第17話 色があふれる世界
受け取った本は確かに同じものだ。
白い装丁の真っ白な物語。そこに憎しみや苦しみはなく、柚希の黒を含んでもまったく変わらず白くあり続けた。その白が柚希にはいつも光り輝いて見えていた。幻想の世界に現実を求めた柚希は、その本をもってしていくつもの現実を幻に変えてきた。現実はあまりにも暗く不鮮明で、どこまでも深く恐ろしい。それを現実と呼ぶことを柚希自身が許さなかったからかもしれない。
けれど今、その白に輝きは感じない。
確かに装丁は白だったが、柚希とともに短くない年を経てきたその本は、すでに白さを失っていた。
きっととうの昔に失われていたのだと思う。柚希の意識がそれを「白」にしてきたのだ。心の拠り所として。規範として。
高校生が読むには毒気を抜かれすぎたおとぎ話だった。あまりにも易しく、優しすぎてつまらない。そんなふうに思うのが当たり前なのかもしれない。
柚希は本の途中、それもごく最初の方に挟まれた栞を見て思う。
改札を出るとバスターミナルがある。バスに乗る用事はなかったが寒さをしのぐために柚希たちは待合室にいた。
「ユズの普段着って初めてみたかも」
春人が隣で言った。
――気付かなくていいのに……。
柚希が触れないようにしていた話題にあっさりと手をつける春人。ちなみに柚希の普段着は制服なのでこれは普段着とは呼ばない。そう指摘しようとしてやめた。やぶ蛇だ。
「……うん。変な感じするよね」
柚希は手元の白い本から視線を外して答える。春人の表情を確認しようと顔を上げたが、気まずさに視線を合わすことをためらう。
「いつも、なんか変だけどね」
春人は笑いながら簡単に言ってのけた。
この人にはあれがないのか。そう、繊細さ、デリカシーといった名前の謎めいた何か。そうは思っても、そんなものは柚希にもないので言えなかった。
「あ、目が据わってる。化けて出そう」
「そんなことしないし!」
柚希は反射的に答える。思わず大きな声が出てしまったが、これはさすがに訂正しても許される気がする。化けて出るような怨霊にはならない。未来永劫この世界が続くのだから。
春人としっかり目が合う。
わずかに動揺はする。けれど今は些細なことだと流せるようにはなった。
「うん、その反応が普通だと思うよ」
春人の表情は笑顔だ。その反応とは柚希が声を荒げたこと。
しかし穏やかな表情であっても春人の眼差しは鋭かった。何を訴えたいのかは続く言葉ですぐに分かる。
「ユズは怒るときに怒らないし、嬉しいときに喜ばない。それが俺には変な感じがするかな。そういうとこも面白いけど、ユズが楽しくなさそうだし」
柚希から目を逸らす。
春人が何を言っているのかは、不思議だが分かる気がする。勘違いかもしれないけれど柚希には心当たりがあった。神妙な心持ちというのだろうか。それになる。
柚希の心理を察してか春人は笑う。
「けど、化けて出るのも意外と楽しかったりして」
茶化すように付け加えた。
バス乗り場は混んでいるという感じはしない。クリスマスが終わって新しい年を迎える。年の瀬は誰もが忙しいというが、外を歩くことで終わる仕事ばかりではないのだろう。夕方になれば混雑するのは間違いないが、駅もバスターミナルも嵐の前の静けさなのかもしれない。
公共の交通機関を利用しないこともあるが、いつもの様子がどうなのか柚希には分からなかった。そもそも景色に注意を向けることが少ないのかもしれない。景色の意味を理解することにとても時間がかかる。
楽しいか楽しくないかに注意を向ける。それも柚希にはない感覚だ。
いつも春人は楽しいにこだわる。冗談であっても楽しい怨霊生活などというものが、もしかしたらあるのかもしれない。春人が言えばそんな気さえしてしまう。
柚希のいろんな前提を壊す春人。感情を揺さぶられ不安にもなるが、波が落ち着いた後には何かが残っている。それが今は心地よくも感じられた。
