第16話 いつも以上にそこにいる

 柚希は、はやる気持ちを抑えて改札をくぐった。階段を駆け上り、連絡通路を走った。息も絶え絶えにホームに降りると、くずおれそうになる身を近くの鉄柱に預けて身体を支える。

 柚希は白く霞む視界でホームの端のさらに向こうに続いている線路の先を見た。列車が入ってくる様子はない。案内板を見上げて確認する。先発の特急列車の後の急行の到着時間。時計を確認するとまだ30分はあった。

 柚希の視界が真っ白になっていく。心臓が激しく拍動して全身が痺れて力が失われていく。柚希は柱に縋り落ちた。

 息を整えることもできずにしばらくはなるがままに任せる。

 希望とはその大半が気付いたときには失われている。瘢痕からかつての存在が確認出来た。けれど本当にそこにあったのだろうか。最初からなかったのだと考えた方がいくらか楽だ。シミはただのシミ。

 柚希は冷めた目で希望の痕跡を見つめてきた。けれど今は分かる。ずっと未練があったのだ。だから見つめていたのだと思う。失われたそれを。

 携帯のディスプレイに着信が表示されたとき、自分の妄念が見せた夢なのかと疑った。夢だとしても目覚めなければそれが現実だ。そんな戯れ言にして柚希はことの顛末を確認しようと心に決めた。

 ゆっくりと視界は戻ってくる。

 コンクリートで固められた縁に黄色の点字ブロックと踏み越し禁止の破線。それは駅のホーム。柚希は視点が動かせるようになるのを待ってゆっくりと立ち上がる。

 時間が早いことは知っていた。急いでも変わらないことも。ただそうしたいからしたのだ。

 春人を一刻も早く迎えたい。もしかしたら到着が早くなるかもしれない。夢かもしれないのだから。

 ありえないこと。そんな幻覚といってもいい感覚を起点にして行動する自分が可笑しかった。だから笑った。それを咎める者もここにはいない。

 夢か現か。どちらが自分にとって幸せなのだろう。

 ――絶対へんだな、わたし。

 いまさらだけれど、柚希は春人の姿を見ずして自分を見失うわけにはいかない。不安定な自己にしがみつく。

 ホームには電子音が規則的に響く。たとえば視覚に障害を持った人への案内の意味があるのかもしれない。しかしそれも今の柚希には不穏な音の組み合わせに聞こえてくる。もちろん自分の認知の問題であることは分かった。

 視線を落としてようやく注意が向いた。

 自分が身に着けているもの。普段着は制服だ。普段着でないのだからこれは何というのだろう。

 ――!

 舞い上がって気付かなかったのだろうか。これではまるで自分ではないか。

 冬の寒さを忘れていた柚希だったが、身が凍える思いがする。

 そうか。これは寒さなのかもしれない。

 柚希は、身体ではなく自分で大気の冷たさを感じた。現実の現実感が唐突に増してくる。

 何かに失敗した。まずい予感がするが、何がまずいのかわからない。

 身に着けているコートだけは普段のものだが、コーディネートの善し悪しはさして問題ではないように感じる。服装の選択は没個性的であればよいのだから。

 もちろん今の服装に個性があるのかないのかは正確にわからない。没個性的であることと地味なことは違うし、柚希がそう思っているだけで他人がどう感じるかは別だ。けれど他者の感性は推して知ることができないものだ。どこかで諦める他ない。

 今、何かが引っかかった。

 着衣の選択の誤り。それがまずいと感じる原因ではない。過失を特定して除外しようとした過程で。

 除外できない。それほど柚希にとって重要なことなのだろうか。

 今は制服を着ているべきときだと思った。

 いつも制服姿で会う人がそこにいる。

 電車の扉が開いてホームに降り立つ春人の様子が思い浮かんだ。

 想像の中の春人がこちらを向いた瞬間、柚希はたまらず言い訳をしなくてはいけない気がする。けれど何を言うというのか。

 理解できた気がした。

 制服を着て何者なのかを取り繕った柚希は今ここにいない。春人と顔をあわせるのは柚希自身だ。

 柚希は春人と今まで少なくない時間を共有してきた。けれどそこにいたのは今の柚希ではない。まるで初対面なのだ。そんな理屈はおかしいと分かってはいるけれど。

 どうしてなのか。会っていないしばらくがとても長い時間のように思えて、目立たないことを追求してきた柚希が、春人にどう見えるのかを気にするのはなぜか。春人に何を思い、何を思って欲しくないというのか。

