第6話 小さなお茶会
「いつ以来かねえ、こうして会いに来てくれたのは」
天板の丸い、白い机を挟んで、リディアとシホは向き合って腰かけた。フィッフスがその間に茶器を置き、琥珀色の液体を器に注ぐ。金色と青の顔料で美しい装飾を施された白い磁器に映える色合い湯は、芳醇な香りを立てている。それを草原を渡る穏やかな風が運び、より一層、香り高いものにしているようだった。
それにしても、こんな美しい茶器がどこにあったのだろう。あの店の中からこんなに美しいものが出てくるようには到底思えない。
それにこの草原だ。ここはいったいどこなのか。明らかにマーレイとは異なる穏やかな風に木の葉が揺れ、そのたび木漏れ日がゆっくりと揺れる。降り注ぐ輝きの下で、茶器から香る以外に、シホは懐かしい香りを感じていた。若草の香り。新緑の香り。それはシホが育った寒村の、短い春を思い出させる香りだった。
「あの……フィッフスさん、ここは……」
シホは言いかけて、その質問が正しいのかどうか迷い、言いよどんだ。ここはどこか、と訊くつもりだったが、当然、ここはマーレイの裏路地だ。自ら歩いてここへ来たのだから、誰よりもそのことは自分自身がわかっている。そのはずだった。
フィッフスは茶菓子を机の上に並べながら、ただ笑った。
「あの子の説明じゃあ、少し足りないねえ」
そういうと、フィッフスも白い椅子に腰かける。
「ここはこの世にあって、この世にない場所さね」
「……それは、どういう……」
フィッフスは答えず、茶を一口すすった。ゆっくりと、香りを味わうように目を瞑り、またゆっくりと開く。褐色の液体に波紋が映り、それに視線を落としたまま、フィッフスはようやく続けた。
「この草原は、確かにこの世のどこかにある。けれど、いま現在もこの形でこの世にあるかはわからない。歪めることで、遠方の土地に繋いでいるけれど、実際にその場所に行っているわけではないのさ」
そういうと、フィッフスはどこからか小さな球体を取り出した。ちょうど握り拳の中に埋まるほどの、透明な球体だ。
「これがその為の道具でね。わたしたち研究者は
「……つまり、ここは、この道具によって作られている、ということですか?」
シホは自分の考えが間違っていないか、精査しながら言葉を紡いだ。フィッフスが言うことを総合すると、にわかには信じられないことだが、そういうことになるはずだ。
フィッフスはシホの顔を見、にっこりと笑顔を作った。健康そうな白い歯が見え、人の好さそうな印象が強くなった。
「その通り。さすが高司祭さまだね。理解が早いよ」
フィッフスは球体を机の上に置いた。シホはその球体を覗き込んでみる。何も映っていない透明な球体だと思ったが、よく見てみると、何かが動いているように見えた。さらに覗き込むと、それは大きな木と緑の草原で、穏やかな風が渡る風景だった。
「統一王国時代には、こんな道具がたくさんあった。もっと生活に直結したものも見つかっているんだよ。例えば火を起こしたり、明かりを灯したり、水を流したり。風でごみや何かを吸い込んだり、逆に吐き出したり。特定の魔法の力が宿されているから、その力だけは、使い方さえわかれば使うことができる。強弱の調節も何も、できないけれどね」
つまり、この草原は、机の上の置かれた
特定の力が込められた道具。
シホはその言葉に、何か引っかかるものを覚えた。
「魔法の力の根源が、どこから来たのか。それをわたしたち研究者は探している。もしかしたら、悪しき力かもしれない。そんな想像をしながらね。でも、研究すればするほど、魔法という力が、統一王国時代には人々の身近なところにあって、人々を豊かで幸福にするために使われていたように見えてくるんだよ。百魔剣なんて危険な代物を作り出したのと、同じ時代なのにねえ」
百魔剣。
そうだ、とシホは思った。
特定の力が込められた道具。
百魔剣も、そうだろう。
剣の形をしていて、暴力と権力の象徴とされているが、違いない。
百魔剣とて、道具だ。
「研究すればするほど、どこからこの力が来たのかはわからないけど、ただ、人々の善意が、魔法を人々にとって身近で、使いやすいものにしたことは、なんとなくだけど感じ取れるんだよねえ」
「善意、ですか」
「そう、善意さ」
