第8話 夕焼けを歩く

  夕焼けの次の日は晴れるという。

 薄紅色に染まった鱗雲と茜色の空。

 秋の日は釣瓶落とし。長かった一日が少しずつ短くなっていって、やがて冬が訪れる。そんな夏と冬の間の季節。

 普段、蛍光灯の下で暮らしていると忘れてしまう空の色。秋の乾いた風がさらさらと戦いでいる。

 堤防の遊歩道を自転車を引いて歩く。河川敷の公園には人影もない。それが毎日のことなのか今日は特別なのか柚希は知らない。

「赤とんぼはいないなぁ」

 春人が隣で言った。すました顔で前を向いている。

 夕焼け小焼けの赤とんぼ。追われてみたことはなかったが、柚希は郷愁を誘ういい歌だと思う。自分にも愁える故郷はあったのだろうか。

「写真くらいでしか見ないよね」

 柚希は実物の赤とんぼを見たことがない。春人はあるのだろうか。

 他愛のないやり取りを交わし歩く。2人の先に見える橋を左に柚希、右に春人。歩みはゆっくりだが、分岐点は確実に近付いてくる。今生の別れでもないのだが、今が心地よく思えるから柚希にはそれでも残念に思えた。

「そういえば、春人くん、進路決めたの?」

 柚希は少し気になって聞いてみた。3学期には保護者との三者面談がある。それまでには決めておかなければいけないことだ。

 春人は首を傾げる。

「うーん、明日のことは分かんないよなー」

 春人は視線を逸らせて笑った。

 進路調査票の期限があるので、心づもりはあるのだろう。言いたくないのだろうか。まあ考えてみれば気持ちは分かる気がする。自分の夢や希望を語ることは恥ずかしいことなのかもしれない。不思議なことではなかった。

「ユズは決めたの?」

 春人はこちらを覗き込む。お返しとばかりに言った。

 聞いてみたはいいが、同じ質問が返ってきて、それは当然といえば当然だった。柚希はうろたえて自分の浅はかさに呆れた。

 ――そんなの、決まってる。

 正直に答えれば希望はない。けれど、進路というものは選ばなくても決まるものだ。柚希に務まることがあるのかどうかは分からないが……。

「……就職にした」

 本当はずっと前から決めていた。

 早く家から出たい。離れたい、できるだけ遠くへ。

 それが希望といえばそうだ。誰が悪いわけでもない自分の存在が全て。

 柚希は絵の具の黒のように滲んで、全ての色をくすませる。柚希の周囲、とりわけ柚希の家族にとってはそうなのだ。できることといえば、遠くへ離れるかもう少し勇気が出せるなら……。

「……へー、そっかぁ」

 大きく目を開いて春人は柚希を見る。何に感心したのかは分からない。

「まあ、俺もだけど」

 春人はぽつりと付け加えた。

 ――え? そうなんだ。

 進学を選ぶ者が多い。進路といえば、どこの大学に行くのか、もしくは専門学校にするのかを答えるものだと思っていた。柚希のような特殊な例を除けば、理由はどうであれ、先のことは進学してからまたしっかり考えればいい。そうするものだと思っていたのだが。

 春人にも事情があるのかもしれない。柚希はそれ以上の詮索はやめた。

 しばらくして、不意に春人が立ち止まった。柚希も数歩遅れてつられて止まる。

「……将来とか大事なんだろうけどさ、今が一番大事なんだよ」

 そう言った春人は、ぼんやりとどこかを見つめていた。

 柚希は春人の言葉を繰り返した。

 ――今が一番大事……?

 柚希にとっては、今は過去の延長でしかない。そして続くのは未来。

 確かに未来はよく分からない。不確かで怪しげだ。けれど、今が苦しいからこそ未来に縋るしかない。ないのかもしれない希望に。

 今は将来よりも大事だろうか。

 春人が柚希に歩み寄って、顔を覗き込んだ。

 慌てて目を逸らす。また負のオーラを出していたのだろうか。いや。それはいつものはずだ。

「ユズさ、メガネのフレーム赤にしてみたら?」

 春人はじっと柚希の目を見る。

「は?」

 柚希は思わず声が出た。

 なぜ、メガネ。

 唐突にメガネのフレームの話になった理由が分からない。柚希のメガネはそんなにおかしいのだろうか。フレームの色は銀色。悪目立ちするようなデザインでもないと思う。

 想像してみる。

 ――ありえない!

 赤いフレームのメガネなんて印象が強すぎる。どこにいても個人が特定できるくらいの存在感だ。そんな恐ろしいことは柚希にはできない。

 春人は悪戯っぽく笑って言う。

「赤にしたら赤とんぼみたいじゃない?」

 春人は言い終わると逃げるように走り出した。柚希が言葉の意味を理解する前に。

 いや、逃げるようにではない。逃げ出したのだ。

 夕焼け小焼けの赤とんぼ。

 逃げられると、追いかけなくてはいけない気がする。

 自転車のチェーンがカタカタと音を立てる。一足遅れたゆっくりとした動作に、どこか芝居がかっていると柚希は自分でも感じた。

 柚希も春人を追って駆け出す。

「わたし、とんぼじゃないから!」

 春人は柚希をからかって何が楽しいのだろう。しかし柚希の方はこれは楽しいのかもしれない。

 夕焼けの赤は次第に濃くなって、宵が訪れようとしていた。

 もしかしたら、キラキラするというのはこういうことなのだろうか。

 今なら悪くない。

 確かに今のこの瞬間なら大事にしてもいいと、柚希は思った。

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