「春人くんは何が楽しいの?」
柚希は無意識で尋ねていた。
春人が柚希を見る。そんなに柚希がおかしいのだろうか。春人は笑いを堪えかねているようにも見える。
「なんでも楽しいよ」
なんでもとは、なんでもだろうか。柚希の脳裏にはいろんなものが思い浮かぶ。それには過去の記憶も含まれる。柚希の回想に春人をまぜれば、もしかしたらつまらない物語も喜劇になるかもしれない。
しかし春人は柚希の質問に答えているのか。
なんでもが楽しいというのは事実なのか。どうしてそんなふうに言えるのだろう。
おそらく柚希の中に、春人の真意を推し量って答えを出せるだけの材料はない。
柚希は心のまま尋ねてみる。
「どうして?」
柚希の問いに春人は芝居がかった所作で唸ってみせる。本当に考えたのかもしれないが、答えはすぐに返ってきた。
「俺がそう感じるから」
言葉ははっきりしているが、その答えではまだ分からない。
柚希はもう一度、どうしてと繰り返した。
春人は頷いて即答した。
「うん、今という時間は二度と返ってこないから」
春人の言葉は、楽しいと感じる理由になっているのか。むしろ楽しまなくてはいけない理由ではないかと柚希には思える。春人にとっては違う意味があるのだろうか。
今を楽しむことにこだわる春人。今を楽しむことに無頓着だった柚希。隔たりは大きいが、今の柚希には春人の言葉が少しずつではあるが届く。柚希も伝えることができる。近付ける気がする。それが普通の関係なのかもしれない。
柚希の見知った普通とは大きく違っているけれど、こんなに柚希に近くにいるのにとても楽しそうだ。もし春人が構わないと言うなら春人の姿をずっと見ていたい気持ちにもなる。それは柚希にとっては幸せなことなのかもしれない。叶うならそんな幸せを願うのかもしれない。
まるで何かが許されていくような感覚の中で、しかし柚希は困惑する。
それではいけない。柚希の信念。
柚希は目を閉じた。散逸していく思考をまとめる。
長い間をかけて準備してきたことが無駄になるのならそれはいい。どうすれば無駄になるのか方法は分からないが、そのときは柚希が生きてきたことに別の意味が与えられるのかもしれない。けれど準備が無駄にしてはいけないと強く感じる。柚希が唯一自信をもって主張できること。それは自分の罪深さ。
春人に柚希の業を背負わせるわけにはいかない。
もし、そんなときがあったらどうするのだろう。春人は柚希の業を引き受けることを選んだりするのだろうか。できれば正気を失う前に確認しておきたいと思う。春人が不正解を選ぶなら止めなければいけない。柚希の意志で。
柚希は心の中で唱え終わると目を開いた。
心情とは裏腹に色彩のある風景が見える。クリスマスも終わり、冬の駅前は色鮮やかとはいえない。けれど停車中のタクシーの外装に、常緑樹の植え込みの葉に、枯れたような街路樹の幹に、時計塔の彫り出された数字に、みんな鮮明なはっきりとした色があった。
白か黒かではない世界。
色の戻ったパレットにまた今日も新しい色が増えた。柚希はどんな絵が描けるのだろう。描いてみようか自分の思うままに。そんなふうに考えられる自分が少し誇らしいような気持ちにもなる。楽しくて、切ない。
春人の言う通り、今という時間は二度と返ってこない。やり直しなどはありえない。うまくいってもいかなくても振り返れば過去だ。それは今を生きるしかないということ。もしかしたら、そんな残酷さが救いにもなり得るのかもしれない。
柚希は今が楽しめるのだろうか。
夕方のラッシュが来る前に、柚希は春人を見送った。
唐突に溢れる忌々しいそれの色。あるのだろうか色は。そのときがきたら今度ははっきりと確かめられるかもしれない。
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