けものフレンズ8話が垣間見せたヒトだけにできること

@yanoz

第1話

初見で不満だったけど、見直したらすごかったと山川賢一さんも語っているけものフレンズ第8話ですが。


https://note.mu/shinkai35/n/n59cf3d231377


8話への不満は、モブシーンの低予算なクオリティだとか、アイドル展開に興味が持てないとか、いろんな要因が重なっているようだけど、一言にまとめれば、かばんちゃんが活躍しなかったから、ですよね。


だから、山川さんも、かばんちゃんが活躍しなかったのは、作品として理由がある、と、ストーリーを解釈されている。


自分も、8話は実はすごいのでは、と思うので、山川さんとはべつの角度から論じて見たい。


けものフレンズ視聴者が、かばんちゃんに思い入れし、かばんちゃんの活躍に期待してしまう理由は、かばんちゃんが、視聴者の立場、視聴者の目線に近いキャラクターだからだ、と、とりあえず言うことができます。


記憶喪失して何も知らないかばんちゃんが、ジャパリパークの世界を旅してフレンズたちと出会っていくプロセスが、けものフレンズという作品についてあれこれ発見していく視聴者の経験とシンクロするようになっている。


つまりかばんちゃんは、いわゆる視点人物的な役割を帯びた主人公として設定されているわけです。


この、かばんちゃんの、視点人物的な設定の仕方が、絶妙で、新しい!のでは無いか?

そこに、このアニメがヒットした要因のひとつだったのでは?

と思うわけです。


8話は、かばんちゃんが活躍の舞台から純然たる視点人物の位置に退いたエピソードになっていて、そこに、アニメ版けものフレンズの、作品としての展開において、そうなる必然性というか重要性があったのでは?

というのがここでの仮説です。


ここでざっくり、視点人物的なキャラクターの変遷とか系譜とかを振り返って見ます。


特に、萌え系というか、いろんな美少女が楽しそうにしていたり可愛らしくしている様子を見ていたい、的なコンテンツの場合、読者視聴者のメインターゲットは男性なんだけど、作品中には男性キャラクターが居ないのが当然みたいな風潮がありましたけど、これ、昔からそうだったわけじゃ無いですよね。


単純に言うと、ラブコメの主人公と複数ヒロインという設定が、複数の女の子が主人公に好意を持つハーレム展開へと推移し、ハーレムからいらない男キャラが抜けて、女の子だけの作品世界を観客が外から覗きこむ的な萌え系コンテンツになる、みたいな推移を描くことができるでしょう。


例えば、『あずまんが大王』のあずまきよひこが、それ以前に『天地無用!』のキャラで2次創作してたというあたりが、ハーレム展開から萌え系への移行を象徴しているだろうし、『ナデシコ』の主人公にあんまり存在感が無いあたり、すでに、ハーレム展開から男性メインキャラが退場していく予兆を示しているように思えます。

もっとさかのぼれば、王道ラブコメとハーレム展開の間に『うる星やつら』が位置付くというような系譜が描けるのかな、と。


これは、『艦これ』もそうだけど、美少女ゲーム的な原作をアニメ化するときに、プレイヤー役をどう作品に位置付けるか、という問題でもあります。


それで、けものフレンズにおけるかばんちゃんは、この系譜の中で、新しい境地を切り開いた感がある。

ここにコンテンツの未来があった!という感じです。


けもフレで美少女擬人化された動物の世界は、それだけで完結しているというか、完結できてしまうわけですけど、その世界を物語として展開する上で、現実世界で生きている視聴者と、作品の世界をどう結びつけるのか、というのは、劇作上の重要な課題だったわけで、そこでかばんちゃんを設定したのは、見事だった。


