第5話 魔女フィッフス・イフス

 で。


 街の中を駆け巡り、しばらくしてからのこと。リディアが不意に足を止め、シホには何も告げずに建物と建物の間の、細い路地へと入り込んでいった。シホはその背を必死で追いかけ、追いかけ、何度も角を折れ曲がり、追いかけ、そして、立ち止まった。


「こ……ここ……です、か?」


「ああ」


 リディアの表情は、後ろに立つシホにはわからなかったが、その声にはどこか笑っているような、懐かしんでいるような、はにかんでいるような気配があった。


 だが、その声から想像される、郷愁を抱かせるような温かな景色、物品はいま、シホとリディアの前にはなかった。どちらかと言えば、殺伐とした、どす黒く、後ろ暗い印象のものばかりが目に映っている。


 路地の奥の突き当りにある木造建築物と、二人は向き合っていた。建築物だと、シホも思うには思うのだが、建築物と呼ぶのもかなり怪しい、半ば以上崩れた建物だった。屋根は大きく曲がり、地面に向かって垂れ下がっている。その下には、がらくたにしてもおどろおどろしいものが乱雑に、所狭しと並べられている。何十本もの薄汚れた杖。うず高く積まれた埃を被った書物。中身の不透明な大小の瓶。軒先に吊るされているあれは黒い鳥のように見えるが、まさか死骸を吊るしているのか?


 その他にも、いったい何に使うものなのか、シホが見たこともないようなものが、崩れかけた建物の前に並べられている。いや、並べられた、というよりも、家に入りきらなかった、と言った方がいいのかもしれない。そうした物品に埋もれるようにしてある入口扉は、開きっぱなしで、閉じられそうにもない。


「あの……ここ……です、か……?」


「ああ」

 

 シホはもう一度、同じ言葉を、今度は怯え、訝る声音で話したが、リディアの声は変わらなかった。


 こんなところにあの黒い外套の心当たりがあるなんて……ここがどこなのか、もう少し説明を求めようとシホが言葉を考えているうちに、リディアは慣れた様子で建物入口を潜って、奥の闇の中に消えて行ってしまった。


 意を決して、シホもその背に続いて戸口を潜った。


 そして、やはり後悔した。


「ひっ……」


 戸口を潜った瞬間、思わず声を上げてしまった。


 シホを出迎えたのは、ちょうどシホの背と同じ高さの棚の上に並んだ、人間の頭部の骨……しゃれこうべだった。入口に向かって数体分並んだ頭蓋骨は、一様にこちらに向かって、かつて双眸を納めていたその暗い洞を覗かせている。しかも、その頭蓋骨の下には、走り書きの汚い文字で『いらっしゃいませ』と書かれてあった。


 お店……?


 シホは顔を引きつらせながら、辺りを見回した。


 薄暗い建物の中には、外以上に乱雑に物が置かれている。窓らしい窓もない室内は、何処かに灯されているであろう蝋燭のような、頼りなげに揺れる橙色の明かりだけが光源なので、その明かりの周りくらいしかはっきり見ることができない。そんな中で目を凝らすと、いくつかの品物には値札らしきものが付いていた。


(い、いったい何のお店なんでしょう……)


 店、というよりはお化け屋敷と言って差し支えない店内を見回し、さらに身を固くしたシホは、とにかくと、リディアの姿を探した。しかし、さして広くはないはずの建物内なのに、荷物が多すぎるのか、はたまたこの薄暗い室内のせいなのか、つい先ほど入っていったはずのリディアの姿が見つからなかった。


 引き摺るようにして怯える足を進めながら、荷物の隙間にリディアの姿を探したが、やはり見つからない。そうこうしている間に、建物の壁に突き当たってしまった。


「り、リディアさーん……」


 頼りない声が品物の狭間に吸い込まれて行く。シホの声のせいではないだろうが、明かりが小さく揺れ、影が大きく動いた。それでもリディアはおろか、この建物の持ち主さえ、姿を見せなかった。


「リディアさーん……どなたもいらっしゃらない……」


「お客さんかぇ!」


 シホは絶叫したつもりだったが、あまりのことに声すら出なかった。どこからともなく上がった、しわがれた女性の声に、文字通り飛び上がったシホは、とにかく手近な物陰に隠れようとしたが、脚が思うように動かなかった。驚き過ぎて、力が抜けてしまっていた。


「ああ、客だよ」


 その場にへたり込んでしまったシホのすぐ脇で、リディアの声がした。これまで聞いたことがないほど穏やかな声は、響きこそリディアのものに間違いなかったが、一瞬、別人のように聞こえ、シホは声のした方を仰ぎ見た。


