第7話 失った可能性
――結局、食べるんだ。
嬉しそうにそれを頬張る春人の顔を見て、柚希は少し気が抜けた。
春人の前には空になったカゴと緑色のソーダ。柚希の前にはアイスコーヒー。テーブルの上には、他に小さな卓上メニューと紙ナプキンの入ったステンレスの入れ物。端に、雑に丸められたものと四角く折りたたまれたおしぼりが2つ。2人とも手を付けていない水の入ったガラスコップ。
柚希のことを運動不足だと指摘した春人は、目の前で明らかに消費した以上のカロリーを摂取している。身体を動かすことが大事で、食べるか食べないかは確かに問題にしてないけれど、釈然としない思いだ。ただ、入ろうとする店の品格や商品が、自分の趣味と合わないなどと言っていた春人だが、特に文句もこぼさず注文の品を平らげているので、不満だったというわけではないようだ。柚希は安心した。
2人が入ったのは、麻衣が気に入って柚希とよく訪れたお店だ。麻衣がいなくなってから柚希もずいぶん来ていなかったが、当時と変わらず店内の雰囲気はさっぱりとして落ち着いた感じがする。
柚希は、はっきりと、商店街や飲食店の喧噪が苦手だ。人がたくさんいる空間にいるだけでどこか落ち着かない。けれど、この店は嫌いではなかった。理由を断言はできない。木の温もりが安心感を与えるのか、静かな店内が騒々しさを忘れさせてくれるからか。
春人は余所行きな感じが自分に合わないと言っていた。柚希もお洒落や流行に明るくないが、春人がそう感じるのならそうかもしれない。柚希が初めて麻衣と訪れたときとても場違いな感じはした。それが今は不思議と安心感すら覚える。完全に麻衣の趣向だ。だからかもしれない。安心できるのは麻衣との思い出があるからなのだろう。
「なんか、こう、映画みたいじゃない?」
春人は台詞とは裏腹に、気怠そうな表情で辺りを見渡した。
映画。柚希はあまり映画もドラマも見ない。なので春人の喩えがいまいち分からなかった。
「……そう?」
柚希は春人に説明を促す。
「いや、俺、あんまり映画とかみないんだけど」
春人は苦笑すると、少しうつむいてううんと唸った。
映画を見ないのに映画に喩えるとは、なんというか、柚希が理解できないことも許される気がした。
春人が何を映画に喩えたのかは分からないが、映画というと柚希には整えられたスチル写真のようなイメージがある。
映画のワンシーンという慣用化した表現がある。大抵はドラマティックであったり綺麗な情景であったり、見る人の心に残る印象的なシーンを想像する。春人は何かがそうだという。何がそうなのか。
春人は俯いたまま、思い付いたように口を開いた。
「映画ってさ、物語に大事な場面はあるんだけど、思い出すとさ、なんでもない日常のシーンとかけっこう印象に残ってるんだよ。たとえば、今みたいな」
春人は顔を上げると柚希を見る。
柚希は春人の真面目な表情に少し驚くが、それはそれとしておいて、考えてみる。
――今……が印象に残る?
