第13話 少しだけ嬉しい

 今日はいつもより少しだけ気分が悪い。

 365日の内のただの1日。特別なことは何もないし、なくていい。

 登校前に見た日めくりカレンダー。切り取った写真のように柚希の頭の中でちらついた。誰かにとっては別の意味のある日なのかもしれない。それでも柚希にとっては何かを祝う日ではなかった。むしろ、呪いの1日。

 毎年、日付が変われば麻衣がその日を教えてくれた。麻衣からメッセージは届いていたが、返事をする。それで終わりだ。

 気分が悪いのも、ほんの少しだけだ。

 柚希は意識を逸らす。

「……到くんは?」

 柚希は春人に確認した。春人はそんな柚希の心情を知っているわけがない。いつも通りの柚希になるように振る舞う。

「あー、なんか忙しいみたい。真面目だからな、到」

 春人は答えた。春人は到の事情を理解しているようで不満があるわけではなさそうだ。

 それで到の代役として柚希が指名されたのか。

 駅前の裏通りをふたりは歩く。

 商店街といってもこちらは旧市街。柚希は麻衣とも足を踏み入れたことがない地域だ。重ねた年月を感じる店が並んでいるが、ところどころに新しいテナントが入っていたりもする。今がいつなのか分からなくなりそうな不思議な光景だ。

 駅前が整備される以前はこちらがメインストリートだったのだろう。表通りと比べると道幅も狭く、足下に敷き詰められたタイルも表面がすっかり削れて光沢を失っている。

 柚希にとっては初めて訪れる場所でも、春人には日常なのだろう。足を止めることもなく春人は進む。

 春人の用事に付き合うことは了承したが、そういえば柚希は肝心の用事の内容を聞いていない。

「春人くん、どこいくの?」

 柚希の前を歩く春人に声をかける。

「……うーん、どこに行くかな」

 春人は首を傾げるが足は止めない。

 首を傾げたいのは柚希の方だ。

 用事もないのに何をしに来たのか。柚希は何のためにいるのか。

 そもそも、柚希を連れて歩いて春人にどんなメリットがあるのだろう。むしろデメリットばかり思いついて、あまりお勧めできることではない。

「用事もないのに、あんまりわたしを連れて歩かない方がいいと思うけど……」

 柚希は言葉にして伝える。もちろん春人が何を考えるのかは自由だけれど。

「……え? なんで?」

 頭だけこちらを向けて春人は言う。

 前を見て歩かないと危ないと思うけれど、それで転ぶのは柚希くらいなのかもしれない。

 なぜと聞かれても。たとえば……。

「変なうわさになったら、春人くんは困らないの?」

 柚希はそう言ったものの、どんな答えが返ってくるのかはなんとなく分かった。たぶん、春人は困らないのだろう。

「変なうわさ? ああ、変だったら否定すればいいし……。たとえばどんなうわさ?」

 妙なところにこだわる春人。それは柚希も同じなのだが、こだわる部分が違うから会話がうまくかみ合わない。

 たとえばをまた何かにたとえると、柚希はもうわけが分からなくなる。

 柚希が「たとえばのたとえ」を考えている間に春人が言葉を付け加えた。

「……用事は、あるんだけどさ」

 春人は苦笑いを浮かべて、なぜか気まずそうに言った。

 そうなのか。であれば、用事を済ませにいけばいいのではないだろうか。

 柚希は春人の用事に付き合うことが嫌だというわけではない。ただ今日は少しだけ気分が良くないので、どこかにひっそりと閉じこもりたいのだ。それだけ。

 言わないと春人には伝わらないだろう。

 柚希は言わない選択をしているのだから、ここは気分良く付き合うべきではないだろうか。ちゃんと切り替えよう。

「そうなんだ。じゃあ、今日はその春人くんの用事に付き合うよ」

 柚希に到の代わりが出来るかは分からないけれど、できることはしてみよう。

 春人が足早に歩き出した。

 何かを見つけたようだ。

 古いお店。精肉店に見える。寂れた感じはしない。立てられたのぼりは新しくて、今もしっかり営業しているようだ。

 春人は肉の並ぶショーケースの方ではなく、隣のカウンターに向かう。

「ユズ!」

 春人が振り向いて手招きをしている。心なしか嬉しそうだ。

 しかたない。柚希は春人に駆け寄った。

「……どうしたの?」

 柚希には春人がなぜ楽しいのかよく分からない。

 春人はお店のカウンターを向いて言う。

「これ、けっこう好きでさ」

 ショッピングセンターのフードコートで見たような、またはファストフード店のカウンターのようにも見えた。印象は縁日の出店にも似ている。

「コロッケ」

 春人はそう言うと、メニューカードを指さして窓口に立つ店員に何かを注文した。

「ふたつ、ください」

 春人が注文したのは、「コロッケ」だ。

 柚希はメニューカードを見る。

 コロッケしかない。いくつかの種類や内容量に違いはあるようだったが。

 店員はバットに並んだコロッケを小さな紙袋に詰めると、ポリ袋に入れて春人の前に置いた。

 春人は財布を取り出して会計を済ませる。

 柚希はその様子を隣でぼんやりと見ていた。

 受け取った袋からさっそく春人は中身を取り出す。

「はい、ユズ」

 差し出されたものの中身はコロッケだ。柚希は一部始終を見ている。

 柚希は代金を払っていない。くれるというのだろうか。

 そんなにひもじそうな顔をして――。

「まあ、いいから」

 春人は柚希の手を取ると、それを握らせた。

「おめでとうってことで」

 笑う春人。

 柚希はぎょっとした。

 どうして春人が知っているのか。

「は、春人くん……」

 名前を口にしたものの、続かない。

 柚希は春人の顔を見たまま言葉を失った。

「……誕生日にコロッケじゃさすがに不満だよな。まあ、お金なくて。今回は勘弁して」

 春人は頭を掻いた。

 いや、そういうことではない。

「ユズは知らないかもしれないけど、この辺ではけっこう有名みたいだし、普通のコロッケと全然違うからさ!」

 言い訳をする春人。

 違う。言い訳をする必要なんてない。

 柚希はゆっくりと息を吸って吐いた。

 じっと握ったコロッケの袋を見る。充分すぎるだろう。

 柚希にとって誕生日は祝うべき日ではない。けれど誰かに祝ってもらえることが不快だということではない。それが予期しない相手であったなら、少し驚くけれど。

 柚希は伝える言葉を忘れている。

「……ありがとう」

 生まれてきたことが罪だとしても、祝ってもらえることは幸せなのかもしれない。

「うん、もっと喜んでいいよ誕生日なんだし」

 春人が悪戯っぽく言った。

 無理を言わないで欲しい。

 けれど、胡散臭くてもいいのなら。それがお礼になるのなら、喜んでみせよう。

「春人くん、ありがとう。とっても嬉しい」

 柚希は思いきり余所行きの笑顔を作る。

 春人は大きく頷くと笑った。

 笑顔。余所行きだとか普段使いだとか選べるほどたくさんの種類が自分にあったのだろうか。可笑しな感じだ。可笑しければ笑えばいい。

 もうひとつのコロッケを取り出すと、春人はいそいそと袋を破る。柚希がまだ手を付けていないことを確認して、春人は目で催促した。

 ――けっきょく、春人くんが食べたいだけなんだよね。

 柚希が袋を開けるのを見届けて春人はコロッケをかじる。

 まだ温かい。

 コロッケは、コロッケの味がした。

 それが普通でないかは分からないけれど、柚希には特別な感じがした。

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