユズっち?」

 麻衣は柚希を確認して少しの間、固まった。何かを感じたようだ。思い当たるとしたら格好だろうか。

 麻衣は春人を見る。

「春人。ユズっちに妙なこと教えてないよね?」

 少し棘のある言い方で麻衣は春人に詰め寄った。

 麻衣のいう妙なこととは何か。具体的に思い当たらない。春人は柚希の不利益になることはしていない。たぶん誤解だと思う。

 柚希は止めた。

「ま、麻衣ちゃんだいじょうぶ。わたしはいつも変だから」

 柚希は春人の前に出て、出来るだけの笑顔で言った。

 柚希の対応にさらに麻衣は驚いた様子で、まばたきを数回。しばらく言葉を失っていたがすぐ笑顔になった。柚希が見る限り麻衣の思い切りの笑顔だ。

「そっか。そっかぁ……」

 麻衣は何度も頷く。何に納得したのかは言わなかった。

「今日はそんなに変でもないけど」

 後ろから春人の声。

「あったりまえじゃん。ユズっちの服わたしと選んだんだし。あと『今日も』!」

 麻衣が応える。麻衣は春人を一瞥するとまた視線を柚希に戻した。

「良かったね。ユズっち」

 麻衣はいつもの穏やかな笑顔で言った。

 柚希のことを変だとは言わない麻衣。変だと言う春人。仲が悪いなんてことは決してなくて、柚希はどちらも好きだ。誤解が解けたのなら良かった。

「まあ、とりあえず先にお参りしとこう」

 麻衣の後ろで傍観していた到が、時期をみていたのか声をかける。一同は頷いた。


 もうすぐ順番がやってくる。何を祈ろうか。

 柚希の前に麻衣と到。隣には春人。

 ずっと前に祈ることは諦めた。意味がないから。そんな言葉が浮かんできて即座に否定する。それは考え違いだ。ずっと今まで、本当は許されることを祈ってきた。だからこそ空しさを感じたのだ。祈るに値しない存在なのは神仏ではなく、ずっと自分の方だった。誰に許しを請うてきたのか。それはここにいるのか。

 思うことがないわけではない。けれど神なるものの前に人はあまりにも無力だろう。恨み言を言っても祈ってみても、取るに足らない存在の声に神なるものは耳を貸すのだろうか。柚希はそこまでで思考をやめる。

 あえてここで考えることではない。絶対の存在がここにいるのであれば柚希の思いは何をもたらすか。自分の身の破滅だけではないかもしれない。今は、鏃は自分に向けておこう。

 麻衣と到が一歩、石段を上る。柚希と春人もそれに倣う。

 何を祈るのか。

 柚希には祈りたいことがあった。

 自分の罪は一種の妄想かもしれないと思う。どれだけ祈っても消えない。そのことがまた、自分の信念を強化することも想像できる。柚希にはもっと祈りたいことが他にあった。

 ――これからも一緒にいたい。できるなら、この先もずっと。

 けれど、そんなことを祈って春人が幸せになるのかどうかは柚希に分からない。

 神と取引なんてできるのだろうか。柚希に差し出せるものは手のひらの賽銭と自分自身しかない。

「うわ、もったいな……くない?」

 春人が横で呟いた。柚希の手の中にある硬貨を見たのだと思う。運命を操るかもしれない神の前で、賽銭をもったいないなどと言える春人は、本当にすごい人間だと思う。きっと春人は、神が目の前にいても、自分の運命は自分で決めると言うのだろう。

 柚希はそれでいいと思った。柚希はそれを応援したいだけだ。

「……いいの」

 柚希は小さな声で返す。賽銭はいくらにすればいいのか、実は分からない。けれど柚希は代償は大きい方がいい気がした。価値があるのかは分からないけれど、神が望むなら柚希自身も付けよう。

「じゃあ、下で待ってるね」

 麻衣はそう言うと、到とその場を離れる。ふたりは上ってきた石段を降りていく。

 柚希と春人の順番がやってきた。

 神前に進んで一礼する。2つの硬貨が滑り込んで賽銭箱が音を立てる。柚希と春人は、ふたりで鈴の緒をつかんだ。揺するとカラカラと音が鳴る。再度の礼を重ねた。

 祈りのとき。

 ふたりの柏手が神前に響いた。

 柚希は祈った。

 ――春人くんが、幸せでいられますように。

 それは自分が満足したいだけなのかもしれない。

 柚希は今まで、誰かのために何かを祈ってきただろうか。本当にそう願っただろうか。いままで恐れてしてこなかったこと。柚希に足りなかったこと。

 柚希は目を開いて一礼する。

 その場を離れようと柚希は身を返すが、春人が動かなかった。

 春人は手を合わせたまま。

 ――春人くん?

 柚希は春人の表情を少し離れて覗き込む。その瞬間に春人の目が開いた。ときおり見せることがある真剣な表情。春人の苦悩や怒りにも見える。それが今、そこにあった。

「……春人くん?」

 春人の様子に柚希は意外な感じがした。何を祈ったのかはわからない。漫画やゲームのことかもしれないし、宝くじのことかもしれない。けれどそんなことを春人は神様に祈っただろうか。そうは感じられなかった。

「あ、ごめん。行こうか」

 春人は最後の礼を済ますと柚希に駆け寄る。

 笑顔の春人に、柚希は少し不安になった。もちろん気のせいなのかもしれない。柚希はもしかしたら、春人を時間を共有する上で何か大事なことを見落としているのかもしれない。

 ふたりは石段を降りると、麻衣と到に合流した。

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