第14話 斬るのかい
二人の声が遠のいて行く。リディアはただ静かにその声を聞いていた。
自分の過去が語られている最中、意識を取り戻していたリディアは、フィッフスの語る昔語りを、目を閉じたまま聞いていた。そうしたことに、これといって理由はない。目覚めたことを悟られたくなかったわけでもないし、話を聞いたシホから、何か直接、言葉をかけられるようなことになったとしても、特に何も思わなかっただろう。ただ、フィッフスの言葉で語られるあの夜の話を、久しぶりに聞いていたかった。そう思ったことだけは確かだった。
全てが始まったあの夜の記憶だが、リディアが想い出せる部分は少ない。事のほとんどを、『統制者』に使役された状態で終えているからだ。これから訪れる大きな戦いの前に、気持ちを新たにする為には、始まりの記憶を、怒りを、憎しみを、はっきりと想い出しておくことは、意味があるように思えた。
シホは、滞在している豪商の屋敷に戻るのだろう。この部屋の中ではわからないが、クラウスの部下である神殿騎士団の誰かがフィッフスの店の近くに控え、迎えの馬車で待機しているのかもしれない。
シホの迎えの存在を、建物の外に意識した時、リディアはそれと全く違う気配を察知した。
誰かに見られているような感覚。
酷く深い憎悪に満ちた視線、とでも言うべき気配を感じたのだ。
リディアはゆっくりと目を開けた。自分の身体を確かめる。ギャプロンの屋敷で、身体の半分を硬質化した、紅い鱗のような物質はなく、身体全体に違和感はなかった。重さやだるさもない。大丈夫だ、とリディアは自分の身体の感覚を一つ一つ確かめていった。
そして起き上がる。黒い外套は自分が横になっている寝台の足元に置かれていた。寝台から降りて、背筋を伸ばす。そして外套を手にし、羽織った。
シスター・リディアと同じ外套。
フィッフスの昔語りのおかげで、久しぶりに鮮明に彼女の姿を思い出すことができた。あの笑顔を思い出すことができた。もちろん、一日たりとも忘れたことはない。だが、時の流れは残酷に、その姿に薄霧をかけていく。次第に濃くなっていく忘却という名の霧は、思い出という創作物と相まって、本当の姿、本当の記憶、本当の想いを遠ざけてしまう。
そうならないために、リディアはリディア・クレイであることを選んだ。
罪は背負う。
そして、守り通す。
もう百魔剣のせいで、悲しい想いをする人を作らせない。
父を戦火に取られた。母を戦火に焼かれた。そうして今度こそは、と守ろうとした人を、百魔剣に奪われた。
もう、誰にも同じ思いはさせない。
その為に、リディアは『統制者』と生きる道を選んだ。
外套を、やや幅の広い腰紐でまとめる。そして、リディアは枕元に置かれた剣に手を伸ばした。
この剣の最大の特徴である紅い刃は、いまは革製の鞘の中にある。この状態では、何の変哲もない、柄と鍔の古びた、使い込まれた剣にしか見えない。
リディアは無言でその剣を掴み上げると、魔法のような手早さで腰に帯びた。
強い視線のような気配は、まだ続いている。
リディアは部屋を出た。
フィッフスの店の二階は、一階ほど荷物もなく、入り組んでもいないため、階下へと向かう階段はすぐに見つかった。そこまで歩いたリディアは、階下へと降りようと、階段に足をかけたところで、立ち止まった。
「……行くのかい」
階段の上には、外の様子を伺える窓が、ちょうどリディアの顔の高さに設定されていた。十字の木脇の嵌まった窓から見えるマーレイの街の様子は夜で、どうやらわずかではあるが、雨滴が落ちてきている様子があった。窓にもわずかながら水滴が付き始めていた。
「ああ」
リディアは投げかけられた言葉を、特に驚くでもなく聞いた。階段途中の薄暗がりに人影があったことは驚きに値することだったが、そこに人影が立つだろうことを予想していたリディアの心は平静のままだった。
「神殿騎士長の……クラウスの欲の声を聞いた。奴の狙いは、おれだ」
