第五章

第1話 嵐

 海の向こうから、巨大な黒雲が近づいている。強い風が吹き荒れ、古びた街路に打ち捨てられた様々なものを倒し、転がし、巻き上げ、何処かへと吹き飛ばしていく。


 既に夜は明けているはずだった。確かにいくらか明るくなってきてはいた。だが、朝日の光を見ることはできなかった。大きな嵐が、近づいていた。


 この強風の中、リディアは荒れ狂う街路に一人、立っていた。


 理由は一つ。


 だ。


 貿易自治都市マーレイは、元々小さな漁村だった。それが交易の要衝として認識されるようになり、急速に発展して、いまの姿となった。現在のマーレイの中心街は、発展後に新しく作られた新市街で、いまリディアがいるのは、その新市街から東に離れた、旧市街、と呼ばれる、打ち捨てられた街だった。


 元々の漁村を急ぎ開発して行った結果の街並みは、規則性や規律性がなく、闇雲に道を引き、建物を建てた、という印象がある。唯一、かつての小さな港へ通じる、いまリディアが立つこの道だけが、石畳で整備され、一直線の大道として存在しているが、後の道は土剥き出しのくねくねとした裏路地である。乱立する大小さまざまな白い漆喰の家屋がこの街に裏路地を作り出し、その複雑さは、住み慣れていないものにすれば迷宮に匹敵するかもしれない。そして、この地にはいま、住み慣れているものはいなかった。数十年前に新市街が整備されて後、この旧市街は役目を終えたのだった。そのため事実上、この街の裏路地は、完全な迷宮と化していた。


 リディアはそんな路地には入り込まず、鞘に納めたままの『統制者』を自分の前に突き立て、その剣の柄に両手を置いて、じっと待っていた。灰色の肩掛けを頭から目深に被り、逆巻く黒く長い髪を押さえてはいたが、強い風はその肩掛けさえも剥ぎ取る程の勢いで逆巻いている。


 位階『領主』の百魔剣、対『統制者』


 それは人知を超えた戦いになる。


 リディアは、これまでも百魔剣を破壊する戦いを経験している。実際、完全に百魔剣を破壊することに成功してもいる。だが、それは全て、周囲の被害など構う余裕のない戦いだった。そして、これまでリディアが戦ってきたのは、上位でも『騎士』止まりである。選ばれし十振りの位階『領主』の剣たちとの戦いが、激しさを増さないはずない。自分以外の、全ての人々を守り通す。百魔剣の被害にあう人間を出させない。リディアの根底に息づく想いと祈りは、この無人の街を戦いの場所として選んだ。


 こうした考えに至るところ考えると、自分は、本質的には変わっていない、とリディアは思う。『統制者』を手にした後、全てを守ると誓ってから、リディアは自分を育ててくれたフィッフスと、その夫以外の人間とは、極力関りを持たないように生きて来た。守る為には、そもそも誰一人関わらせないことも有効であることは、シスター・リディアをこの手にかけた経験から、嫌と言うほどわかっていた。だから、もう誰も巻き込まない。リディアが他人を遠ざけたのは、そうした想いからだった。それはいま、こうして人気のない場所で戦う事を選んでいることも、同じ感情に起因するものなのだろう。


 だが、とリディアは思った。


 魔剣アンヴィを巡る一連の戦い。


 この戦いだけは、何かが違った。


 一体、何が違ったのか。


 それを考えようとした時だった。唐突に、水を貯めた空の底が割れたかのような豪雨が降り始めた。そしてその中に、リディアははっきりと、近づいてくる人の気配を感じ取った。かつての港を背に立つリディアの正面、大通りの先から、それは近づいてきていた。程なく、足音も聞こえるようになる。ずるっ、ぐしゃっ、という、濡れた地面の上を、その身を引きずるような音をさせる歩き方で、男は近づいてきた。


「待たせたか」


 目の前に立った男が、笑みと共にそう口にした。この戦いで何度となく目にしてきた、下卑た笑みを、男はその顔に張り付けていた。


 その下卑た笑みは、初め『一突き』の異名を持つ盗賊、ローグ・バジリスクのものであった。だが、いまは違う。あらゆる欲望を剥き出しにしたような笑みはいま、そうした欲望のままに生きる人間とは、あまりにも縁遠い男の顔に張り付いている。


 魔剣アンヴィを巡る、一連の戦い。


 一体、何が違ったのか。


 なぜこうなったのか。


 リディアはそれを考えた。こうならないための生き方を選んできたはずだった。にもかかわらず、この戦いは、これまでリディアが歩んできた、他の様々な戦いとは異なる結末を迎えようとしていた。


 自分は、何か変わったのだろうか。


 その変化が、この結末を呼び込んだのだろうか。


 そんな風に考えると、リディアの脳裏をあの少女の顔がよぎった。穢れを知らないまっすぐな瞳。自らの非力を呪いながら、それでも自らに課せられた宿命に、必死で抗おうとする横顔。