柚希は改めて周囲を見回した。
特になにも起きないだろう店内。以前に来たときと変わっていることといえば、座っている客が違うだろうということ。メニューボードの季節の品くらいだろうか。観葉植物の花が目についたが、以前と違うかと問われると答えに自信はない。ああそうか。目の前に座っている人物が麻衣から春人に変わっている。しかし、そのくらいだ。
――そういうものなのかな。
なんでもない日常。意味がないとは思わない。
文化祭のときお世話になったお礼に軽い食事に誘った。柚希としては、それは口実で、学校を出た春人がどんなふうに過ごしているのか気になったというのが本音だが、あってもその程度の意味だ。
どうして記憶に残るのだろう。大事なシーンと大事なシーンの間。その2つを繋ぐという意味以上のなにかが日常にあるのだろうか。春人の記憶に残る理由はあるはずだった。
春人は言った。
「なんか、キラキラしてない?」
口にしたあとに苦笑いを浮かべる春人。目を逸らせた。なにを照れているのかは分からない。
――そうなんだ。
キラキラするという感覚。
春人が、柚希と同じ感覚を言葉にしているかどうかは確認できない。けれど柚希の「キラキラしている何か」には、間違いなく春人が含まれている。確かに映画の登場人物のようだといわれればそうかもしれない。
柚希の周囲の人たちがまとう光の輪郭。目に見えるといえば幻覚かもしれない。けれど感じるまぶしい人の輝き。
「なんとなく、分かる……かも」
柚希は頷いた。
春人は無言だった。
柚希が同意したにも関わらず、春人は不満足げに見えた。
春人は目を閉じてまた唸る。そして眠そうな目で首を傾げて言った。
「あー、うん。たぶん、そんな感じなんだと思うけど……」
春人は言い難そうに口ごもる。
なんだろうか。
柚希の返答に不服だったのだろうか。
何か妙なことを言っただろうか。同意を示しただけだ。分かるかもしれないという答えでは不満だということだろうか。
柚希は春人ではない。
春人がなにを感じているのか、理解できない。この場合、表面的にでも完全に同意すべきだったのかもしれないけれど……。
不快にさせてしまったかもしれないという焦り。
春人の予想外の表情に柚希には戸惑いが残るが、いまさらどうしようもないと思う。春人が再度、柚希に同意を求めてくるとも考え難い。
柚希と春人が知り合ってから、ずいぶん経っている。けれど、会話とよべるほどの会話ができるようになったのは、つい最近だ。春人には柚希の知らない価値観があって許容できる範囲がきっとある。限度を越えれば感情は表出する。それは怒りなのかもしれない。
気分が沈んでいくのが分かった。柚希の視線の対象が下がっていく。
「いやいや、違うって」
春人は左右に手を振って否定する。
柚希の様子を見て慌ててフォローしようと考えてくれたのか。それはいけない。
柚希は俯きかけた顔を上げて、なるべく平気そうな顔を作ってみる。笑顔は苦手なのでうまくできているかどうか分からない。けれど自分の失言を相手の不注意であったかのように済ませたくはない。
ただ、柚希には春人が何を否定しているのか分からなかった。
「違うし、そうじゃない」
春人は強い口調で言った。
反射的に柚希の思考が止まって消えた。
弾けるように空間が停止した。
柚希を見る春人。
春人は真剣な眼差しで柚希を見据えている。そんな春人の表情が解け、空間がまた動き出した。
春人は視線を落とすと言った。
「ユズもそうなんだよ」
春人は所在なげにテーブルに視線を移す。
柚希は春人の言葉を正確に拾いきれただろうか。自分の動揺が理解にタイムラグを生んだ。
――わたしもそう?
そうとは、どうなのか。
柚希には春人が何を指示しているのか分からない。春人の言うことは分からないことばかりだ。
春人は言いたいことは言い終わったというような顔をしている。
柚希には何も伝わっていない。意図するものが伝わるのであれば、今すぐ伝わりたい。春人の言葉の何からなら理解できるだろうか。柚希は焦る気持ちに身体が強張ってくる。
春人は笑うと、首を振った。
「そうだよなー、言いかけたのは俺だし、ちゃんと言わないとわかんないか……」
春人はそう呟くと柚希を見る。
「俺には、柚希さんも『キラキラして見える』わけですね」
言い終わるとへにゃりと笑った。春人は頭を掻く。
――?
柚希には意味不明で理解不能だった。
――わたしキラキラ?