「アンヴィ。欲の魔剣。ある意味では、『領主』の中で一番質の悪い剣だね」
フィッフスは研究者として得た知識から、アンヴィがどのような剣かを知っている。リディアの持っている知識の大半は、フィッフスのものだ。
「クラウスの中では、シホに終生、ただ仕えようとする自分と、それ以上に、シホに必要とされたい自分、それから自分を見捨てた父親を見返したい、という欲望が、複雑に絡み合って解くことが出来なくなっていた。そこをアンヴィに突かれた」
「そして、それら欲望の達成の邪魔になる、高司祭さんの目下の関心事であるあんたを排除するという目的を持った……人の欲望は、不幸な結果を生むだけなのに、なぜ膨らみ続けるのかねえ」
ため息の代わりのように、フィッフスがつぶやく。それに応えるように、どこか遠く、窓越しに、遠雷の轟きが聞こえた。
リディアは階段を降りる。一歩、二歩、降りていくが、フィッフスは何も言わなかった。フィッフスの真横を通り、さらに階下へ降りていく。
「斬るのかい」
その背に、フィッフスの問いかけが染み込んできた。リディアは思わず足を止めた。
答えは、決まっている。魔剣に『喰われた』状態の人間を、救い出すことは極めて難しい。良くてもローグのように、この世から消滅する直前に、自らの意識を取り戻す程度である。その事は、フィッフスの方が詳しく知っているはずで、それでも問われた声が、全てをわかっていても訊かずにはいられない、と言った、辛い感情を絞り出すような声だった。
リディアは、深く息を吐いた。
「ああ、それが」
肩越しに、フィッフスを見た。声同様、複雑な表情をしたフィッフスが見え、ふいにあの日、あの夜のフィッフスを思い出した。全てが始まったあの夜、『統制者』の使役から目覚めたリディアに、フィッフスが向けていた表情も、何から言葉を紡げばいいのか、様々な感情が入り乱れる、複雑な表情をしていた。
「おれの……『統制者』の目的ならば」
「例えば!」
言い残して、その場を去ろうとした背中に、今度は叫ぶ声が突き刺さる。リディアは踏み出しかけた足を止めた。
「最悪の事態だけは、避けられないのかい? あんた、また一人で罪を背負おうとしているんじゃあないのかい?」
再び肩越しに見たフィッフスの顔と言葉で、リディアは納得した。そうか、フィッフスは他の誰でもない、自分のことを案じてくれているのだ、と。
クラウスを斬る、という事。
シホ同様、近しくなってしまった人物を斬る、という事は、それがどんな経緯であれ、辛い記憶として残るだろう。そして、リディア自身、可能であればクラウスをシホの下へ帰してやりたい、と思ってもいる。自分と同じように、百魔剣に魅入られ、半ば以上百魔剣の意思で動くことになってしまった彼のような人物を生み出さないために、リディアは戦ってきたのだから。
誰に口をきいている。
ギャプロンの屋敷で、共闘することになったクラウスが、そう言った姿を思い出した。本当に、いつぶりだろうか。自分と対等に話しかけてくる男は。そういう男だからこそ、何事もなかったように、以前の生活へ戻してやりたいと思う。
「最善は、尽くす」
リディアはそういうと、歩き始めた。
そう、最善は尽くすつもりだった。
だが、同時に覚悟も決めていた。その時が来れば、斬る。
おそらくそれが、欲望に囚われたクラウスの為でもある。それでも、最後の一瞬まで、この覚悟は使いたくない。本当に久しく感じたことのなかった感情、親近感のような思いがリディアの心の中に芽生えていることに自分でもようやく気が付いた思いだった。
「『統制者』を抑えて、アンヴィも抑える。おれの力次第だ」
また一つ、遠雷が聞こえた。
嵐が、近づいている。
リディアはもう、振り返ることなく、階下の闇へと歩を進めていった。
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