フィッフスはそこでまた一口、茶をすする。シホも茶器を手に取り、口に含んだ。程よく冷めた琥珀色の茶の香りが鼻に抜け、とても爽やかな気持ちになる。
「どの道具もそう。魔法は、誰にとっても便利で、誰もが簡単に幸せになれる、もしかしたら、そんなものだったんじゃあないかって、わたしは思っている。少なくとも、そういう風に使おうと考えた善意が、どの道具からも感じられるんだよ」
誰にとっても便利で、誰もが簡単に幸せになれる力。
それがフィッフスの考える魔法。
だとしたら、百魔剣も、そうなのだろうか。
誰にとっても便利で、誰もが簡単に幸せになれる、そういう善意の下に作られたのだろうか。
だとしたら……
「……フィッフス、いいか」
声に、シホは正面を見た。それまで押し黙って周囲の景色を見渡していたリディアが、器を手に、片手をあげていた。そのままゆっくりと一口、茶を口に含み、ゆっくりと飲み下した後、言葉を続けた。
「実は頼みたいことがあって来たんだ」
「おや、そうだったねえ。ちょっと待っといで」
言うが早いか、フィッフスは席を立った。草原にぽつんと置かれた扉へと小走りで向かい、その扉を潜って姿を消した。あれは三人で潜ってきた扉のはずで、その向こうはあの薄暗い路地裏の店に続いているはず。そうシホが考える間もなく、すぐに扉を潜って再び姿を現したフィッフスの右手には、大きい長方形をした、固そうな黒い鞄が握られていた。
「あんたの姿を見て、すぐに察しは付いたんだけどねえ。ついつい忘れちまったよ」
そう言って笑うフィッフスは、先ほどまで自分が座っていた白い椅子の上に、黒い鞄を置いた。
「これを、取りに来たんだろう?」
ぱちん、ぱちん、と鞄の留め金を二か所外し、フィッフスがゆっくりと蓋を開いた。中は外と同じく一面真っ黒で、しかしよく見ると、同じ闇の色をした衣服が入っているのがわかった。
「これは……」
「少し前にね、第十三層まで潜って来た戦利品を使ってるから、対斬性、対打性も、以前のものより強化してあるよ。仕立ても同じ」
リディアが立ち上がり、鞄の中の衣服に手を伸ばした。肩のあたりを掴んで持ち上げる。広げられた衣服は、真っ黒な、あの『紅い死神』の外套だった。
「十五層まで行ければ、もう少し性能を上げられるんだけどねえ」
「また一人で『塔』へ潜ったのか?」
「あそこはいろいろあるからねえ」
「無茶をするなよ。何かあったら、研究どころじゃあなくなるだろう」
シホにはわからない会話が続く。塔、というのは、何かの遺跡だろうか。
考えていると、フィッフスがこちらを向いて微笑んだ。
「地下に埋没した統一王国時代の遺跡があってね。わたしら研究者は『塔』と呼んでる。中には野生の動物や、王国時代の警備装置なんかも生きてるんで、危険はあるんだけどねえ。何せ、研究材料に事欠かない遺跡でね。わたしも時々調査に行くのさ。この子の衣類を見たかい?」
シホは首を横に振った。間近で彼の衣類を見たことはなかった。先日まで身に着けていたものは、シホが目を覚ました時には、既に処分されていた。
「あれにも王国時代の技術と素材が使われていたんだけどね。これはそれよりも五層下のものなんでね、性能はさらにいいよ」
「しかし……」
呟いたのはリディアだった。フィッフスが視線をリディアに戻し、シホもリディアを見た。
衣服を掴み上げて見つめているリディアの表情。
あれ、とシホは思った。
とても複雑な表情をしているように見えたのだ。
「ん、なんだい、不満かい?」
「あんたはおれがこれを着るのを、反対していたんじゃなかったのか」
「過去の亡霊に、あんたが囚われていたからさ」
また、シホにはわからない会話だった。それは衣服としての性能の話なのか、それとも仕立ての話なのか。シホには探る要素もなく、そして今度はフィッフスも説明はしてくれなかった。ただ、フィッフスが返した過去の亡霊、という言葉が、リディアの心中の何かを突き刺したのは確かだった。リディアの顔に明らかに驚いたような色が浮かぶ。
「いまのあんたは、自分が背負ってしまった運命と、必死で戦ってる。それならあの子も、あの子たちも、亡霊にはならないよ」
「フィッフス……」
「ところで、高司祭さま。シホ・リリシアさまだったかしらねえ」
