第10話 ひらけた空とおちる影

 視界が開けて眼下に色褪せた芝生がなだらかに広がっていた。中央にステージがある。休日のイベント開催のときなどには人だかりができるのだろう。今は誰の姿もない。芝生のグランドにも人の姿はまばらで、広い園内がさらに広く見える。

 柚希は公園をあまり利用したことがない。公園を横断すると商店街への近道になるため通りすぎることはあるのだが、それが利用していることになるのかよくわからないので、全く利用しないとは言わない。

 公園には市の博物館や図書館、プラネタリウムなどが隣接しており、柚希の高校の生徒も部活動などでよく利用しているようだ。

 公園には生徒の姿もあって、柚希は学友たちの生活圏の広さを改めて感じる。自然の丘陵の縁に施設や公園、山手にはアスレチックのコースもあることが近くの案内板に書いてあった。

 柚希はちょうど施設群とアスレチックコースの間、グランドを見下ろせる場所にいた。子供向けの遊具がいくつか設置された、まさに柚希が公園と聞いてイメージする空間だ。

 土管のトンネル出入り口前は、グランドに向かって座るのにいい勾配になっていて柚希はそこに腰を下ろしていた。

 特に何か具体的な悪事を働いているつもりはないが、晴天の下で開けた空間にじっとしていると落ち着かない。……きっと、柚希ひとりであればここでこんなふうにはしていない。

「プラネタリウムとか行ってみる?」

 隣の春人がプラネタリウムのドームを指さして言った。いつもの思いつきなのは柚希には分かったけれど。

 プラネタリウム。柚希は一度だけ行ったことがあったような気がする。それはいつの記憶だっただろうか。きっと遠い昔の記憶だ。闇の中に自分の存在が溶けて無くなって、浮かび上がる夜空いっぱいの星の煌めき。それは本当に作り物だったのだろうか。

 もう一度見てみたい気はする……けれど。

「……行ってみたい……けど、きょうはやってないと思う」

 柚希は案内板を思い出す。

 外から見てもここのプラネタリウムは決して大きくない。町は大都市ではないし、利用者が少ないのかもしれない。上映の日時が決まっていて、記載通りなら開館していない日も多いようだった。

「まじで?」

「……うん、案内に書いてあったよ」

 柚希は上映の日時を思い出す。携帯を取り出して確認した。間違いないと思う。きょうはやっていない。

「ユズって、そういうのよく見てるなぁ……」

 春人が呟く。

 そうだろうか。柚希が興味のあるものは多くないし、記憶力も良い方ではない。春人は柚希の何を見てそう思ったのだろう。単なる偶然のように感じる。

 そう、どうして覚えていたのだろう。

 柚希の背後で声がした。何かに反響してこもったような、子供の声だろうか。なにを言っているのかかまでは分からない。

 春人が反応して後ろを向いている。柚希の幻聴というわけではなさそうだ。

 と、柚希の腰の辺りに何かが当たった。……というより何かに突然つかまれた。

「――?!」

 柚希は驚きの感情のまま飛び退って、背後を確認する。勾配にバランスを崩してたたらを踏んだ。

 子供だ。小学生くらいだろうか。男の子だった。

 柚希が固まって身構えている間に、続いてふたり、また男の子が土管から出てくる。

 考えてみれば当然だ。そういうアトラクションなのだから。

 春人がゆっくり立ち上がった。おそらくこちらを見ているのではないだろうか。

 大げさに反応してしまって、少し恥ずかしい。

「子供だから許される行動だよな……」

 春人はさめざめと呟く。ちょっと意味は分からない。

「……あ、出口に座ってたのは、わたしの方だし、ごめんなさい」

 柚希の声は少し震えている。情けないけれど仕方ない。言葉の謝罪で精一杯で頭は下げられなかった。

「ユズ、そういうこと言うとこいつら覚えるぞ」

「……『こいつら』なんて言ったら、かわいそうだよ。……覚える?」

 柚希は子供たちを見る。

 土管から最初に出てきた子供が、自分の手をまじまじと見つめている。

 柚希は、はっとした。

 両手で自分の腰を押さえる。普段あまり感じない種類の恥ずかしさを感じる。

「……そう、いう……こと、いう」

 ――から、ダメなんじゃないかな?

 何に気付いたのかは、言わない。

 しかし、春人はそんな柚希を気にするふうでもなく、屈んで土管を覗き込んでいる。

 ――?

 何か気になることでもあるのだろうか。

 柚希はつられて土管の奥を覗いてみる。何も見えなかった。正面に入り口は見えない。

 柚希が座っていた場所の他に出入り口らしいものは他にふたつ。すぐそこにひとつ。樹の向こうにひとつ。位置を考えると、中で丁字になっているのかもしれない。

「正面じゃなくて、先が見えない方へ出てきたのか」

 春人が言った。

 子供たちがどちらの入り口から入ったのかは分からない。けれど、どちらからでも確かに正面に出口の明かりが見えたはずだ。

 春人は得心したように頷くと、笑った。

 柚希に違いはよく分からないが、春人には子供たちの行動が好ましく映ったようだった。


 芝生の上を白黒のボールが行ったり来たり。

 放課後の全部活が休止になるこの期間、仕方なく外に出たふたりだったが公園で遊んでいることを誰も咎めない。良いことをしている感覚はないが、罪悪感もなかった。

 春人はすっかり楽しそうで、子供たちと一緒に騒いでいる。

 誰に対してもこんなふうなのだろう。子供たちも喜んでボールを追いかけている。ちゃんと手加減はしているようだ。

 柚希も誘われたのだが、どうもボールを目で追いかけることが難しく、またメガネを壊しそうになったので見学に回った。得意なことはこれといってないが、運動はやはり苦手なのだと感じる。柚希はへしゃげた髪の毛を手ぐしで直して、また春人たちに視線を戻す。不快な感覚はなかった。

