第12話 詐欺ではない

 柚希の手の中でアルミ缶のコーヒーは徐々に熱を失っている。今はまだホットだ。

『ホットでもコールドでもおいしくお飲みいただけます』

 缶に印字された案内に柚希は空恐ろしくなる。

 本来、おいしいかどうかは飲んだ人間が判断することで、それを製造販売する側が断言する。言葉に丁寧さはあるが、柚希はその言葉に揺るがない自信を感じて圧倒される。

 特に珍しい文言でもなく巷にありふれた一般的な表現であることは知っていた。けれど、どうしてこんなに勇気を持って断言できるのだろう。会ったことも無い不特定多数の感性を考慮に入れて、なお断定する。柚希にはとてもできないことだ。

 おそらく温めても冷やしても販売可能であることが示されているだけで、それ以上の意味はないのだろうと想像する。

 春人の言葉もそうなのかもしれない。

 柚希の計画は実行する前に看破され、今、更生中だ。

 にしても、校内のどこに自動販売機があったのだろうか。柚希は知らない。

「……ユズ、聞いてる?」

 声は春人だ。

「……はい」

 柚希は目を逸らせて応えた。

「いや、その反応は絶対聞いてないだろ……」

 春人は大げさにため息をついた。

 確かに聞いていない。聞こえていたかすらあやしい。けれど――。

「……同い年の人に説教されたくない」

 柚希は言う。拒絶になるように。

 春人は柚希の知らないことをたくさん知っていると思う。けれど春人は知らないのだ。柚希自身も計りかねる柚希というものの恐ろしさを。

 実習棟の道路側にあるめったに開かない搬入口。日が傾いて校舎の東側には大きな影が落ちている。

 柚希は部室を避けてその場所にいた。

 人気の無い空間。校舎の中を彷徨って、柚希の居場所はどこにも無いことにいまさら気付いた。

 どうやって春人と距離をおこう。まずは今日をどうやってやり過ごそう。そんなことを考えていたところを春人に見つかった。

「説教なんてしてないって。俺にそんなことされる覚えがあるの?」

 どこか、めんどくさそうな春人の声。

 ――めんどくさいなら放っておけばいいのに。

 柚希の不快感。悔しさとは違うが、近い何か。

 目頭が熱くなる。

 やることが裏目だ。どうしたらいい。

 そもそも理由が分からない。春人がこだわるのは何なのか。

 柚希はもう素直に聞いてみた。

「春人くんはどうしてわたしに構うの?」

 柚希はそれらしい理由を考えてみるが、柚希の想像出来る範囲ではどれも人間の思考として破綻しているように思う。

 なんの利益もない。不利益だけがたくさんあるというのにどうしてなのか。そこまでさせているのも柚希だというのか。

 柚希に理解出来る答えがあるのだろうか。柚希は春人の返答を待った。

 春人は無言だ。

 答えられないのか。答えがないのか。

 柚希は春人の表情を横目でうかがう。春人が言葉を発したのは柚希が春人を確認したすぐ後だった。

「構うってなに?」

 目を閉じて春人は言った。

「『同い年』って言ったのに、『構われている』って思ってるってこと? 本気で?」

 春人は困ったような顔で首を傾げた。機嫌を損ねたのだろうか。そんなつまらないことで。

 思っている。

 はっきりと、柚希は「構ってもらっている」と思っている。

 歳が同じことを拒否する理由にしたのは建前だ。同い年であることと価値が同等であることは違う。

「説教しているつもりも『構っている』つもりもないから。もしかして、ユズは俺が目障り?」

 春人の口調は穏やかだった。

 質問に対しての質問。柚希の問いには答えない。春人はいつもそんなふうだ。それを2人のタブーに設定した覚えもないけれど。

 春人が目障りか。

 柚希は否定しようとしたが、やめた。そうでもないかもしれない。

 問われたならら、むしろ目障りであるべきだとも思う。

 救われてはいけないという柚希の信念と、償いたいという柚希の意思。

 柚希に生きる使命があるのかどうかは分からない。けれど、あるとすれば、春人はその使命を妨げる障害である。

「……」

 柚希は頷いた。

 本当はわからない。使命なんてどうでもいい。春人を遠ざけたいのは柚希のわがままだ。そこに春人の意思は入っていない。

 春人には不幸になって欲しくないと思う。そんな柚希の気持ちは何かをすりかえているのだろうか。

 春人は感情を表に出すふうでもなく静かに続けた。

「だったら、ユズは俺の行動の理由を探っても意味ない」

 春人は柚希を睨んでいた。柚希にも分かるはっきりとした怒り。声は冷たく柚希の周囲の気温が急激に下がった感覚がした。

「『目障りだから、目の前に現れるな』って俺に伝えたらいいよ」

 春人はじっと柚希を睨み据えたまま言った。

 ――!