柚希は春人が化粧品の話をしているのかとも考えたが、おそらくそういうことではない。
柚希は、自分が未知の悪い病気ではないかと疑う。キラキラして見えると春人が言った。そのように聞こえたのは、聞き間違いだとしても酷すぎはしないか。柚希の中にあるあらゆる常識を総動員しても結びつかないし、とてもありえない。
そうだ。春人が「キラキラする」なんていう言葉を使うのも最初からおかしかったのだ。「負のオーラをまとってぼんやり歩いている」柚希が、「キラキラ」していたら、それはある種の曲芸だと思う。芸としては面白いかもしれないが、誰も許さない。
「いや、褒めてるわけでもないよ。そうやってどうでもいいことを真面目に悩んで、真剣に生きてる感じするし、まさに青春の輝きで、まぶしいな……ってだけだから」
春人の声がする。
青春の輝きだそうだ。もうだめかもしれない。
柚希は自分の目が泳いでいるのが分かった。なぜなら視界がそうだからだ。
「春人くん、迷惑かけてごめんなさい」
柚希には自分の状態がよく分からない。
意識もはっきりしているし、言葉を話すこともできているように思う。呼吸も比較的落ち着いているように思えるし、他に異常は感じられない。耳の不良というよりは、頭の方がどうかしているようだ。
「あー、ごめんごめん。褒めてる褒めてる! 嘘だって、めんどくさいやつだなー。いちいち思い詰めるなって!」
春人がテーブルから身を乗り出して柚希の表情を覗き込む。
――褒めてる?
ますます分からないではないか。
何を褒めるのか。曲芸をか。どうかしている頭か。柚希の全てをか。柚希は何も知らない。そんな世界があるのなら、それはもうこの世界ではない。
「あのさ、周りがキラキラして見えるってのは、正直、羨ましいって思ってるんだと思う」
春人は、力なく笑って続けた。
「羨ましいってのは、もしかしたら、自分がそうなれるかもしれないって思ってるから羨ましいわけだろ?」
春人は乗り出したまま、柚希の目を見た。
近い。春人の目には柚希が映っているのだろう。
気恥ずかしさを感じながらも、春人の問いを考えてみる。
自分の可能性。柚希には見当も付かなかった。
柚希が春人のようになれる可能性。ないだろう。もしかしたらあったのかもしれない。ただそれは遠い昔に失われてしまったように思える。
春人は椅子に座り直して、穏やかな口調で言葉を加える。
「出来もしないことを出来ないからって悔しくない。なれもしないものになれなくても羨ましく思ったりしない。世界征服でも不老不死でもなんでもいいけど、出来ないって分かるだろ。出来るかもって思ってるから羨ましくて、だから周囲が輝いて見える……そう思うんだけどな」
春人は独り言のように言った。春人は自問自答し、自分の中に答えを探して彷徨っているようにも見えた。
「キラキラして」見えるのは羨ましいのだろうか。輝いて見える人たちを目の当たりにしていると痛みを感じる。それは羨望からなのか。柚希は悔しいのだろうか。妬んでいるのだろうか。なにかが違っていれば、自分もそうなれていたかもしれない。そんなふうに思っているのか。だとしても――。
それは失った可能性。
もうどうしようもないことだ。
「……もうできないって分かってても、羨ましく思えることってあるのかな?」
柚希はそう言ってから、自分が口にした言葉の重さを感じた。
失った可能性を悔やむ。
自分の中にそんな思いがあったことに気付かなかった。言葉にしてみても違和感を感じない。本当は知っていたのかもしれない。
向き合ってこなかった、未練がましくて、浅ましくて、でも正直な柚希の気持ち。
春人は俯いたまま言った。
「それは、ないよ」
無表情のまま春人は冷たく言い放つ。
「できることをできないと思い込んでいるか、分かっているつもりで分かっていないか、どっちかだよ」
春人の言葉ははっきりとした断定だった。
柚希は唖然とした。
自分の問いが一蹴されたことに驚いたわけでも呆れたわけでもない。春人の言葉は一切の湿り気のない、乾いたものだった。それは春人からは想像できない鋭さと、普段とは比較にならない空虚さだ。
春人は、ため息をついて顔を上げた。
「……と思うよ」
春人は取って付けたように言って、いつもの苦笑いをみせる。
柚希は、春人の怒りを初めて見た。
恐ろしさは感じなかった。柚希はどこかもの悲しい別の感情を覚えた。
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