恐らくリディアの過去に関わることなのだろう、とわかった時から、少しでも彼の事を知ろうと考えたシホは、二人の会話を、彼の様子を、余すところなく見届けようと意識を集中させていた。それで初め、自分に声がかけられたことに気が付かなかった。突然向けられた言葉に反応できず、きょとん、としたままシホは、フィッフスと向き合った。
フィッフスは何を言うでもなく、じっとシホを見つめていた。シホの瞳のさらに奥までも見据えるような瞳。自分の倍以上の時間を生きて来たであろうその瞳は汚れなく、曇りもない、深く澄んだ青い瞳をしていた。その深さに、吸い込まれるような錯覚さえ起こる。
「いい目をしているね」
フィッフスの声が、シホを現実に引き戻した。神秘的な瞳を持つフィッフスの声は、やはり穏やかで、優しい。
「あ、ありがとうございます……」
「でもねえ……」
何を答えていいかわからず、反射的に口を突いて出た感謝にかぶせるように、フィッフスは言葉を続けた。
「あんたがこれから向かうものは、あんたのその強ささえ打ち砕くかもしれない。それほど大きい『時』のうねりさ。でも、あんたはあんたを忘れちゃいけないよ。例え、あんたが何者でも、あんたはもう『時』という名の舞台に上げられたんだ。いまの気持ち、大切にしな」
健康そのものの、並びのいい白い歯を見せて、フィッフスは笑った。
息を呑んだ。
シホはフィッフスの顔をまじまじと見る。笑顔に裏表はなく、幼い子に言って聞かせた後のように小さく頷く魔女は、シホの心の奥底まで見透かしているのだろうか。
ずっと、引っかかっている言葉がある。
『光の魔導士』
あの遺跡群での戦闘で、敵対したアザミ・キョウスケはシホをそう呼んだ。
その意味。
本当の親を知らず、どこで生まれたのかも知らないシホには、その言葉が気になって仕方がなかった。
あんたが何者でも。
フィッフスはそう言った。
わたしが何者でも。
『光の魔導士』が善意あるものでも、そうでなくても。
わたしは、わたしを忘れない。
シホはフィッフスの言葉を、自分なりにかみ砕き、飲み干して、反芻してみた。草原を渡る風が木の葉を揺らす。きらきらと木漏れ日が揺れる。
何も変わっていない。
何一つ解決したわけではない。
それでも、いま、シホは、前に進んだ気がした。
「フィッフス、気づいていると思うが……」
「わかってるさね。数日前から、どうも空気がピリピリするからねえ」
フィッフスの肩越しに見たリディアは、フィッフスに声をかけはしたものの、視線は送っていなかった。受け取った外套を羽織り、身支度を整えている。
対して、フィッフスも再び鞄に向き合い、何かを取り出そうとしていた。
「あんたが来てわかったよ。『領主』だね」
フィッフスが鞄から出したのは、大判の布だった。柔らかい生地の布で、とても暖かそうに見える。フィッフスはそれを半ば投げるようにリディアに渡す。リディアはそれを受け取った反動で広げると、肩から羽織るように身に着けた。
「この街で、決着をつける」
そう言ったリディアは、そのまま歩き出した。草原にぽつんと置かれた扉に向かって歩いていく。その声も、背中も、シホが初めて見た『死神』の姿に戻っていた。
シホは置いて行かれないように、慌ててその後に続こうとしたが、
「シホさま」
と、フィッフスに呼び止められた。
立ち止まり、振り返ると、大きな木の木漏れ日の下で、フィッフスは満面の笑みでこちらを見ていた。
「あんたとリディアはよく似ているよ……あの子を頼むね」
シホは頭を下げて、すぐにリディアを追った。
わたしと、リディアさんが、似ている?
リディアの背を追って、小走りに駆けながら、シホはフィッフスの言葉の真意を考えたが、似ている要素は思いつかなかった。
今度、また会うことができたら、聞いてみたいと思った。そしてもっとゆっくりと、話をしてみたいと思った。魔法が日常的に使われ、百魔剣のような危険なものまで生み出した統一王国時代のことや、リディアの過去のことも。
シホは気が付くと笑っていた。帰って来たいと思える場所が、新たに一つ、できたように思えた。
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