第2話 光と影がわけるもの

「ずっと、ユズっちと一緒にいられると思ってた」

 安城麻衣(あんじょう まい)は言った。こちらを振り返らずに、呟くように。

 夏の陽にきらめき、風に持ち上げられて髪がふわりと弧を描いた。

 太陽の下の麻衣の後ろ姿はどこか輝いて見えた。

 駅前の煉瓦畳みの広場を歩く。柚希の2、3歩前を、柚希の歩みに合わせる速度で進む麻衣。2人の足並みは、麻衣の柚希との付き合いの長さを表している。

 当時、柚希は麻衣との関係は変わらず続いていくものだと信じていた。それは言葉通り麻衣も感じていたのだろう。

 同じ高校に入学し、同じ時間を共有し、同じ部活に入り、中学までのようにこの先も2人で毎日を過ごしていくものだと思っていた。

 けれど、それは高校1年の3学期に終わった。

「すごくみんな気を遣ってくれて変な感じ、そういうの、わたし慣れてないから、最初、すごく戸惑ったよ」

 麻衣は言った。

 麻衣は、家庭の事情で県外へ引っ越すことになった。それが高校1年の終わりで、今までの2人の終わり。

 柚希も引っ越しは何度も経験している。けれど学校を変わることはなく、麻衣とは同級生としてずっと一緒にいられた。それは幸いだったのかもしれない。麻衣の場合は違った。

 ずっと一緒にいたからわかる麻衣のクセ。机に身を乗り出しながら頬杖をついて柚希の言葉を待ってくれる。驚くと全身で大げさなリアクションをとる。イライラしていると笑顔でも目が笑っていない。嬉しかったり悲しかったりするとすぐ泣いてしまう。麻衣は、柚希の記憶の中ではそんな人だった。

「でも、なんとか……やっていけそうだって最近は思うんだ」

 振り返った麻衣の笑顔。

 柚希はそんな表情の麻衣に、自分の知らない気配を感じた。

 分かってはいた。

 すでに麻衣は柚希と違う道を歩いていること。今の麻衣には柚希の知らない麻衣の生活があること。寂しさはあるが、柚希もその事実を受け入れている自分を再確認してしまう。

 お互いに涙して別れた最後の日。そのときとはもう柚希も麻衣も違うのだ。

 2人で腰掛けた駅前広場のベンチ。傾いた太陽が樹の影を二人の間に落とす。伸びた影の内側に柚希。外側に麻衣。それは二人の住む世界が別たれたことを示しているかのようにも感じられる。

「ユズっちはどう?」

 麻衣は少し屈むと膝に手をついて柚希の方を窺った。

 麻衣の視線。

「……」

 柚希は少し落ち着かない思いで目を逸らせた。

 夕方。駅前の広場には学生の姿はなかった。広場の隅のベンチに、私服姿の麻衣と制服姿の柚希の二人。

 柚希はどうか。

 そんな漠然とした質問に答えるのは苦手だ。苦手だけれど。

 ――うん平気。毎日順調だよ。

 嘘だ。そんな言葉で麻衣は納得するのだろうか。麻衣に対してそんな虚勢が通用するのだろうか。

 ――麻衣ちゃんがいないのに毎日だけが過ぎていくなんて、今でも信じられない。だから、ほんとは、今でもずっと一緒にいたい。

 そんな未練がましい言葉で麻衣は喜ぶだろうか。

 答えに迷ったときは、いつだって麻衣が一緒に考えてくれて背中を押してくれた。だからこそ、なんとか今までやってこられたのだと思っているし、失敗しても、麻衣がいたからこそ自分ひとりではできないことに向き合えてきたと感じるのだ。

 夏休みの終わり。麻衣との再会。

 街のショッピングセンターを2人で歩いたり、麻衣の好きなアニメショップを覗いたり、2人が去年と同じように過ごした一日だけの夏休み。それも麻衣が用意してくれた。

 ――こんな時間がずっと続けばいいのに。

 だがそれも、もう終わりだった。

 麻衣がじっと柚希の返答を待ってくれている。

 麻衣は今、何を思っているのだろうか。どこか表情に慈しみを感じる。

「……うん」

 柚希は辛うじて答えた。自分の声が思っていたよりも小さかったことに少し動揺する。しかし麻衣は気にしたふうでもなく頷いた。そして真剣な顔を柚希に向ける。

「ユズっちは、いつも小っちゃくなってるよね。……もっと自信持ったらいいのにって、昔は何回も思った……でも難しいのも知ってる」

 麻衣は少し思案するふうな素振りを見せるが、すぐに柚希の方に視線を戻した。

 麻衣は柚希の「昔」を知っている。以前から気になるようだった。おそらくこの今もそうなのだろう。柚希は、実際のところ「昔」がどのくらい自分の言動に影響を与えているのかははっきりと分からない。けれど、麻衣はとても気にかかるようで少し言い辛そうに、また遠慮がちに話を続けた。

「今は、怖かったら逃げたっていいと思うよ。ユズっち、お人好しでいろいろ気を遣っちゃうでしょ? それって、余計に疲れると思うし」

 麻衣が努めて明るいトーンで話しているのが分かる。

「だけどね、ユズっちを理解してくれる人は、きっといる。意外と周りの人って敵ばっかりじゃないから」

 麻衣は柚希に言い聞かせるように言った。

 柚希の手を取る麻衣。

 麻衣の両手がぎゅっとつかんだ。

 その言葉を根拠のない断定だと切り捨てれば、今までの麻衣の行いを否定することになる。ずっと今まで柚希に寄り添ってきてくれた麻衣。柚希を理解しようとしてくれたし麻衣は決して柚希の敵ではなかった。

 手から伝わる体温。もうこの先、感じることはないのかと思うと言葉にできない感情が押し寄せる。

 何か伝えたい。今この瞬間に。

 柚希は口を開く。

 言葉が出てこない。

「……じゃあ、ユズっち、わたし、行くね」

 麻衣は、柚希の手からそっと両手を離すと立ち上がった。

 随分遠くから電車を乗り継いで来てくれた麻衣。今の電車に乗っても、麻衣が今住む街に着くのは夜遅くになることだろう。

 麻衣は手を振りながら数歩後ずさって、大げさに力強く微笑んで見せた。その姿に1年の3学期の終わりのときような涙はない。

 何か言わなくてはいけないと心が叫んだ。違う。言いたいことはたくさんあるはずだ。けれど何一つ言葉になってくれない。

 麻衣は改札口の方へ向き直るとゆっくりと離れていく。

 ただ一言これだけは。

 ――ありがとう、麻衣ちゃん。

 柚希はそう言った。

 声に、なっていなかった。その一言すらも。

 けれど、柚希が諦めかけた一瞬、麻衣は一度振り返った。

 大きく頷いた。

 届いたのだろうか。

 麻衣の姿は駅の中へと消えていった。

 きっと忘れない。それが柚希の心に、この夏の思い出になって刻まれた。

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