第6話 ガラス玉
人は役割がないと生きていけないと教えられた。
それは、いつだっただろうか。将来について考える社会の授業のときだっただろうか。それともクラスの役員を決めるために、生徒の自主性を促す先生の言葉を聞いたときだろうか。自分を引き取ってくれた叔父が、疲れ果てて帰ってきて、おそらく自らを奮い立たせるために語った人生訓を聞いたときだろうか。
柚希は今、生きている。
つまり、どういうことだろうと考えた。
誰かに助けられ、それでも受けた恩を仇で返すように毎日を重ね、誰かに見放されては、また誰かに手を引かれ、手を引いて歩いてくれる人の重石になって生きてきた。
それが、柚希の役割なのだろうか。
誰かを助けることで、助けた人間は自分の出来ることを見つける。可能性が自信に繋がり、いろんなことにまた挑戦する勇気が湧いてくるのかもしれない。また劣等感に生きる人は、自分より劣った人間がいることを確認し自分を保つ理由にするのかもしれない。
けれど、助けられた人間はそれで救われるのだろうか。
返しきれないと思うほどの恩情。恩返しのつもりの行動が周囲に想定外の負担をかける。かといって何もしなければ迷惑がかからないわけではない。ただ生きているだけでたくさんの人の助力が必要になるのだ。
柚希はプリントやノートを抱えて廊下を歩いている。染み付いた観念は伝わるのだろうか。とぼとぼと申し訳なさそうに歩いているように周囲に見えて、情けでもそれで道を通してもらえるのならいい。
クラス全員分の紙の束は存外に重い。それでも、柚希にはノートやプリントよりも、それを職員室まで運ぶという役割を与えられ、果たす責任の方が実際の重量よりも重さの実感があった。まさか廊下で転んでプリントをまき散らすようなことはないと思うが、それでも自分は柚希だ。ないということはないだろう。
けれど日直という役割は嫌いではない。なにか役に立つことをしていられる間は安心感もある。それは文芸部の部長の代役を与えられたことにしても同じかもしれないと今は思う。
リノリウムの廊下は蛍光灯の光を緩く反射して柚希の行く手へ続いている。放課後の廊下に響く音は、遠くで聞こえる生徒の声や吹奏楽の楽器の音だけ。今日は天気に恵まれ、皆、帰途についたか、あるいは屋外へと出ているのだろう。人の姿は少ない。
柚希にはそんな日常の風景が、ここではない違う世界に見えもする。発色を失い意味を失った、色だけは残った世界。それは良くも悪くもない、ただそうだというだけ。
職員室への用事を済ませれば、今日あたりには図書室で借りている本を読み終えられそうだ。延長に延長を重ねているのでそろそろ返さないといけない。
柚希はぼんやりと考えながら歩く。
「お疲れ」
背後から声を聞いた。
柚希は、反射的に歩みが止まった。
声の主が柚希の退色した世界に顔を出す。
春人だった。
柚希が自分の世界の色を自覚するのも、例えば彼や麻衣のような存在がいるからだ。
春人の眠そうな笑顔は、表情とは裏腹に、どこかキラキラと燐光をまとって目が痛いほどだ。彼らに限ったことではない。名前も分からない同級生や、すれ違う人たち。よく見ればみんなしっかりと色をまとって輪郭を持っている。ただ、それも良くも悪くもない。そう見えるというだけだ。
「日直かぁ」
春人は、柚希の手元を見て言った。
見ただけで分かるのはすごいと思う。分かるのが普通なのか。けれどそれ以上に、春人が、背後から声をかけて相手をちゃんと確認せずに話を始められるられるのが驚きだ。人違いだったらどうするのだろう。
「……なんで、わたしって分かるの?」
柚希は声に出してから、確認するまでもなかったと反省する。春人が人違いを気にするような臆病な人間ではないことを思い出した。
春人は視線をこちらに戻し、大げさに笑った。
「いや、わかるって、すごい負のオーラみたいなの出してぼんやり歩いてるし、ユズしかいないってそんなの!」
特定できるのか。
春人は柚希だと分かったようだ。
しかし、特定された理由になっているらしい負のオーラとは実際どんなものだろう。生ゴミから漂うような悪臭か。悪魔や魔獣が放つという瘴気のようなものか。ぼんやり歩くとは何がどう伝わっているのか。
考えて、やめた。
柚希は嫌みを言われたような気になって、春人から顔を逸らして抗議した。おそらく嫌みというより春人にはそう見えるのだろう。春人には事実なのだ。
「……これが普通だから」
柚希は控えめだが、否定する。
言った後で不思議な感覚がある。否定はおかしくはないだろうか。もし春人の言った通りならば、春人の目に映る事実と柚希の自己像とは大きく矛盾しない。つまり抗議する必要はないのに。
よく分からないが、何故か癪に障ったのだ。
ちらりと春人の表情を窺う。まだ笑っている。
――なに? わざわざそんなことを言うために声をかけたの?
