第5話 残ったもの
文化祭が終わった。
文集はでき上がった。それは柚希の力によるものではない。柚希が文集を作ると判断しなくても結果は同じだったかもしれない。そのくらい柚希がしたことははわずかだ。わずかだったけれど。
いつもの頭が痛くなるような静寂の音も、今は心地よく聞こえた。
柚希はベッド脇のリクライニングチェアの背もたれに身体をあずけた。ひとつ瞬きをして手元をみる。それは確かに文芸部で作ったものだ。柚希たちが作った文集だった。薄緑色の表紙に黒のインクで大きく『望月』と印字されている。表紙に描かれたのは満ち足りた月。
文芸部の伝統は、確かに残った。そして残ったものはそれだけではない。
柚希は一度、文集をベッドの上に置き座椅子をゆっくりと倒した。ブランケットにしていた毛布を広げて肩まで被ると、もう一回『望月』を手に取った。
満月とまではいかないかもしれないけれど、柚希は今、自分は満足しているのだと感じる。
最初は本当にどうなることかと思った。柚希が、春人と一体何をどこまでできるのだろうと。麻衣もいない、先輩もいないこの文芸部で自分が。
少なくとも、日記でも読書感想文でもない。文芸部の文集である。多くの人に読んでもらって楽しめるものを作らなければいけない。書かなくてはいけないことは分かっていても、何を書けばいいのかが柚希には分からなかった。
――思ったまま書けばいいよ。
春人はそう言った。分からないなら分からないと、困ったなら困ったと。柚希は困惑しためらった。それは何か。日記かエッセイか。分類以前にそれを誰が読むのか。しかし春人は取り合わなかった。それでいいと。
柚希は表紙をめくった。中表紙、もう一枚めくると前書きがある。縦横に大きな余白がとられ、言い訳がましく文章は始まっているはずだ。
前書きが左右二ページに渡って縦書きの書式で載っている。柚希は近視で、裸眼で本文の文字を判別することは難しい。それでも末尾に編者として、文芸部代表の肩書きと共に柚希の名があるのはわかった。
文集の紙面は暖かみを感じる黄色。本来は白いはずだが、今は部屋の明かりで電球色に見える。柚希は文章を追うことはできないが、そのまま紙面を眺めた。
――伝える相手は誰でもいいじゃない?
春人は柚希自身に向けて書けばいいと言った。次に麻衣や先輩たちに恨み言を。そして眺めているだけの自分に対して、文句の一つくらいは書けるだろうと笑った。
柚希は渋った。渋々書いた。自分自身に対して怨嗟の声を、麻衣や先輩たちに感謝の言葉を、そして春人には。
――なにも書いてない。
文章にはしなかった。
柚希は完全にしてやられたと思う。自分の意思で動いているつもりでも、いつの間にか操られ、春人の思い通りに踊らされていたようにも感じる。麻衣が柚希の手を取って歩いてくれたのとは違って、春人は柚希の後ろでずっと見守るだけ。それなのに気付けば自分が歩いている。不思議な感じだった。
声をかけなければ決してなにもしない。ずっとそこにいる。それだけだった。
その後、文集はあっけなく完成した。
文芸部の先輩方が書き溜めていてくれた原稿。顧問の先生の助力もあり、最初に悩んだことが嘘のようだった。それもそうだ。『望月』の重さを感じているのは柚希ひとりであるはずがない。
柚希はそっと文集を閉じると、ベッドの上に置いた。
ベッドの上で眠るのは落ち着かない自分。今でもそれは変わっていない。そこは自分の居場所ではない気がするからだ。柚希は自分が、この部屋が叔母の部屋だったからそうせざるを得ないのだと思っていた。ただ、部屋の隅で眠るのは自分の意思だ。その方が安心できる。
そこにいない誰かの足下で、怯えながら眠るのもいいだろう。けれどもしも、誰かに存在を許されるときが自分にくるのなら、この寝台で眠れる日が来るのかもしれない。
柚希はまどろむ。
――そういえば、今日は月は出てるのかな。
出ているといい。秋の夜空を照らす、中秋の望月。
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