 分かりきっていることを頭の中で何度も唱える柚希。自分の感情に名前をつけることをためらう。名付ければそれになる。それはつまり自分を見失うということに他ならない。

 ホームにアナウンスが流れ先発の特急電車が到着する。

 柚希は現在の状況に合わせてイメージする。想像と現実の何が同じで何が違うだろう。予行練習を繰り返した。

 まだ日も高く、乗降する人の数はまばらだった。くわえて今は冬休みで学生の姿もホームには多くない。学生が特急電車にどんな用事があるのかわからないけれど、電車まじまじと見つめる柚希の姿は今は高校生ではないのだ。不思議でもないだろうと考えて処理する。事実がどうかは分からないけれど、どうでもいい。

 電車はホームから離れていった。

 いよいよだ。

 柚希はホームの時計を確認する。掲示板の案内表示が特急から急行に変わり時刻が示される。

 柚希はひとつ息を吐いた。何をそんなに緊張しているのか。

 何に神経質になっているかは当然知っているが、自分への問いに答えを求める意図はなく、ただ自分をからかって心を鎮めようとしただけだ。

 自分の思考を観察して評価することにまるで意味が感じられない。今の柚希がするべきことは、その瞬間が来たときに自分がどう振る舞うのかを考えることだ。そのためには相手がどう振る舞えば不快に感じないか。いやこの場合、喜ぶかを考えよう。

 ――?!

 まさに過失と呼ぶべきはこちらだ。

 柚希には、春人が今、何を考えて、感じて、またどうしたいのかがまったく分からない。気付けば当たり前のこと。けれど気付かないのが自分だ。

 刻、一刻とそのときが近付く。

 ――ど、どうしよう!

 柚希はうろたえる。

 相手の気持ちに対して配慮が足りない。それは日常的に感じることだったが、今は痛恨のミスに思える。

 春人は柚希がどう振る舞えば喜んでくれるのだろうか。

 こうしている間にも残り少ない時間は失われていく。どうして喜んで欲しいのかを考えることはまた泥の沼に沈むので省く。

 春人は何を喜んでいたか。柚希の何を評価していたか。それが春人の本心だったかどうかは分からない。けれど思い返そう。

 いつもめんどくさそうにしていた春人だが、喜んでくれた瞬間があったはずだ。

 ……?

 春人はいつも楽しそうではなかったか。

 そう、そこに柚希の言動は関係がない。春人が喜ぶ瞬間は気まぐれにさえ思える。

 何が楽しくて、何に喜んでいるのか。柚希はちゃんと聞いてこなかった。自分にはきっと理解出来ないと信じていたから。確かに共感は出来ないのかもしれない。けれど春人が何を好ましく思っているのかを柚希は知れたはずなのだ。

 誰かの喜びを知ること。相手が開示しなければ柚希はそれに興味がなかった。だから追いかけることもなかった。

 柚希がいつも留意しなければいけなかったのは、自分が誰かの怒りや悲しみを呼び起こさないことだけだった。誰かの気持ちが分からない柚希には、それで精一杯だったから。

 春人は、柚希が気に留めずとも怒りに狂うことも悲しみに沈むこともない。では、聞いてみてもいいのかもしれない。尋ねる行為が春人の気に障るかもしれないが、それを理由に春人が行動を変えるだろうか。

 普段から柚希がどう振る舞おうと春人は何かを見つけて楽しそうだった。

 では今は普段の柚希でいいのかもしれない。服装が違うだけ。会う場所が違うだけ。それだけのこと。そう思うことにしよう。

 電車の到着を告げるアナウンスが流れる。ホームの先、線路が続く両脇の踏切のランプが点滅を始めた。列車の影が見えた気がする。

 レールがかすかに音を立てた。

 瞬間、柚希の携帯が鳴った。音はない。振動だ。

 確認するのは後にしようと思ったが。

 ……。

 柚希は携帯を手に取った。

 嫌な予感はした。けれど、それは柚希の予想よりもずっとずっと優しいものだった。

 そこには簡素な謝罪と、予定の電車に乗り遅れたので、到着が一本遅れるという内容の連絡があった。

 もちろん春人からだ。

 柚希は脱力した。

 電車がやってくる。しかし今、それは柚希が待ち侘びていたものではなくなった。

 柚希の目の前を先頭車両が通り過ぎる。

 誰が何を思うか。ホームの人たちは入ってきた電車に目をやったのかもしれない。電車の乗客にはホームの様子が視界に入り、そこに柚希の姿が含まれるのかもしれない。けれど柚希にはどうでもよかった。

「……あー、すごく春人くんっぽい」

 柚希は携帯に目をやったまま呟いた。

 待ちぼうけになることに何も思わないわけではない。けれど、柚希は少し嬉しかった。いつもの春人が、いつも以上にそこにいる。

 柚希はいつもの通り、春人に会える気がした。

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