「リディアかい!」


 がたん、がしゃん、と凄まじい音が、シホとリディアの正面で起こり、いくつも物品が飛び交って、やがて女性の声の主が顔を出した。


 老婆、といったら失礼かもしれない。五十歳くらいの、恰幅のいい女性である。黒髪よりも白髪の多くなった豊富な髪を太い三つ編みにしている。身体に比例して丸い顔は肌艶がよく、とてもこんな散らかった建物の主とは思えない清潔感があった。


 女性は物を蹴散らしながらリディアに駆け寄ると、その手を両の手で力いっぱい握った。


「ひさしぶりだねえ、元気だったかい!」


「あんたは相変わらずだな……」


 右腕をぶんぶん振り回されながら、苦笑顔で建物の中を見回すリディアに、女性は豪快に笑って見せた。健康そのものの白い大きな歯が口から覗く。


「まあ、細かいことは気にするんじゃあないよ! 奥なら片付いてるから、こっちにおいで」


 女性はそういって、シホとリディアを建物奥へと促す。


 建物の全面がこの惨状で、奥が片付いていることなど、ありえるのだろうか……


 半信半疑ながら、リディアが先に行ってしまうので、シホも慌ててその背に続いた。


「り、リディアさん、この方は……」


「魔女フィッフス。おれの命の恩人で、おれに剣を教えてくれた人の妻だ」


「ははは、わたしが魔女かい。わたしはただの研究者であって、そんな大層なもんじゃあないけどね」


 先を歩く大きな背中が、目の前にした扉に手をかけた。


「さあ、入っておくれ」


 フィッフスが扉を開くと、その奥は晴天の草原だった。


「えっ?」


「これはフィッフスの言う『研究』の成果の一つ、というところだ」


 そう話しながら、リディアは何の疑いもなく扉を潜って、草原へ踏み出していく。驚きを隠すことはできないシホは、恐る恐る草原への一歩目を踏み出した。


 靴底を通して感じる感触は、紛れもなく、踝ほどの下草の生えた、いま見ている草原を印象を裏切らないものだった。


 でも、とシホは思う。ここはマーレイの裏路地のはずだった。マーレイの近くにこんな草原はないはずであるし、仮にあったとしても裏路地から直結しているはずはない。


 それに、と思ってシホは空を見上げた。そう、空だ。ついさっきまでぼろぼろのがらくたに囲まれた建物の中にいたはずなのだ。なのにいま、シホは穏やかな蒼天を見上げることができる。確かにマーレイもよく晴れていたが、この空はどこか、それよりものどかな景色に見えた。白い雲が浮かび、日差しもマーレイの繁華街を歩いていた時より、なぜかさほど強くない気がする。


 これは、いったいどういうことなのだろう。


「ちょっと歪めることで、遠方の土地に繋がっているんだそうだ。おれにも詳しいことはわからない」


「歪める……?」


 いったい、何のことなのだろう。リディアのいう説明では、ほとんどわからない。ただ、あの扉が、どこか遠い場所に繋がっている、と言われたような気がして、シホは、まるで魔法みたいだな、と率直に思った。


 万能な力。


 距離や時間も超越することすらできたといわれる、旧王国時代の力。


 いまは失われて久しいはずの力。


 自分と、前天空神教最高司祭ラトーナが使うことのできた力。


「まさか……」


「わたしは研究者だからねえ。旧王国時代の遺跡や遺物を研究して、その力の一端を真似してこんなことができるだけさ。あなたのような先天的に力を持っている人間とは根本的に違いますよ、天空神教高司祭さま?」


 しわがれた声は優しい響きを持って、シホの背後から聞こえた。振り返ると扉を潜ってフィッフスと呼ばれた女性が草原に足を踏み入れたところだった。


「どうしてそれを……」


「お給仕の格好をしていても、わかる人にはわかりますよ。そうなんだろう、リディア」


 呼ばれて立ち止まり、リディアが振り返る。草原に緩やかな風が吹いて、振り返ったリディアの長い黒髪をそよがせた。


「ああ、まあ。それよりフィッフス……」


 曖昧に返事をしたリディアが何かを言いだそうとし、それをフィッフスが片手を上げて制した。


「まあまあ、久しぶりじゃあないか。そう急ぐこともないだろう?」


 フィッフスが持ち上げた片手の、太い人差し指を、何かを示すように指さす。シホがその指先を目で追うと、そこに大きな木があり、きらきらと木漏れ日が揺れる美しい木陰を作っていた。木陰の下には白く、天板の丸い大きな机が一つと、同じ色の椅子が三つ置いてあり、まるで今日、この時のために用意されていたかのようだった。


「お茶でもどうだい、久しぶりだろう?」


 フィッフスが笑う。その両手には、いつの間にか豊かな香りを漂わせる茶器一式が現れていた。

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