第4話 誰が決めるのか
昔、誰かに厳しく教えられたことがある。
世の中には、行動力の有る者と無い者がいる。
また、能力の有る者と無い者がいる。
行動力が有って、有能な者は世の中で大いに役に立つ。
行動力の無い、有能な者は能力を生かし切れずにもったいないばかりだ。
しかし、問題なのは、行動力の有る、無能な者だ。
集団の秩序を大いに掻き乱し、厄災を招く。つまり社会悪であると。であるなら、行動力の無い無能な者の方がよほど害にならず、お前もそうであるべきだと。
それは誰に教わったのかはっきりと思い出せない。もしかしたら柚希自身が自分を戒めるために作り上げた妄想かもしれない。
しかし、今は無能であっても行動することで何かを残せると信じたい。
けれど。
――なにもできないとは言ってたけど。
柚希は、左横をちらりと確認した。
確かに春人は椅子にもたれて、気怠そうに何かを読んでいる。おそらく、漫画だ。
人々は柚希のために何もしない。それは経験から学んだ答えだ。勝手に期待するのは自分で相手に落ち度はない。考えを改めるべきは自分だ。だから春人がなにもしないからといって、なにも思うところはない。
けれど分からなかった。なにもしないのであれば帰ればいいはずだ。
廊下側の柱時計の針を見た。もうすぐ下校時刻。
ときおり遠くで生徒の声はするものの文芸部の部室はひっそりとしている。柚希の目の前にあるノートパソコンのファンの音が耳につくほど静かだ。
春人が部室で暇をつぶしているのはいつものことだが、違和感がぬぐえない。たまに顔を合わせるくらいの春人が、このところ毎日部室にいるような気さえする。
集中できない。
柚希は省みる。なにかをまた間違えただろうか。
常々、いろいろと間違えてはいるだろうが、そういうことではない。春人への自分の対応だ。
どうも気になって仕方がなかった。左横から春人に進捗状況を監視されているかのような気持ちになっている。しかし、春人はこちらのことなど意に介さず柚希の視界の隅でずっと漫画を読んでいるように見える。
――なんなの?
一瞬、思考の沼に沈みかけたが、柚希は慌てて視線をパソコンのモニターに戻す。文集の出来上がりを考えると残された時間は少ない。わずかといってもいい。集中できない言い訳を探している時間はない。少しでも書き進めなければ。
画面には、しばらく前に数行文字が入力されてそれきりだ。文字列の末尾で白いポインタが点滅している。
――確かに、わたしは行動力のない無能かもしれないけど。
それにしても春人はなんのためにここにいるのだろうか。柚希の作業の遅さを揶揄しているのか。それほどまでに良くない印象を持たれているのだろうか。思考がどうも振り切れない。
誰かの何もしないさまが、こんなに疎ましく思えることが今まであっただろうか。気になってますます集中できない。
と、左横の影が動く。
思わず視線がそちらにいってしまう。
春人が、悠々と、漫画のページをめくっていた。
柚希はあの時確かに嬉しかったのだ。春人が協力を申し出てくれるなんて思ってもいなかったのだから。だから、余計に。
――っ!
柚希の糸が切れた。
「……春人くん」
春人は反応がない。
「春人くん!」
柚希は自分の発した声に耳を疑った。
我に返って血の気が引く。それほど大きな声だった。
まず思ったのは、やってしまったというどうしようもない後悔。気が遠くなり、やってくる自分が消失していくような感覚。
春人が柚希の方を向く。
空が落ちてくるような恐怖が柚希を襲う。
――ち、ちがう!
何が違うのか分からなかったが、柚希は心の中で叫んだ。
身体が動かない。視線さえ動かせない。
柚希には、もう春人の反撃を待つ他になかった。
「……うん? なんか言った?」
春人は、眠そうな眼をしたまま言った。
ソファーに座って漫画を読んでいた春人。それがただこちらを向いたというだけの反応。
――え?
おかしい。そうじゃない。柚希の予想した状況とは大きく違う。
「なんかできることあった?」
おもむろに漫画をテーブルの上に置いて、春人は立ち上がる。
柚希の心の準備など構うものかと間近まで歩み寄ってくると、春人は机に手をおき柚希の手元のモニター画面を覗き込んだ。
春人の動作を視線で追う間、柚希は自分がどこにいて何をしているのかも忘れる。呼吸をしているのかどうかも分からないくらいに。
「……春人くん?」
柚希は自失したまま、戸惑いをそのまま声に出していた。
「うん?」
柚希の目の前でモニターを見ていた春人の顔がこちらを向く。
――近い!
柚希は距離の近さに恐れ戦いた。
手足が硬直して息が止まる。そして遅れて目眩がした。
「なに? 言ってくれないと分かんないよ?」
春人はその距離のまま笑った。苦笑いだ。よく見える。
それは柚希を軽蔑するでもあざ笑うでもない。少し疲れたふうな、けれど、どこか親しみが感じられるような困った笑顔。
どのくらいの間があっただろう。柚希は春人の言葉を思い出す。
――できることがあったら、いってくれよな。
柚希はようやく気付いた。
――そっか、わたし、春人くんに何にも言ってないんだ。
春人は首を傾げている。
言わなければ、伝わらない。他者とのコミュニケーションを諦めていたといってもいい柚希には、そんな当たり前が分からなかったのだ。
どこか痛い。
理由の分からないイメージが柚希の中で喚起される。
待っていたはずなのに、日射しを浴びる草花の芽にとって陽の光はこんなに熱くて痛いのだろうか。
感傷的ともいえる空想に柚希は自分で呆れた。
可笑しかった。
可笑しくて仕方なかった。思わず声に出てしまう。
「……こんな、こと忘れてたから」
柚希の言葉に春人は余計に分からないと笑う。そんな春人の反応も当たり前なのだ。柚希は何も言っていないのだから。
つられて柚希も思わず笑っていた。
――言葉にしないと。
言葉にすること。誰かにとってはつまらないことかもしれない。けれど柚希にはとても大きなことだ。それに気付けた瞬間だった。
柚希の行動は価値の高いものではないかもしれない。石ころかもしれないし、ひび割れかもしれない。世の中にとってはまるで意味の無いことかもしれない。
無能な者でも確かになにかは残せる。残すことあるいは、残さないことが社会悪かどうかを決めるのは柚希ではない。社会が決めるだろう。
柚希は残そうと思った。
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