第9話 はじまりの日

 フロアマットの上にガラスの破片が落ちている。

 窓ガラスが割れていた。

 向かいの道路からの飛び石か何かだろうか。

 もし誰かが故意に割ったのだとしても柚希には分からないし、事実は何も変わらない。

 部屋には柚希がひとり。鞄を床に落としたまま、ただ立っている。

 様子はいつもと変わらない。朝、柚希が部屋を出たときのままだ。机も、ベッドも、本棚も。柚希の私物も、椅子もそのままだ。

 ただ、割れてしまった窓と床に散乱した破片以外は。

 不思議と驚きがなかった。

 早く片付けて、修理をしないといけない。その段取りを考えようとする。けれど、注意がそちらにいかない。

 割れた窓ガラスに柚希の視線が吸い寄せられて離れない。

 ゆっくりと体温が下がっていく感覚がした。

 手が、足が動かせないことに気が付いた。

 部屋の空気が硬さを得て、柚希を氷漬けにしている。

 違う。動かないのは空気ではない。柚希の身体の方だ。

 おかしい。明らかに何か変だ。

 ――なにを忘れてる?

 柚希は自分に問う。理由を。

 割れたガラスと柚希の身体。それは確かにここに存在している。しかし、それ以外は本当にここにあるのだろうか。

 目が乾いて痛んだ。まばたきを忘れている。

 そもそも、こことは、どこだろうか。

 音がした。硬い何かが割れる音。そう、例えばガラスのような何かが割れるような。

 柚希は、どこにいるのか理解した。

 古いアパートの一室。

 柚希は立てかけられたテーブルと壁の隙間にいた。

 自分の心が影から出てはいけないと教えている。そうだ。柚希の身体はテーブルの影に隠れられるくらいに小さかった。

 子供のように小さな手、小さな身体。当たり前だ。子供なのだから。

 声がした。

「――!」

 何かを怒鳴っている。男性の声だ。

 大きな音がする。何かが折れ、何かが割れたのが分かる。

 柚希は、ただじっと畳の縁を見つめていた。

「――!」

 今度は女性の声がした。声というより悲鳴に近い。

「――!」

「――!」

 男は、何度も何度も何かを叫んでいるが、何を言っているのか分からない。当然だった。柚希はそれを理解しようとしていない。

 ときおり、何かが壊れる音がして、また男の怒声と女の悲鳴、そしてまた何かの音。

 柚希は時が来るのを待っていた。そんな時は来ない方がいいと、いつも思うけれど柚希には待つより他に術がなかった。

 やがて女の声が泣き声になっていく。

 しばらく音がしていたが、乱暴にドアが閉まる音がして女の嗚咽だけが残った。

 柚希はまだ猶予があることを知っていた。

 畳の縁が面白いわけではない。目を開けていればそれが目に入ってくるというだけだ。ただじっとうずくまって待っている。

 そして、泣き声が消え静かになった。

 何も言えない。何もできない。なのに一体どうして自分がここにいるのか。ここにいてしまっているのか。

 柚希のその問いかけは、問いかけ方が間違っている。なぜなら、用意されている答えに合わないからだ。

 柚希が待っていた時がやって来る。

 足音が近付いてくる。ゆっくりと畳を踏みしめる音。

 音は柚希の近くまで来て止まった。

 柚希が何を差し出したとしても逃れられない恐怖。自分が生きているいることを心の底から呪わずにはいられない瞬間。

「ゆづき」

 その声はとても落ち着いていた。さっきまで泣き叫んでいた声とはまるで違って聞こえる。穏やかに、涼やかに偽装している、怒りと憎しみに震える声。

 名を呼ばれたからといって、柚希が返事をする意味はなかった。結果は同じだからだ。

 ――!

 柚希の視界が激しく揺れて、頭があらぬ方向に持っていかれる。

 首に激痛が走った。

 髪の毛を引っ張られて柚希はそのまま影から引きずり出される。抵抗してもいいが、髪の毛をむしり取られるだけだ。

 視界が涙で曇った。

 それは、圧倒的な力だ。柚希の髪の毛をつかんだ手で乱暴に柚希の頭の向きを操作する。

 柚希の視界の正面に声の主の顔が映った。

 柚希の目は涙で曇り、明かりも逆光だったが、表情はよく分かった。

「お前が生まれてきたから、わたしたちの人生は台無しだ。みんな不幸になる。いつかわたしが殺してやるから」

 そう言った顔は怒りと憎しみで歪んでいる。表情は、とても人の顔には見えなかった。

 しかし、それが柚希の母という人間だった。

 柚希はいつも傷だらけだった。それは母も同じだ。父もそうだ。身体だけではない。心の傷はいつまでも痛んで消えない。

 柚希の家族は、みんな柚希の犠牲者だった。柚希自身もだ。

 柚希の人生は最初から、答えに合う答えを探す方程式だった。

 どうして柚希がここにいるのかが問題ではない。柚希ががここにいてはいけない理由を問い続けるのだ。いくらでもあるように思えるけれど、柚希は生き永らえている。納得できる答えが見つかれば、柚希はいなくなれるのだろうか。

 何かが鳴っている。電話だ。柚希が両親と過ごしたアパートに固定電話はない。柚希の携帯はいつもマナーモードなので音はしない。

 柚希は世界を移動した。ゆっくりと目を開く。目醒めたのかもしれないし、再び夢の世界に逃げ込んだだけなのかもしれない。

 左目には桃色のマットレスの起毛が、右目には使われていないベッドと窓が見える。祖父母の家のいつもの叔母の部屋だ。

 電話の呼び出し音が止んだ。電話の音はどうやらこの世界のものだったようだ。現実感のない現実の世界。

 やはり、窓は割れていた。

 柚希は起き上がろうとした。

 手は動く。足も動く。身体を起こそうとした瞬間、視界がシャッターを下ろしたように不鮮明になって、何かが床に落ちた。

 柚希はとりあえず上体だけ起こして、落ちたものを手に取った。

 メガネだ。フレームが折れたようだった。

 受け身も取らずに倒れたのだとしたら、メガネが壊れたくらいで済んで幸いだろう。身体に痛みはない。顔を撫でてみたら手が濡れた。

 鼻血だろうかと思って手のひらを確認したがそうではないようだ。

 鼻水か、よだれか、涙のどれかだろう。

 柚希は意識を失っている間、悪夢の中と同じように、ずいぶん泣いたようだ。

 酷い顔だろう。けれど見えない。

 柚希は可笑しかった。

 皮肉にもメガネが壊れたおかげで自分の醜い顔を見ないで済んだ。

 もちろんメガネの予備はあるし、コンタクトレンズもあるにはある。けれど――。

 ――メガネ、赤にしたら春人くんは笑うかな。

 柚希はそんなふうに思って、さらに可笑しくなる。

 自動的に思い浮かんだ思考。それがこれか。

 可笑しくてたまらない。

 修理にかかる費用をどうしようかという不安でも、部屋の状況を目の当たりにして処理すべき問題でもない。自分の行動に対して誰がどう思うだろうかという感傷。

「まるで、恋するオトメだなぁー」

 柚希は春人のように自分を茶化すと、ゆっくりと立ち上がる。

 もちろん割れたガラスは片付けないといけない。メガネの修理も考えないといけない。柚希の処理能力を考えると、冗談を言っている暇はないだろう。

 柚希は机の引き出しから手探りで予備のメガネを取り出す。

 代わり映えのしない銀色のフレームのメガネ。

 すべきことをするだけ。

 特に何のためらいもなく手に取ってかけた。

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