 変えられたのかもしれない。


 いや、それとも戻ったのか。


 


 想像外にすんなりと出てきた言葉に、リディアは自身が歩んできたこれまでのすべてを思い出し、そして苦笑した。


 まだ自分がアルバと名乗っていた頃。遠い両親の思い出と、シスター・リディアと同年代の仲間たちの記憶。あの温かな日々の面影。


 そうか、おれは、戻ったのか。


 そうなのかもしれない、とリディアは得心した。やはりシホの姿は、シスター・リディアに似ていた。だから、と言う気はないが、いま、目の前に立つ男……神殿騎士長であるクラウスの存在も含めて、自分はあの日々に戻った気でいたのかもしれない。失った何かを取り戻せるかもしれないと、心のどこかで期待すらしたのかもしれない。リディアではなく、アルバに、自分でも気が付かないうちに、戻っていたのかもしれない。


「なんだ?」


 苦笑した口元が、クラウスにも見えたのだろう。問う声を出した。


 鍛え上げられた長身の肉体と、几帳面な内面を思わせる短髪の黒髪は、ローグの時とは違い、アンヴィに『喰われた』後も、変化はなかった。むしろ、もっと怪物じみてくれた方が戦いやすかったように思う。


 この男が、一線を越えて、自分と同じように百魔剣に手を伸ばしてしまった。


 それを、出来ることであれば、元の神殿騎士長へ戻してやりたいと考えている。


 全てを守ると誓った、その誓いの為でもあるが、これはどちらかといえば、アルバの考えのような気がした。『統制者』を手にしてしまったアルバが、自分と同じような人間を増やしたくない、こちら側へ来る必要はない、そんな不幸を背負う必要はない、と心の奥底で叫んでいる声が聞こえた気がした。


 いや、とリディアはクラウスに応じた。応じながら、目深にかぶっていた灰色の肩掛けを取り払った。


「いま来たところだ」


 リディアの頬に、水滴が触れた。肩掛けが弾いていた、嵐の始まりの雨粒を、リディアはその頬で、腰まである長く艶やかな黒髪で受けた。同じ色の、踝まである外套が、少しずつ湿り、色を濃くしていく。


「そうか」


 クラウスは満足するように笑った。あの下卑た笑みだ。表情の下にあふれる欲望を押し隠しもせず、満たされない欲求にひたすら貪欲な、品位のかけらもない笑みを深めたクラウスは、腰に佩いた長い両刃の剣を抜いた。


 ローグの時と同じく、アンヴィが姿を変えたものなのだろう。その姿は、神殿騎士長愛用の剣にそっくりの形に変わっていた。


「なら、始めようか」


 殺したくて殺したくて仕方がない。


 そういう欲求を、クラウスは言葉と共に吐き出した。抑えきれず、むき出した歯が、かちかちと音を立てるほど笑っていた。手にした剣が妖しく、美しい銀色の輝きを見せた。


 リディアも同じく、剣に手をかけた。その為に、ここへ来たのだ。応じるように、迷いなく、ゆっくりと鞘から引き抜く。


 最悪の事態だけは、避けられないのかい?


 ここへ来る時、背中にかけられた、自分を案じてくれる人の言葉を思い出した。


 あんた、また一人で罪を背負おうとしているんじゃあないのかい?


 多くの罪を、既に背負っている自覚はある。最愛の人を手に掛けた罪。最愛の人が守ってくれていた日々を壊してしまった罪。最愛の人に守られて暮らした、仲間たちから、あの大切な場所を奪ってしまった罪。


 それだけではない。その後も、リディアは魔剣と戦いながら、さまざまな人々と出会い、戦い、時には斬り捨てて来た。リディアの名を轟かせるに至ってしまったリグ山岳砦での戦いなどは、その場に魔剣所持者がいた為とはいえ、二百人近い人間が犠牲になったはずだった。


 そうした罪を、リディアは自らのものとしてきた。フィッフスはその重さを案じてくれているのだ。それはありがたくもある。


 最善は、尽くす。


 リディアは自分で応じた言葉を思い出す。


 たった一人でも、魔剣を全て封じるまで、戦い続ける。


 百魔剣にはもう、誰も傷つけさせない。


 リディアはその為に選んだ生き方の中にいる。フィッフスの言葉はありがたくもあるが、その罪の重さも、いつ終わるともわからない戦いも、全て、自分が決めた道である。今更、違う道を選ぶような気にはならない。なれない。クラウスを助けたいとは思う。その為に最善は尽くす。


 だが、必要であれば、斬る。


 それがリディア・クレイの生き様だ。


 ちょうどその時、天空を稲妻が走った。想像を超える速さで成長した黒雲が分厚く、暗く覆い隠した世界を、閃きが一瞬、明るく照らし出した。クラウスの手にした剣が、強い銀光を放ち、それに応えるように、リディアが鞘から抜き放った剣が、紅い光を放った。


 まるで血を塗り付けたように、いや、血そのものを固めたように、『統制者』の刀身は赤黒く、輝いていた。

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