 ……そんなこと。

 目障りだと思いたいわけではない。目障りだと思わなくてはいけないから思う。しかし柚希の感情が逆らう。ほんとうは目の前にいてくれて嬉しいと言いたい。でも、それを口にすることは――確実に春人を不幸にするのだ。

 柚希は思考を打ち切って春人の言葉に従った。

「……目障りなので、わたしの前に現れないでください」

 柚希の声は自分が想像していたよりもずっと小さい。

 春人には届かなかったかもしれない。言い終わった後に、届かなくて良かったのではないかという矛盾した気持ちも生まれてくる。

 けれど、春人は促した。

「……わるいけど、聞こえなかったから、もう一回言って?」

 春人は、曖昧な柚希の言葉を許さない。

 ――!

 そうか。これは決定だ。

 今、自分で決めたのではないか。

 柚希は自分の思考がまとまらないまま、溢れてくる感情だけで、もう一度口にした。

「目障りだから、――目の前に、現れないで!」

 勝手に追い詰められて猫を噛んだネズミだ。自分の言葉が攻撃であることを、柚希は自覚した。

 感情が通りすぎて、大きく弾けて壊れていく何か。柚希の中で無数の破片が、さらに粉々に砕け散っていく。それがなんなのかは柚希には分からない。

 嘘。

 ――。

 分かっている。壊したのは、今までひっそりと守ってきた「自分」だ。

 言葉にして、柚希の心が冷たく澄んでいく。

 ――充分かな。

 後悔のない爽やかな気分だった。

 満足することと何かを諦めることは似ていると思う。

 柚希は、やっと解放されるのかもしれない。自分にとって春人はきっかけに過ぎなかった。足りなかったものが今満ちた気がする。

 やっと終われるかもしれない。

 柚希は背中を押してくれた恩人の姿を見た。

 春人は笑顔だった。それは何を意味しているのだろう。

「……嫌だな、それは」

 春人は満面の笑顔で言った。

 ――え?

 何が嫌だというのか。

 もしかして、目の前に現れるなという柚希の言葉か。

 けれどそれは、春人が指示した言葉ではないか。

 柚希は春人が分からない。

 始めから終わりまで。

「ごめんユズ、そのお願いは聞きたくない。断っていい?」

 春人という人間は捉えどころがない。

 柚希は到の言葉を思い出す。春人は「自由」だと。

「……聞かないなら、言わせないで」

 柚希はため息が出た。感情的になった自分がまるで馬鹿みたいではないか。自分が馬鹿なことは知っていたけれど、積極的に公開していくのはどうなのだろうか。

「ユズが俺に何をいうのも自由だけど、俺にもどう答えるか選ぶ自由があるから」

 春人が嘯く。

 柚希に言いたいことを言う自由があっただろうか。完全に言わされていたではないか。そんな自由も本当はあったのかもしれないが、柚希には見えなかった。まるで詐欺だ。

 とはいえ、当たり前のことを思い出す。

 春人はずっと自由なのだ。

 それは柚希が何を企てようと思い通りにはならない。

 春人はどこか得意気で、さらなる反応を期待しているようだ。柚希にも自由があるようなので放っておこう。

 ただ、春人の自由は、柚希が心配しなくても失われたりはしない。それが確認できた。

 ――良かった。

 柚希は素直に嬉しかった。

「……え、ユズ泣いてない?」

 春人が余計なことを言う。

「泣いてない」

 柚希は即答した。

 自分が空気が読めない人間だということを、柚希は知っている。けれど春人だってそうだ。空気は空気だ。言わなければ伝わらない。

 柚希はそれでいいと思った。

 結局、今日も春人は柚希の質問にちゃんと答えない。

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