第11話 見落としていた方法

 ずいぶん気温も下がって、ブレザーを脱ぐと肌寒さを感じる。

 寒いことに気が付ける自分に不思議な感覚がした。人通りは少ないが、ときおり誰かが柚希の前を足早に通り過ぎていった。

 自分の居場所ではないよく知った場所。人の目が気にならない自分に少し不安にもなる。周囲に注意がいかないくらい疲れているのか。そんなに余裕がないのだろうか。

 実際はむしろ逆で、柚希の体調は悪くなかったし、気分も落ち着いていた。

 誰かが自転車のスタンドを蹴って、車輪がカタカタと回り出す音が聞こえる。詳細は分からないが、何人かの会話のやり取りが聞こえる。通り過ぎる風が、木の葉を揺らす音すら感じた。

 駐輪場の角の校舎の影。ケヤキの木の下。柚希はいる。

 柚希は、くるくると右手で針を持って糸をボタンの糸足に巻いていく。取れそうだったブレザーのボタンがしっかりと固定される。柚希は表に通した針を左手に持ち替えると、右手のハサミで残った糸を切った。

 取れて無くなってしまうのがボタンの運命だったのかもしれないが、柚希はそれを変えることができたような気がして、少し嬉しかった。

 柚希は手元の裁縫道具を小箱に入れると、鞄にしまった。

 ――こういうことは、部室ですればよかった。

 柚希は、自分の状況判断能力の甘さに呆れながら、ブレザーの袖を通した。やはり、はっきりと寒い。

 今日は、祖母に早く帰ってこいと伝えられている。誰かが来るそうだ。柚希が早く帰る必要があるのかは分からないが、逆らう理由もない。今日は早めに帰ろう。

 部室には行っていない。鍵は開いているので、誰かが来ても問題はないはずだ。誰かといっても、来るのは春人くらい。

 柚希は立ち上がるとスカートの埃を数回はたいた。鞄を手にして顔をあげる。視界に一人の男子生徒の姿が目に入った。

 スマートフォンを片手にこちらを見ている。

 柚希は辺りを確認して、男子生徒の見ているものが自分なのかもしれないことに気付いた。

 ――え、えっと。

 柚希はにわかに緊張しながら、男子生徒の顔を確認する。

 見覚えはある。確か春人と一緒にいるところをよく目にする。名前は早坂 到(はやさか いたる)だったか。クラスは違うが同学年だったはずだ。

 男子生徒は、柚希の視線に気付いたようで軽く頭を下げる。柚希は戸惑いながら会釈を返した。

 男子生徒が口を開いた。

「文芸部の川上さんだよね」

 声は落ち着いた印象で、それが少し冷淡に感じられる。

 冷たく感じてしまうのは、自分が警戒しているからだということは柚希も理解している。

「……は、はい」

 柚希は慌てて頷いた。

「あ、早坂 です。春人の友人なんだけど……」

 到はそこで言葉に詰まる。手にしていたスマートフォンをズボンのポケットにしまった。

 柚希は頷いた。到が春人の友人であることは知っている。名前をはっきり覚えていたかと問われれば怪しいところだが。

「最近、春人とよく一緒にいるよね」

 到がポケットから柚希に視線を戻す。

 そうだろうか。部活が同じなのはずっと前からだ。「最近」のことではない。

 今度は柚希が言葉に詰まった。どう返せばいいのだろう。相手の反応が読めない。

 いけないパターンだ。このままだと何も喋れなくなってしまう。

 柚希は思いきって口を開いた。

「春人くんとは部活が同じだから」

 柚希は口にして不思議にも思う。確かに部活では春人と一緒の空間にいるが、それがどうかしたのだろうか。

「それは知ってる」

 到の返答は淡泊だ。

「一緒にいるというか……。なんていうか、仲良さそうだなって思ってさ」

 到は首を傾げて、少し考えた様子をみせて言った。

 仲がいい。そういう意味なのか。

 柚希は考える。春人とは同じ空間を共有してはいたが、会話ができるようになったのはつい最近。ただそれを仲がいいというのだろうか。であれば、春人と到の方がずっと仲がいい。

 柚希が考えていると到は言った。

「あいつは自由なやつだろ」

 到の言うあいつ。

 春人は自由だ。柚希は共感する。自由で、奔放でとらえどころがない。そういうところがまた面白いと思う。

「うん」

 柚希は思い出して笑いそうになる。

 到の視線が柚希の顔に注がれている。

「なんか、思ってた感じとはちょっと違うな」

 到が呟いた。

 ――?

 何をどう思っていたのか。到には何か思うところがあったのだろう。問いただす意欲はわかなかったが。

「川上さんって、無口で無表情だって聞いてるんだけど」

 到は言った。それは質問なのだろうか。

 誰から聞いているかは当然だが想像できる。

 春人はいったい柚希のことをどんなふうに言っているのだろう。

 お喋りが得意ではないのは柚希も自覚しているが、無表情なのかどうかは分からない。事実を伝える分には構わないが、よく分からない悪評を吹聴しているのであれば、柚希は春人に抗議をしないといけない。