違う。問うたのは柚希の方で春人は答えただけだ。
しかし改めて考えてみる。
春人は、柚希にかまう時間があるほど暇なのだろうか。そう思ってみたが、確認するまでもないことだと気付く。暇かどうかではなく、春人が暇なのは明らかで、その暇を潰す過程で目についた柚希に声をかけただけだ。
春人は暇つぶしで文芸部にいると明言している。潰さなくてはいけないくらいの暇があるのだ。
ならば柚希も貢献しよう。恩は返さなくてはいけない。
「……暇なら運ぶの手伝ってくれてもいいよ」
柚希は抱えた紙の束を小さく揺すって指示する。気持ちがこもってなかなか酷い言い方になったのではないだろうか。
「いや、ユズもたまには身体動かした方がいいと思うな」
しかし春人は、嫌だと即答する。
――お前がそれを言うな。
たとえば、麻衣ならそう切り返したはずだ。
柚希は麻衣ではない。そうはしない。
春人に指示されずとも、職員室には一人で行くつもりだったし、無理にかまう必要はないのだ。春人であれば暇も他で潰せるだろう。柚希は手伝いを強要したいわけではない。
言い返されたから引き下がったようで腑に落ちない。けれど、まあいいだろう。
柚希は向き直ると職員室へとまた歩き出す。
柚希の動作は、他人が見てもぼんやりとしているのだろう。春人の言葉でそれが確認できた。
柚希は身体を動かすことが苦手といっていい。自覚はしている。それとも春人は柚希の運動量が不足していると言いたいのだろうか。であれば、電車通学の春人よりは、自転車で学校に通っている柚希の方が多い気がする。そもそも苦手であっても、こなしている量を問われれば、柚希が春人に指示されるいわれなどないのではとさえ思えてくる。
柚希は、自分の歩く速度が上がっていることに気付いた。苛立ちなのだろうか。しかし柚希は、それもつまらないことだとまた切り捨てる。
いや。話を聞き、部活動での振る舞いを見る限り、春人は積極的に怠けているようにさえ見えるではないか。しかしそれは、確かに春人と柚希の比較で、その比較ひとつをもって自分が運動不足でないとはいえない。誰と比べるのかは大事だ。
……いつものようにまとまらない思考を適当に切り上げて放り出そうとした。が。
引っかかるものがある。
柚希は停止した。
比べる? 誰と?
何かと比べなければ過不足なんて判断できない。
柚希は気付いた。自分以外の誰がどこで何をしているのか、まるで知らない。そう、比較しようにも自分以外をまず知らないのではないか。
おそらく重要なことなのではないか。そして今の今まで大事なことを見落としていたのだ。
柚希はいつも通りの自分の鈍さに直面する。そして自分に減点をつけて、またいつものように気が遠くなっていく。
気が遠くなるのは比喩ではなく、実際に感じる救いようのない感覚だ。
現実感のない現実が、柚希からさらに遠ざかっていく。校舎の窓が、廊下が、自分が抱えている軽くないはずのノートやプリントの束が質感を失っていく。より自分が世界から取り残されていく。
今そこにいた春人を例に取ってみても、普段の彼がどこにいて何をしているのか柚希は知らない。知らないことに気がつけば、それは恐怖だ。
ただ、柚希は自分の思考の連結に、違和感を覚える。そして異変に気付いた。
何者か分からない者がそこにいるだけで恐ろしい。それは今でも変わらないはずだ。
では、春人はなんなのだ。
恐ろしいはずだ。わからないのだから。
恐ろしかった。それも遠い昔の話ではなくつい先日まで。春人は柚希にとっておそらく脅威だったはずだ。
知らないし、知りたくもない。そう認識して済ましてきたつもりだけれど、果たしてそうなのだろうか。
どうして柚希は春人や他者を恐れてきたのか。また今はどうして春人に恐れを感じないのか。
そうだ。文化祭のときは文集の制作で手一杯で追求しなかったが、春人の行動は柚希の経験と照らし合わせてみて、明らかにおかしい。これはやはり知らないことといっていい。
善意と解釈するには柚希の想像力では足りない。しかし悪意だとしたらもっとわけが分からない。春人の好奇心や興味の類いだろうか。なるほど不思議ではないだろうか。春人の言葉を借りれば「負のオーラをまとった」、「ぼんやりと歩いている」ようなものに声をかけるなんて、どうかしている。
柚希は自分に存在感などがあっては困るし、良くも悪くもオーラなどという外に向かう目に見えるものはないと思っている。実際にそう信じている。
道ばたの石ころといっていい柚希に、なぜ足を止めるのか。
