欠けた月を結ぶ -Connecting the time of lost-
なるゆら
第1話 翳りゆく部屋
空気が震えるとともに、空間を押し潰すような轟音に校舎全体が包まれた。
――雨。
夏の余韻の残る9月の通り雨だ。
雨雲に日光が遮られ窓が暗転すると、うっすらと埃の張り付いたガラスには室内がぼんやりと映り込んだ。天井に1本だけのくすんだ色をした蛍光灯。照度不足で、本棚やロッカー、架台などがさらに古びて見える。それらの手前には、無愛想な表情でこちらを覗き込んでいる顔があった。
自分が、この世で最も忌々しいと思うそれの名は川上柚希(かわかみ ゆずき)。つまり自分自身だ。柚希が不愉快に思うと、その鏡像は微かに眉をひそめる。その様子に柚希はますます嫌悪感を覚えずにはいられない。
柚希は小さく息を吐くと、視線を手元の小説に戻したが、どこまで読み進めていたのか、すっかり忘れてしまっていた。
激しい雨の音のせいか、醜悪な自分の姿を見てしまったせいだろうか。
凄まじい雨音はわずかに静かになったが、まだしばらく止みそうにない。
柚希はゆっくりと瞬きをすると、小説の右ページの最初から読み直すことにした。少しでも気分が切り替わればいいけれど。
紙と文字でできた本の向こう側には世界があった。
そこに綴られた一言ひとことを視線でなぞっていくと、脳裏に浮き上がってくる色鮮やかな光に満ちた世界。柔らかなそよ風。作り物でない香り立つ花々。くすんで見える自分の現実が幻想ではないかと思わせてくれるほど、生き生きとしたその世界の全て。自分という存在がほどけてなくなっていくのを柚希は感じていた。
自分が失われるという、ひとつの救い。
「――すごい雨だよなぁ」
突然の音だった。いや、人の声だ。
ぎくりとして、くすんで見える現実世界の方に引き戻される。柚希は我に返った。
恐るおそる部屋の入り口の方を確認する。
伊藤春人(いとう はると)。確認しなくても誰の声なのかは聞いた瞬間に分かった。けれど、本当にそこにいるのかを確かめたのだ。
大きな雨の音に紛れて、春人が部屋に入ってきたことに全く気付かなかった。
柚希に状況を把握させる間を許さず、春人はそのまま柚希の方へ向かって歩いてくる。自分がどう反応すべきなのか分からない。
――どうしよう!
反射的に思う。
出来事は見えるまま。何かをする必要はない。けれど全身が震えたのが柚希には分かった。
春人はそのまま柚希が設定している防衛線を越える。ロッカーの前に置かれた架台を通りすぎてこちら側へと侵入し、さらにためらいもなく柚希に接近する。
春人は窓の前でとまった。
出来事の停止。いや、停止しているのは柚希の思考だった。
とりあえず現状を把握しようと試みるが、注意は目の前の人間、春人に釘付けになったまま逸らせそうにない。身体も動かない。柚希は怖々と視線だけで春人の様子を窺う。
春人の横顔は、おそらく普段通りだ。暗く沈んだ窓の外を確認し、表情はわずかに物憂げに見える。
春人は俯いてため息をつく。雨の様子を見てまだ何かを考えているようだ。
脅威ではない。その停止した出来事は柚希にとって脅威ではないはずだ。では自分に出来ることは。
――えっと。
柚希が何か考えだした瞬間だった。
唐突に春人が柚希の方を向いた。
春人と視線が合う。
息が止まった。
春人という人間は柚希の脅威ではないはずなのだが、本能が緊張をほどくことを許さない。
いや本当は脅威なのだろうか。判断を誤っているのかもしれない。
春人の視線に居竦ませられる前に、柚希は目を逸らしていた。
「あ、また同じ本読んでる」
と春人。
柚希は、何を言っているのか分からなかった。
春人の言葉を繰り返す。
――同じ……本?
何が同じなのだろう。本とは何のことだろうか。
遅れて理解した。
春人が言っているのは当然、柚希の手元にある小説のことだろう。
柚希は春人の視線の先を確認し、自分の手元を見ていることに気付く。
動揺している。
もう一度春人の様子を見ると、ずっと柚希の顔を見ていたわけでもなさそうだ。見られていないということを確認できたからか、わずかに緊張がほぐれた気がする。
確かに柚希が読んでいる本は同じだった。春人が今の前、部室を訪れた時に柚希が読んでいたものだ。
「……うん」
答えると春人は笑った。なにか納得したふうに。
――え?
柚希には春人の微笑みの意味が分からない。
意味はあるのだろうが、柚希には分からないのだ。
春人から特に悪意も感じられない。
おそらく柚希の言動に対して春人がなにか感じたのだろう。それは分かったが、柚希に与えられた一瞬では微笑みの意味が何なのかまで想像して補うことはできなかった。
春人はそんな柚希の思いをよそに、すたすたと防衛線から撤退する。
部屋の中央に置かれているテーブルの前のソファーに、春人はやや乱暴に座ると、春人が提げていた鞄がまた勢いよくソファーをたたく。埃が舞った。
「めんどくさいなぁ」
春人は背もたれに身体を預けると天井を見上げた。そして目を閉じる。
柚希は思い出そうとする。
こういう人を何て呼ぶのだったか。
この人物。
中学の時のクラスメイト。確かに春人は中学のときのクラスメイトではある。高校の同級生。そうだ。同じ文芸部の仲間。間違ってない。けれど、どれも違った。
――春人くん?
入学当初「伊藤」の姓を持つ生徒がたくさんいたので、その頃に取り決めた。伊藤春人を「春人くん」と呼称すること。柚希と春人と2人の共通の友人であるもうひとり、その3人の間で結んだ協定。動揺のあまり春人の呼び方まで忘れてしまっていたのか。
……違う。
妙なふうに納得しかけて、大きくずれていることに気付く。思い浮かべた疑問に対して、導き出す答えがまったく見当違いだ。春人の呼び方を思い出そうとしたのではない。
今の春人のような振る舞いをする人間のことをなんと呼ぶか。例えば、傍若無人であるとか、自由奔放であるとか。そういうことだ。
春人の振る舞いに対して傍若無人は言い過ぎだと思う。奔放だとは感じるが、それがどの程度なのか春人のことを詳しく知らない。もちろん興味も無い。
注意が向いてしまうのは自分の感覚の問題だ。柚希の反応の方が過剰で、おそらく奇異なのだ。自覚はしている。
相変わらずの自分の混乱具合に呆れた。
柚希は気持ちを落ち着かせてみようと努める。
冷静に、冷静に。
意識的に呼吸してみる。ひとつ吐いてひとつ吸う、徐々に普段の自分が戻ってくる。今この場所が学校で、部室であることを思い出す。目の前には春人がいて、ずり落ちそうな姿勢でソファーにもたれかかって天井を見上げている。
そういえば、春人は先ほど何か言った気がする。何を言ったのかは覚えていないが、柚希からかける声はないのだろうか。
――突然の雨でビックリだよね。春人くん電車だから、駅まで雨の中歩いて行くのは大変だし、しばらく雨も止みそうにないから、部室でゆっくりとしていくのもいいかもしれない。
思っても、たったそれだけのことが柚希には声にならなかった。
声をかけるタイミングが分からない。話しかけてもいいのか話しかけない方がいいのか、それも柚希には分からなかった。
雨の音だけが校舎に響く。ただ、時間だけが過ぎていく。
結局この日、柚希は読みかけの小説を1ページも読めなかった。
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