「春人くん、わたしのことをなんて言ってるの?」

 柚希は思わず不満をもらしてしまう。嫌われていても仕方はないとは思う。ただ。それは春人に限った話ではない。

 柚希は他人の気持ちをくみ取ることが得意ではない。嫌いなら嫌いだと分かるように態度で示して欲しい。

 そんなふうに思ってはみたものの、相手の気持ちが分からないのは自分の問題だ。ずいぶんと甘えたことを思ったものだと柚希はまた呆れる。

「あー、それは本人に聞いた方がいいけど、……悪いふうには言ってないと思うよ」

 到は口ごもって目を逸らした。なぜか表情は笑っているようにもみえる。

 思い出したように、到は続けた。

「たぶんだけど、それなりに気に入ってるんじゃない? 最近、川上さんの話けっこう聞くから」

 到は軽い調子で言った。

 柚希は、到の言葉をなぞる。内容に疑問が浮かんだ。

 それなりに気に入るとはなんだ。柚希はペットか何かか。いや疑問に思ったのはそこではない。

 ――。

 気に入っている。どうしたらそんなことが起きるのか。

 ありえないことだと習慣的に断定するが、言われてみるとそうではない可能性を見つけてしまう。このところの春人の言動。思い返してみると、やはりというか不思議な感じはする。何がが不思議なのかをあげればたくさんあるのだが、疑問に思うことはひとつ。

 どうしてこれだけ春人は柚希に構うのか。

 到は「気に入っている」と表現した。「気に入る」といえば他の何かよりも興味があるという意味にならないか。そんなことがあるのだろうか。

 到と春人は仲がいい。同じ穴の狢といえば貶める意味がこもるのかもしれないが、相手を混乱させる術に長けているのかもしれない。

 やはり油断ならない。思考を打ち切る。

 柚希ははっきりと言った。

「それで、早坂くんはわたしにどういったご用件でしたか?」

 自分の声が思っていたより低くなってしまって、柚希は焦る。しかし言い直すのも変ではないだろうか。柚希はそんなことを考えて時機を逸する。

 引っ込みが付かないまま到をじっと見た。柚希は目が合わせられないので睨んでいるのは到の首元だったが。

「え、ちょっとまって、ユズ……じゃない、川上さん。もしかして、怒ってる?」

 到の声のトーンが上がる。慌てているかのように。

 別に怒ってはない。……こともないが、怒っていることになっているのならそれもいい。だとしても、ただの虚勢だったが。

「怒ってません。柚希で結構です。到くん」

 柚希は笑顔を作ってみる。麻衣の真似だ。

 他人とコミュニケーションを繋ぐにあたって必要なノウハウが柚希にはない。前のめりに、怒っている演技を続けるしかなくなった。柚希には麻衣のような機転の良さも面白さも、振る舞いの魅力もない。

 何の仕打ちだろうか。

 柚希は到の反応を待ちながらこうなってしまった原因を探すが、自分の対応の仕方がまずかったのは明らかだ。つまらないことに動揺してこの結果。到が察して撤退してくれないことには確実に破綻する。

 残念ながら到に撤退する意思はないようだ。

「用事はないけどさ、……ユズさん無理してない?」

 到は苦笑している。

「……うん」

 柚希は作り笑顔のままあっさりと白旗を揚げた。

 逃げ出していいだろうか。

 ユズさんとは誰だ。返事をしてしまっているので、柚希のことを言っていることは理解していることになる。

「いや、ほんと、思ってた感じとはだいぶ違うな。でも、まあ、ひとつだけ」

 動揺が広がって柚希が我を失う前に、到は真剣な表情で柚希の目を見て言った。

「春人には、自由にさせてやって欲しいな」

 到は元の淡泊な口調だ。

 ――?

 柚希は分からなかった。到の言葉が何を意味しているのか。

 少しだけ間があって到は頬を緩める。

「それだけだから」

 到は軽く片手をあげて柚希に背を向けた。

 言葉の意味を確認したいのなら、柚希は到を引き止めなければいけない。

 出来なかった。

 立ち尽くす柚希。

 到の姿はそのまま駐輪場の方へと消えていく。

 自由にさせてやって欲しい。それはどういうことか。要請であることは分かる。

 ――!

 そうか。

 柚希は理解した。

 自分が、春人を縛っているという意味だ。

 春人がそうしたいからではなく柚希が求めているから一緒にいてくれている。それは事実だろうか。柚希にとっての事実ではない。春人にとっての事実なのかどうかだ。

 柚希の髪が、服が一陣の木枯らしに揺れた。

 柚希は呆然とする。

 想像してみる。

 春人の目の前に、どうしようもない人間崩れがひとり。誰かに何かを求めることを諦めて、目の前にしゃがみ込んで自分の存在が風に消える瞬間をただ待っている。そんなふうに見える状況に出くわしたとき、春人ならどうするだろうか。

 面倒だと立ち去されるだろうか。もしかしたら……。

 柚希の視界から徐々に色の鮮やかさが失われていく。自分と世界との境界がぼやけて曖昧になっていく。

 身体だけが重力に捕らわれて、魂が軽くなって、心と身体の繋がりが途切れるような感覚。

 ――いけない!

 柚希は両手で自分の頬を叩いた。

 バシンと音がして、わずかに視界が揺れる。

 色を見よう。世界を見よう。

 柚希はしっかりと目を開き、正面を見据えた。

 これでは、繰り返しではないか。

 無自覚過ぎた。こんなふうに人を苦しめる方法があったとは。

 ここで呆けてしまうわけにはいかない。柚希はまた、哀れな救いを待つ抜け殻にみえてしまうだろう。

 柚希が求めているものが何なのかは関係ない。周囲にどう見えるかだ。

 償えるなら、償わなければいけない。その方法を考えよう。

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