春人にどんな意図があるのだろうか。
「――そんなふうだからだって」
気付けば、柚希の右隣に春人がいた。
驚いた。けれど、やはり不思議と脅威は感じない。
柚希に現実の世界が帰ってくる。
この春人の持っている感じは何なのだろう。恐ろしさを覚えないからといって好意を感じるわけでもない。好奇心や興味の類いだろうか。なるほどこの感覚こそあれだ。雨の日に道ばたでキラリと光る何かを見つけたときの感覚。そう道ばたに落ちているガラス玉。石ころ。
偶然の一致。
柚希は瘴気らしきなにかをまとった石ころ。であるなら、春人はキラキラと光る目に痛い石ころだ。
「……春人くん。自分のこと石ころみたいだって思わない?」
柚希は、そう口にして意味の通じないことを言ってしまったと思った。けれど自責は感じなかった。自分が言った実感がない。熱に浮かされてうわごとを呟いた感覚だった。
「はい? ちょっと意味分かんないんだけど?」
春人の返答はもっともだった。
柚希も分からない。誰かのことを「石ころ」だとか。とんでもなく失礼なことを言った気はするが。
「ごめんなさい。わたしは自分のこと、石ころみたいだな……って思うときあるんだけど、春人くんはない?」
言わなければ伝わらないのも当然だ。柚希は思考の経緯を開示する。
春人は首を傾げて、わずかに目を閉じる。
答えを待つ柚希は、少し立ちくらみがした。確かに運動不足なのかもしれない。
疲れているのだろうか。視界もわずかだが霞む。今の柚希にとって良好な視界などどうでもいいが、焦点が合わない。そう感じた瞬間、夢から醒めるときのような目の前の世界が消えてなくなるような錯覚に襲われた。
夢か現か。自分はどこに立っているのか。
すぐに霞は消え、世界は確かにあることが確認できる。誰も共感できないと思う奇異な感覚。現実の柚希には何の変化もないだろう。一瞬、意識が不鮮明になっただけだ。
「なるほど、確かに、そういうこと考えてそうだ。ユズって」
春人は目を開くと苦笑いして答えた。
かすみ目のせいだろうか、春人の姿が空に送られた影のように空間に黒く焼き付いて見える。柚希はそれは影送りのように感じた。瞬くとそれは無かったように鮮やかさが戻る。よく分からない現象の意味は考えない。
「まあ、なくはないかな……」
少し歯切れの悪い春人。
柚希は自分の質問を思い出す。自身が石ころのように思えることはないかと春人に問うた。そうだった。
柚希はしばらく意識がここを離れていた気がするが、自分が起きているのか寝ているのかなんてどうでもいいことだ。
柚希は春人の答えを確認して、問いを重ねる。
「春人くん、今日って暇?」
柚希は自然と声が出た。
どうしてか、少し興味が湧くキラキラ光る石ころ。
「な、なんで? 俺はいつも忙しいよ」
春人は眉を顰めた。疑いの眼差しを柚希に向ける。まあそうだろう。柚希が他人に予定を尋ねることなどない。自分でも驚いているくらいだ。ちょうど宗教の勧誘だとでも言えば春人は納得するかもしれない。そのくらい柚希の意図を計りかねているのだろう。
春人の答えはいかにも春人らしいはぐらかしだった。けれど柚希にはぐらかされるつもりはない。
「じゃあ、暇にして欲しい」
「は?」
春人は目を見開いたまま固まった。
不躾な要求であることは理解している。さらにいえば、ここまでまっすぐな物言いは普段の柚希からは考えられない。春人は驚いただろう。柚希自身にもそんな経験はない。
今までも、柚希は意図的に春人に誤魔化されるつもりでそう振る舞ってきたわけではない。けれど簡単に誤魔化せる曖昧さはあったと思う。柚希は自分の言動が急に変わるとは思えないし、今後もきっとそう振る舞うだろう。しかし今は違った。
「……よく分かんないけど、俺じゃないとダメな用事?」
春人の声には普段よりも力強さがない。理解を諦めたようで、柚希に情報開示の追加を要求してきた。
柚希は頷く。
もちろん春人でないといけない。ただ、お願いというよりも――。
「春人くんにお返しをします。文化祭のときのお礼」
柚希は宣言した。それはどこか果たし状をたたきつけるような物々しさ。
けれど春人には酌んで欲しい。柚希は春人のことを何も知らないのだ。
知っているのは、部室で会うほんのわずかな間の出来事と、文化祭でのやり取りだけ。そこにいることは知っていたが、全く理解していなかった。
柚希は、春人を知らない。
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