7・走るぜ、メロス!

 準備を万全に済ませた信夫が、鏡を前に決め台詞である「ごめん、待った?」を繰り返す。

 今から出れば猛烈に急いでちょうど8分遅れくらいで着けるだろう。

「走るぜ、メロス!」

 浮かれた信夫は、読んだこともないくせに偉大な名作を口にする。

 靴を履き、光溢れる新たな人生へ踏み出そうとしたその時、視界が大きな影で覆われた。

「ドンドコドンドコ、じゃかあしいんじゃ!」

 信夫は行く手を塞ぐ赤い壁を見上げて息を呑んだ。

 多くの場合、好転しそうな時にこそ落とし穴が口を開けている。その時にどんな選択を下したかでその先の未来が決まってくるものだ。

 その選択をことごとく外してきた信夫は、そのことを本能のレベルで学習していた。 

 真っ赤な顔を怒りで震わせる赤モグラを前に信夫は考える。

 いつもであれば、お詫びの印に、赤マジックで「死ね」と書いたトマトを手渡す。だが、今はその買い置きがない。買いに出る時間などない。

 信夫の頭に妙案が浮かんだ。

「騒がしくしてすみません。お詫びにこれをどうぞ」

 信夫は財布から一枚紙幣を取り出した。

「一万です。これでトマトを好きなだけ買ってください」

 赤モグラは鼻を鳴らしてお札の匂いを嗅ぎとるとニンマリ笑った。

「にいちゃん、一皮向けたみたいじゃの」

 ヨタヨタと戻っていく赤き塊を見ながら、信夫は自分で自分を褒めてあげた。

 奴の視力では1万円と1万ルピアの区別なんてつきやしない。


 目の前の危機をうまく回避した信夫だったが、さらなる選択を迫られることになった。

 玄関から飛び出すと、すぐ先に三十代と思しき女性が立っていたのだ。

「お忙しいところすみません。少しの時間でいいので、保険のお話をさせていただけませんでしょうか」

 女性のくたびれた顔からは憂いを含んだ色気が匂いたっている。でも空き巣との待ち合わせはもうリミットギリギリだ。

 信夫は空き巣と女性を選択の秤にかける。

 勝負は一瞬で決まった。

「ちょうど今、時間ができたところなんですよ。どうぞ」

「そうなんですか、私、嬉しいです」

 死なないと決めた自分にとって保険は大事なことだ――。

 勝手な言い分で自分を納得させた信夫の視界に、階下を歩く空き巣の姿が映った。

 男はパンパンに膨らんだ背中のリュックをさすりながら、信夫に優しく微笑みかけた。

 その笑顔が、信夫に人として本来選ぶべき道を気づかせてくれた。

「ごめんなさい! やっぱり今は時間がないんです」

「そんな……」

「でも! 保険にはすごく興味があるんです。だから、……今晩、食事でもしながらお話を聞かせてもらえませんか」

 この信夫の選択はいいとこ取りの大正解であった。

【その時までに全部の申込用紙にサインをして持参する】という条件つきだったものの、信夫はさらなる待ち合わせを手に入れたのだ。

 女性は信夫の手を握り、涙ながらにお礼を繰り返して立ち去った。信夫の胸にも込上げてくるものがあり、なんとなく指先を舐めてみた。


 部屋に戻り女性から受け取った分厚いファイルを棚に置く。その時、向こうの壁の姿見に映る男と目があった。

「生きててよかったな」

 鏡の男は、アイドルにも負けない爽やかな顔で笑っていた。

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