 楽しそうな姿を見ることに目の痛さも感じない。

 柚希の全方位に普段は体感しないような開放感が広がっていた。自分という存在がいつもより小さく感じられる。それは些細だとかつまらないとかいうことではなく、本当にただ空間に対して小さいのだ。軽くなった自分が風に揺られて空に消えていきそうだ。

 柚希の目の前に白黒のボールが転がってきた。

 ――え、えっと。

 手で止めた。

「ユズちゃん、ハンド!」

 男の子が言う。

「……え」

 柚希はサッカーのルールが分からない。けれど、手で触ってはいけないということは知っている。それ以前の問題だったが、4人がしているのはサッカーとして成立していたことを今改めて確認した。この瞬間、不可抗力で参加者がまた5人になった。

「ユズ、こっち!」

 春人が手を振っている。

 ボールの蹴り方は教わったのだが、靴が壊れそうである。

 たとえば、麻衣はなんでもこなしたが、サッカーをしているところは見たことがない。これは必要なことなのだろうか。

 春人はまったく気にした様子もなくもう一度手を振る。

 柚希はひとまず考えることをやめる。

 ――っ!

 ボールがわずかに浮いて転がった。春人の待つ方向とはかなり違ったが白黒のボールはなんとか前へ飛んだ。柚希は何歩分か前に身体が泳いだが、傾いた重心を整えてボールの行方を追う。

「さんきゅ!」

 春人は軽い足取りで転がったボールを追いかけた。

 柚希はほっとしてまた見学に回る。参加者が再び4人に戻る。

 ふと思う。何であれば、柚希はこの輪に加われるのだろう。

 考えてみようとしたがやめた。眺めているだけで充分な気がする。

 きっと今、柚希は楽しい。


 公園を出るのが遅くなってしまって、もう辺りは暗くなり始めていた。まっすぐ帰れば、柚希は真っ暗になるまでには祖父母の家までたどり着けるような気はする。きっと春人が家に着く頃にはすっかり夜になっているだろう。本人はまるで気にしていないようだったが、気にする理由がないのかもしれない。

 ふたりは公園を出て、お互いの行き先の別れる橋へ向かって歩く。

 春人は相変わらず楽しそうに柚希の隣で話をしていた。サッカーの話から脱線して今はゲームの話をしている。柚希に分かる部分は断片的だが、それは麻衣が興奮して何かを語っているときとよく似ている。聞いていて苦痛ということはなかった。むしろ楽しそうに話す春人を見て柚希はどこか穏やかな気分になる。

 ふたりの行く手の街灯の下に小さな影を見つけた。道の真ん中に何かが落ちていた。

 歩みを進めて、柚希はそれが何なのか分かった。

 死骸だ。

 近付いてみればそれは鳥。いや、鳩だと分かった。

 公園の周囲には多くの鳩が生息している。

 好意的に受け止める人もいれば、困った存在だと言う人もいる。柚希も知っていた。ただ、柚希にとっては公園の周りには鳩がいる。それだけのことで特に感じるものはない。

 その1羽が地面で死んでいた。

 さすがに柚希も亡骸になってしまった鳩に対して何も感じないわけではない。生き物の死だ。

 柚希も春人も無言で立ち止まった。

 自分は悲しいのだろうか。つらいのだろうか。かわいそうだと思っているのだろうか。どれも違うとは思わない。けれどそんな感情とは違う何かを柚希は感じている。

 おそらく、鳩は自動車か何かに衝突して命を失ったのだと思う。

 なぜか柚希は亡骸から視線が逸らせなかった。

 命を失う。すなわち、死ぬこと。

 引き込まれるような感覚がする。柚希の視界から鳩の死骸以外が少しずつ抜け落ちていく。まさに引き込まれるように、柚希の足がそれに向かって動き出す。

「ユズ」

 隣から春人の声がした。

 柚希は我に返る。立ち止まってゆっくりと春人を確認した。

 春人に表情はない。

 柚希は今、自分のとろうとした行動を振り返ってみて血の気が引いた。けれど具体的に何をしようとしたのかは思い出せない。

 柚希が混乱している間に、春人が歩き出す。無表情のまま鳩に歩み寄った。

 ――春人くん?

 春人は鳩の亡骸の隣に立つと、腰を落とす。

 ――!

 春人はそれを両手で何のためらいもなく拾い上げた。

 柚希は春人が何をしたいのかまったく分からない。拾い上げてどうするというのか。

 春人はじっと亡骸を見つめると。両手に抱えたままゆっくりと道端へと歩みを進めて止まった。そこにしゃがむ。

 丁寧に、とても丁寧に、春人は鳩の亡骸をそこに置いた。

 やっと理解した。

 ここは交通量の多い道ではない。けれど通行するものがないわけではない。自動車やバイクなど。亡骸を道の真ん中に放置すれば、また轢かれ、いずれ元の形も分からないくらい潰れて千切れて無残な姿になるだろう。

 春人は、少しでも安全な場所にそれを移したのだ。

 命を失った抜け殻を守ることにどれくらいの意味があるのかは分からない。抜け殻。それは、もはや「もの」でしかないのかもしれない。けれどかつて生きて存在していた名残。春人は1羽の鳩の何かを守ろうとした。その何かが今もそこにあるのかは分からない。けれど柚希はそう感じた。

「あの世で会おうぜ」

 春人は力強い口調で言った。

 その表情は笑顔に見えた。やはり何を考えているのかは分からない。けれど柚希は、春人の表情とは裏腹にその姿に悲愴な思いを感じ取った。

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