第15話 麻衣と協定

「おんなじ高校だね。頑張ろうね、ユズっち」

 麻衣はそういって応援してくれた。

 偶然の一致ではない。おそらく麻衣は柚希に合わせてくれたのだと思った。麻衣の成績ならばもっといろんな高校が選べた。

 今思えば、出会った頃から麻衣も柚希の呪いのような何かに囚われていたのかもしれない。絞め殺すのではなく、誘引して時間や可能性をじわじわと奪う。

 柚希を引き取った叔母の夫婦も良くしてくれたと思う。一時は救われたことが幸運に思えたほどだ。ものを整理して管理する意味、入浴して衣服を整える意味、他人のものを勝手に持ってきてはいけないこと。丁寧に教えてくれた。

 柚希は期待に応えようと振る舞った。出来ないことは出来る方法を。うまくいかなければうまくいくまで。足りなければ削る。

 何かをするごとに素行不良と言われたが、拾ってもらった命なのだから精一杯応えなければ。そんなふうに思った。結果、不自然さはあるものの学生生活を送れる程度にはなれたのだと思う。けれど一般的にそれは出来て当たり前のこと。応えるべき期待はそのずっと先にあったことに気付かされる。

 当時、柚希は叔母夫婦が自分への興味を失っていくのを感じ取っていた。むしろ疎ましさを隠さないようになっていった。

「疲れてるからこないで」

「恨めしいのはこっちだ」

 帰宅しても目が合わせられない。言葉も交わせない。柚希に愛嬌を偽造する頭の良さはなかったし、上手に人の機嫌をとることもできなかった。代わりに何ができたのかといえば黙っていること。それに価値があったのかは今でもわからない。

 居るべき場所はなかった。自分が居ればそこを汚す。

 問題児といわれても、他の素行不良のラベルを貼られた生徒たちと一緒にはいられなかった。みんな柚希に敵意を向けない程度には優しかったが、柚希には誰かを罵る声が耳に痛くて恐ろしい。純粋な力や相手を強請る知恵も柚希には足りないものだった。

 柚希はどこに行為の善悪を決める境界線が引かれているのか見えない。道ばたで思い思いに何かをかき回す彼らを見て、道ばたの草や花をちぎって食べてきた柚希よりも、むしろ尊いのではないかという解釈さえした。自分は生きて奪うことしか出来ないが、もしかしたら彼らは何かを残し与えられているのではないかと。

「まったく違うよ。ユズっち」

 麻衣にひとつひとつ修正させる。手を引かせる。麻衣は分かるのかもしれない。何が正しいのか。柚希は麻衣の行為を真似て自分を作っていった。よく麻衣の後をついて歩いた。笑顔だった麻衣。彼女はほんとうに柚希といて楽しくて笑っていたのだろうか。分からない。

 周囲にかかる負担が限界にきていることを悟って、当時から進学よりも就職を考えていた。言い出したのは柚希だったか周囲の誰かだったかは思い出せない。叔母夫婦もそれでいいと言ってくれた。無自覚に誰かを泥の海に沈めてしまう前にどうにかしなければ。

 かろうじて中学を卒業しただけの柚希に何が出来たのかは疑わしい。あったのは焦る気持ちだけで方法も能力もなかっただろう。

 担任は渋い表情で難しいといった。仕事や進学先がないのではない。難しいという言葉は控えめにいっても許可できないという意思の表明で、つまり当時の柚希ではひとりで生きていくことは不可能だという判断に他ならなかった。

 まだ足りない。

 生きていくにも諦めるにも。

 柚希は祖父母の家がある遠くの高校に進学を決めた。頼れるものがそこにしか残っていなかっただけで、もはや実現可能かどうかを問うものではない。現実のものに出来なければまたひとつ家庭が崩壊するだけだ。

 叔母夫婦は喜んで引っ越しを勧めてくれた。

 柚希は出来る以上のことをしたと思う。それも麻衣の支えがあったからこそだ。

「それじゃあ、まあそういうことで」

「ユズっち、よろしく」

 入学式が終わって数日後だったか、3人はお互いの呼称を決めた。春人に麻衣に柚希。春人は「協定」と呼んだが、麻衣が春人を改めて紹介してくれた際に、春人のことを身近に感じられるよう配慮してくれたのだと思う。確かに「伊藤」姓は何人かいたようだが、交友関係の狭い柚希に春人は「伊藤くん」で充分なのだ。

 春人は中学の頃から麻衣の友人だった。それは知っていた。言葉を交わしたこともあったかもしれない。けれど誰かに春人の紹介を求められても答えられないくらいに柚希は何も知らなかった。そして興味もなかった。

 文芸部には麻衣に誘われて入った。春人の理由は知らない。

 麻衣と春人の関係は良好で、2人ともいつも楽しそうにしていた。アニメやゲームのことを柚希は麻衣から聞いた以上には知らないが、春人とは興味の方向が似ていたのかもしれない。おそらく一般的な友人関係だったように思う。

 春人がどう思っていたのかは知らないが、麻衣は特に春人によく絡んでいた。先輩には夫婦漫才のようだとまで言われ、麻衣はそれを本気で嫌がっているふうにも感じられなかった。

 人の感情を考慮して振り返ってみれば、麻衣は春人のことを特別に気に入っていた。恋だとか愛だとかいう名前が適当かは柚希には分からないが、麻衣は春人が好きだったのだと思う。けれど春人という人間を独占しようとはしなかった。柚希を信用してのことか、安全だと思ってかは分からないが、柚希の春人との関係を向上させようとさえした。なぜかは分からない。柚希が関わりを持っていくべき人間として、春人を信用したのかもしれない。

 麻衣の挺身に能わず、柚希の感覚に大きな変化はなかった。染み付いた対人恐怖に近い感覚。今となっては申し訳なく思う。心を砕いてくれた麻衣だったが、2人の距離が近付いていく様子は見届けられなかった。それは、皮肉にも柚希に頼るものがなくなったことで果たされた。

 実際には何を望んでいたのか。今の柚希の望みは麻衣の望んだものなのだろうか。ずっとそばにいたはずなのに柚希には分からない。麻衣が意図したものでないとすれば、麻衣は柚希を許してはいけない。

 それでも麻衣は柚希を許すと言うだろうか。

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