5・初めての取り組みの果てに

 窓の外から鳥のさえずりが聞こえる。

 午後のこの時間は図らずもこの部屋における黄金タイムだ。上空から僅かながらの陽光がさし、両隣のアル中どもはお昼寝の真っ最中――。

 この時間が信夫に「死なないでよかった」と思えるほどのありがたさをもたらすも、まだ「生きててよかった」と肯定的に捉えられるまでには至らない。

 ただ、この時の穏やかな空間が「いい感じ」であったことだけは確かだ。


「……ぬるい」

 男は水を口に含むやいなや遠慮なく言った。

 同じ柄のコップが二つ、ついさっきまで首吊り台だった木箱に乗っている。中には蛇口から直接注ぎ込まれた東京都自慢の洗浄水がたゆたっている。

「ごめん、氷がなかったんだよ。冷蔵庫も空っぽだし」

「それでよく、なんか飲む? なんて訊けたもんだな」

「そんなこと言わないでよ。自殺を決めた人間の冷蔵庫なんて空っぽに決まってるでしょ。冷蔵庫がパンパンの自殺者なんて本気度を疑うよ」

「なるほど。今、俺は初めてお前の言葉に納得したよ」

「ある意味僕は言葉を生業とする役者だからね」

 信夫は得意げにウインクをかますが、残念なことに経歴的に見てお前の生業はビルの清掃だ。

「ねえねえ、僕たちってさ、似てると思わない?」

「ぜんぜん思わない」

「だってさ、君も今無職でしょ?」

「今は空き巣」

「それを世の中では無職って言うんだよ!」

 信夫は勇気を出して肩を叩いてツッコミを入れてみる。男の嫌そうではなかった素振りに信夫はさらなる勇気を手に入れる。

「それに、……友達もいないでしょ?」

「俺はフリーの空き巣だから同僚とかはいねえよ」

「同僚は友達とは言わないよ。それだったら僕だって15人は友達がいたことになるし」

「まあ、そうだな」

「ほら、やっぱり僕たちって似てるよ! ねえ、僕ら二人でなんかやんない? 僕は一回死んだようなもんだから死ぬ気で頑張れるよ!」

「別にいいけど、なにをすんだよ」

「そうだな、僕たちみたいな二人だからこそできることって、絶対にあると思うんだよな……」

 頭に浮かぶのはこの腐った世の中をぶち壊すような何かだ。

 私利私欲に走る政治家を誘拐して世間に訴えかける、もしくは自分たちを虫けらとしか思っていない人材派遣企業を爆破して労働者のヒーローに躍り出る――。

 信夫は、男がそのような過激な提案を出してくることに期待していた。言い出しっぺには責任が伴うが、誘われる分には言い訳ができるから。

「二人だからこそできること、か……」

 男の顔に真剣な色が浮かんでいる。信夫は正座の状態で正対して言葉の続きを待った。

「……相撲なんてどうだ? 体ひとつあればできるし」

「え?」

 まったく予想外の提案に信夫は衝撃を受けた。孤独な自殺志願者にとって、その誘いは非常に魅力的に映った。

「……君、頭いいね。僕、一度、相撲ってのをやってみたかったんだよ!」

「やったことねえの?」

「ないさ! あるわけないさ! 君は他人と相撲を取ることの難しさをわかってないんだよ!」

「そういうもんかな……」

「そうさ! じゃあ、早速やってみようよ!」

 

 ほんのさっきまで自殺志願者と空き巣の関係だった二人が、今では身体をぶつけ取り組みあっている。行司なんていらない。勝ち負けよりも大事なものが、ここにはある。

 信夫はここぞとばかりに身体を密着させた。この際、男とか女とか関係ない。肌から感じる他人の体温が嬉しかった。

「君、強いね〜、もういっちょ!」

 何度、派手に投げられても、痛みよりも笑みが溢れるばかりだった。顔じゅうにすり傷ができたって、信夫は幸せだった。


 同じ頃、信夫の住む寿荘を訪れた保険外交員の女性が、外階段を秒速15センチほどのスピードで登っていく真っ赤な怒りの塊を見上げていた。

 初見の彼女をして「巨大な血豆のゆるキャラ」と言わしめるリアリティがその赤き塊にはあった。

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