第14話 感情が爆ぜる

 柚希は自分が何をしているのか分からなかった。

 最初は日常の一部だった。3日ほど経って妙な感じがした。1週間が過ぎた頃か不安になった。

 今まで柚希の方から会いに行くようなことはなかった。用事がなかったし、必要もなかった。そのくらいの当たり前だった。

 自分が立っている場所が駅の改札口の前であることは理解している。では何をしているのか。

 ぼんやりと人が通り過ぎていく様を眺めている。眺めているのは風景であって人ではない。雨音と雑踏が音を壁に反響させて、湿った冷たい風が駅舎の角にこもって改札口に凍えた空間の澱みを作り出していた。

 澱んでいるのはいつも柚希の心だ。そんなことは分かっている。

 メールも電話も通じない。こちらから連絡することはなかったので反応がないことにどんな意味があるのかもわからなかった。

 不安には思っていたが、事情があるのだろうと解釈して平静を装っていたつもりだ。理由を柚希は自覚している。自分の動揺を大きくしないためだ。けれど。

 終業式が終わってしまった。

 明日から冬休み。

 柚希は何も聞いていない。確認した範囲では学校にも来ていない様子だ。

 だから、柚希はここで何をしているのか。

 登校していない生徒が下校時間に駅の改札を通るはずがない。他に誰かと待ち合わせをした記憶もない。柚希は誰かを待っているわけではない。柚希の帰宅先は駅とは逆方向だ。そもそも駅に用事が見当たらない。

 ここで何をしているのか。

 最初は人間を観察していたように思う。自分の想像している対象に似た人物はいないか。しかしそれも諦めて、柚希はただ立っていた。

 しかし実は自分が何をしているのかなんて柚希にはどうでもいいことだった。

 ――春人くん?

 柚希は心の中で名前を呼んでみる。

 もし今、春人に会えたとして自分は何がしたいのだろうか。

 こんなところで待ち伏せてどうする。いつもの腹いせに怖がらせたいのだろうか。柚希は春人の何なのか。まるで嫌がらせではないか。

 それはおかしいと柚希は否定する。けれど、やっていることはまさにそれだ。

 しかし。そんなこともどうでもいい。抗議なら受けよう。

 では何をしたいのか。

 柚希は何度目になるのかも分からない自分への問いをずっと繰り返していた。

 なぜ。どうして。そして、どうでもいい。

 説明を求められたなら答えるだろう。

 自分はなぜだか分からないが駅に来てしまっていて、まるで何をしたらいいのか分からない。

 何も間違いはない。

 まったく無意味に思えた。その行為に意味はあるのかもしれないが、自分にも到底理解できない。残る焦燥感。行動の意味が理解出来ればこんな気持ちにはならないのか。

 しかし柚希に説明を求める人間などいない。

 顔が足が痛む気がする。雨に少し濡れてしまっただろうか。こんなときに何かを主張する自分の身体が煩わしく思えた。

「ユズさん」

 声がした。驚くことに前方から。

 声も姿も知っている。

 到だった。

 目を開いて今まで柚希が見ていたものは何だったのだろう。壁を背に立っていた柚希に死角はなかったはずだ。なのに声をかけられるまで到にまったく気付かなかったとは。

「……な、何?」

 困った表情で到は言った。

 何とは何だろう。柚希に声をかけたのは到のはずだ。そう思ったが、柚希は到の顔を凝視していたことに気付いた。訝しむのもしかたない。

 気まずさを感じて少し目を逸らす。

 しかし待てと思う。どういうわけかいつもは役に立たない柚希の勘が働く。到は、春人の言葉を借りれば「親友」だそうだ。であれば柚希の知りたいことを到は知っているのではないか。いや知っているだろう。

「……到くん。春人くんは元気かな?」

 柚希は笑顔を作った。表面的には平静は装っているものの、すでにおかしい。駅の改札口で同級生に会って挨拶もしないのか。しかし、柚希にはそれもまたどうでもよかった。

 到は唐突な質問に驚く様子もなく答えた。柚希の歪な人間性を理解してくれているのかもしれない。

「このところ休んでるな……」

 到は少し目を伏せたように見えた。

 春人が学校を休んでいることは柚希も知っている。質問に答えないということは、まさか到も知らないのだろうか。

 つかんだ希望の糸が、自分の期待の重さに耐えかねてちぎれそうになっているのを感じる。

「到くんも、分からないの……?」

 表向きの平静さも失われていく。もともと平静なのは表面だけ。柚希の中ににそんなものはすでにない。

「うん」

 到はあっさりと頷いた。

 ――。

 言葉がない。

 柚希は歯を食いしばる。頭に血が上るのが分かった。到の飄々とした態度に苛立たしさすら感じる。

 ――そんなのおかしい!

 柚希の視界がわずかににじんだ。

 おかしいのは柚希だ。もちろん分かっている。誰がどう判断してもきっとそれは間違えない。

 柚希の反応に戸惑ったのだろうか。到は柚希を見て苦笑いを浮かべた。

「春人が学校を休むなんて珍しいことでもないよ」

 何でもないことのように言った。到にとっては何でもないのかもしれない。けれどそれでいいのだろうか。

 誰にとって。

 春人が学校にいないと誰がよくないのか。

 ――知ってるよ、そんなこと!

 到には日常の一部なのだろう。柚希にとってもそうだ。

 そうだったはずなのに。

 柚希は自分の言動を振り返る。春人に気に障ることを言って、してしまっただろうか。そんなことは何度も考えた。もちろん心当たりはありすぎるくらいにある。けれど春人は柚希の態度ひとつで学校を休んだりしない。柚希を避けることもないと言ったのだ。

「――」

 言葉にはならない嗚咽が漏れた。

 取るに足らないこと。けれど張り付いて離れない。

 自分でも分からなかった。

 こんなに容易く限界なんてこないはずなのに。

 柚希は制服の襟元の部分を両手で力一杯握りしめた。息が苦しい。俯いた柚希の眼前にいくつかの滴が散って落ちた。

 ああ見苦しい。これはおそらく涙だ。

 柚希は自分の涙が嫌いだ。それはいつも何も解決しない。どうしようもないときに染み出しては何かを主張する。自分の無力さを。そして周囲に同情を強要する。そこに人間が持つという理性というものを感じない。

 醜い自分自身の象徴だった。

「……だいじょうぶ。春人はまた現れるから。頼んでもないのに」

 到は柔らかい声で言った。

 柚希の様子に到は気遣ったのだろう。そうやって柚希の本能は人の感情を操作して罪を重ねる。けれどもう許されはしないのだ。今はそれでいいではないかとすら思う。

 柚希の本性が気休めを望んだ。だから到の言葉がありがたく思えた。

 引き出したのは醜い自分かもしれないが、応えたのは到の優しさだ。

 枯れた柚希の心に汚れた涙がしみ込んでいく。自分が失ったと信じていた感情が一斉に芽吹いて、心いっぱいになって溢れた。

 柚希は到にありがとうも言えなかった。

 冷たい雨は日暮れにはきっと雪になる。

 薄汚れた泥の上に積もるだろうか。真っ白な雪は。

 積もるといい。おぞましい感情の爆発を、柚希の存在ごと幾重にも覆って、静かにまた押し潰してしまえるように。

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