ラブコメとかハーレム展開だと、男性視聴者が男性キャラクターに感情移入することで、作品に没入してた。

萌え系コンテンツの場合、そこがどうだったのか、というのは、まさに東浩紀の論点だったのだろうけど、その内実がどうだったかはべつにして、萌え系の場合は、コンテンツ自体に新しい観客をのめり込ませるドラマ的な要因が薄くなっていたんだ、とは言えるだろうし、 時間がまったり停滞せざるを得ないというか、未来が閉ざされてる感があって、ジャンルとしてどんどん自閉してる感じ、細かい差異を縮小再生産し続けるだけみたいな感じは否めなかった。


そこに、かばんちゃんの登場ですよ。


作品世界で人類代表、ヒト代表であるかばんちゃんに、視聴者が感情移入するときには、ヒトとして、人類の一員として感情移入するよう促される。


この構図をドラマとして展開しているというところが、決定的に新しい。


かばんちゃんは公式には少女ということで、インタビューで作り手が明言してましたが、かばんちゃんがあえて中性的に設定されているのも、 狙いすまされている。


アニマルガールであるフレンズたちとかばんちゃんの関係性に、性的な差異の要因が絡まなくてよい構図になっている。


性的なファンタジーは、少なくとも作劇上、物語を推進する要素にはならないようになっている。


少女たちの関係性は、様々な種の動物が関わりあう生態系のように描かれていく。

そこでかばんちゃんは、萌え系美少女たちの世界に入っていく視聴者目線の主人公に新しい姿を与えているわけです。


それで、8話では、それまでのエピソードとは異なり、かばんちゃんの知恵、人類の叡知が、ドラマを展開させる鍵の役目を果たさなかったことが、ただの不足や欠除ではなく、作品の本質に関わる描写だったと理解できるかもしれない、という所以ですが。


8話でのかばんちゃんは、知性を欠いていたのか?

というと、そうではないわけです。


8話でかばんちゃんが果たした役割は、単純に言えば、観客であること、傍観者であることだった。

他のフレンズたちが、やりたいことをやりたいようにやって楽しんでいるときに、余計な口出しをしない、というのも、知性が働いてなければできないことだ。

いわば、8話のかばんちゃんは批評家的なポジションに立っていて、これもまた、動物的な習性を帯びた他のフレンズたちにはできないヒトならではのあり方を描いている。


かのアリストテレスも、知的な動物である人間にとっての、一番素晴らしい生き方は、冷静な観客として生きることだ、という風なことを言っていたわけで。


そんなわけで、8話はかばんちゃんの視点人物的な設定を前景に浮かびあがらせた意味で重要だし、シリーズが描いている旅のゴールが再設定されるという重要なエピソードだった。


8話では、かつて人間たちは海に囲まれたジャパリパークの外に逃れてしまっていたらしいことが示されていて、かばんちゃんもこのアニメシリーズの最後にパークから旅立つのではないかと視聴者に予感させている。


このアニメに関連する歌では、繰り返し旅立ちが歌詞のモチーフになってもいるので、たぶん、そういう展開になりそうだ、という雰囲気が醸し出されている。そこは作り手も意図しているところだろう。


かばんちゃんの旅の終わりが、新たな旅立ちなのか否か現時点で一般の視聴者にはわからないけれど、どっちにしても、かばんちゃんの旅が終わるときに、視聴者の旅も終わる。


アニメシリーズが終わったときに、アニメがリリースされているという現在進行形のドラマから視聴者は離れることになる。

かばんちゃんの、視点人物として視聴者を引き込む力の強さは、エンディングに、どんな姿で現れるのだろうか。


ともかく、8話が示唆しているのは、かばんちゃんの旅のドラマとは関わりなく、フレンズたちの世界は存在し続けることができるということだ。

かばんちゃんは、ゲストなのであって、世界の中でゲストでありえるというのもまたヒトならではのことなのだった。


というわけで、作品がどのように締めくくられるのかはわからないけれど、シリーズが終わったときに、8話がまた新しい姿で見えてくるんじゃないかと思う。






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