第13話 シャーリン・ティネット

 白い煙は、強い冷気と湿気を帯びていた。


 シホは、それが霧であるとすぐに気づいたが、同時に、なぜ突然霧がこの遺跡に立ち込め始めたのかという疑問も湧き上がった。


 これもまた、何かの魔法……いや、魔剣の……?


 見る間に視界が白く染まり、シホが最悪の想像に至った時、野太い獣の咆哮は響いた。


「リディアあああああ!」


 同時に、シホは何か、大きなものが突進してくる気配を感じた。どうにか見えるリディアの背に、シホが駆け寄ろうとしたその時、シホは白い闇の中から突如現れた太い腕が、リディアの首元を掴む姿を見た。


 次の瞬間、猛烈な勢いで白い闇の中から現れた腕の主は、黒い衣服に身を包み、赤い髪を靡かせていた。リディアの背と入れ替わりにその場に現れたのも刹那の間、そのままリディアを白い闇の向こうへ連れ去ってしまった。


「リディアさん!」


「さて、リディアさんはシャーリンさんにお任せして」


 突然現れた白い霧は、もう薄れつつあった。

月光の青白い光が戻り、ゆっくりと晴れていく霧の向こうで、アザミ・キョウスケが微笑んでいた。


「ぼくは、ぼくの仕事をしないと」


「させん!」


 その背後に現れたクラウスが、剣を一閃する。が、まるでそれがわかっていたかのように、キョウスケはその一閃を避けてみせた。


「ぼくの相手は神殿騎士長さんか……それはそれで辛いなあ」


 クラウスがキョウスケとシホの間に割って入り、剣を構え直した。その背にシホは、強い信頼を抱いたが、かけようとした感謝の言葉は飲み込んだ。


 それはある違和感に気づいたからだった。




 手は、喉を握りつぶさんばかりの力で、リディアの首を掴んだまま、押し付けるように移動していく。途轍もない膂力。だが、リディアはこんな力を知っていた。


 その力の持ち主を思い出したとき、唐突に首を抑えつけていた力が消えた。ふわり、と身体が浮き上がる感覚があり、突進の勢いそのまま、後方へ押し出されたのだ、と理解した瞬間、リディアは固い遺跡群の石壁に叩きつけられ、膝をついた。


「久しぶりだなあ、リディア」


 数度咳き込むと、どうにか身を起こしたリディアの前に、黒いぼろぼろの衣服を身に着けた、長身の男が立っていた。


 袖も裾も胸元の合わせも傷み、薄汚れた黒い衣服は『天空神教』の神父が身に着ける黒衣だ。長く赤い髪は元々もそういうくせなのか、燃える炎のように立ち上がり、左目に着けた眼帯と、着崩された神父服との奇妙な一体感を得ていた。


 やはり、こいつか。


 リディアは想像通りの姿がそこにあったことに安堵はしなかった。むしろ考え得る中でも、最も厄介な相手がその場にいることに歯噛みした。


「てめえと会ったのは確か、三年前の戦場だったな」


「……なぜ貴様が、ここに」


 赤毛の男は禍々しい笑みを作った。


「あの時言っただろう。必ず殺してやる、ってな。そのためなら、どんな時でも、どんな場所でも、現れてやるさ。おれを殺さなかったのを、後悔したか?」


 男は自分の左目に着けた眼帯に手を伸ばした。


「見ろよ」


 言ってずらした眼帯の下には、何もなかった。ただ暗い、洞のような穴があるだけだった。


 リディアは何も言わず、その空洞を見据えた。


「眼帯をしてないとな、ここを風が通るんだよ。その時に音がするんだ。てめえを殺せ、殺せ、ってな。音がそう言うんだよ!」


 男が語気を強めた瞬間、再び白い煙が


 冷気を帯びた白い煙……霧だった。


「てめえの左目が欲しい、欲しいって、そう言うんだよ、リディアあああ!」


「シャーリン・ティネット……」


 忘れたくとも忘れられない。人を捨てた化け物。殺戮欲と破壊欲のために生きる化け物。その欲求を満たすため、自身が神父を勤めていた教会の信徒を皆殺しにし、さらに血と断末魔の叫びを求めて傭兵になった化け物。あの三年前の戦場でも、若い味方兵士を殺して回り、それをリディアが止めた。魔剣と戦い続けてきたリディアでも、あれほどの惨劇を見たことはなかった。


「絶望の呻きがおれの力! 断末魔の叫びがおれの糧! リディア・クレイ!」


 シャーリンから溢れ出す霧が、急速にシャーリンへと戻っていく。そしてそれはシャーリンの右掌に集約すると、長く、大きく、分厚い、深い青の刃に姿を変えた。


「てめえもおれの糧となれ!」


 シャーリンは速かった。リディアが対応して剣を構える前に、声と共に突進して来たシャーリンの斬撃が、リディアを襲った。


 リディアは上体を逸らしてどうにかそれを避けたが、重心の揺らいだところを狙って、シャーリンはさらに攻め立てて来る。無理にでも反撃に転じようとしたが、シャーリンの剣の鋭さに、リディアはたまらず退いた。


 シャーリンは止まらなかった。一撃、一撃、必殺の力を持った重い斬撃を放ちながら、真っ直ぐに突き進んでくる。


 ちっ、と、思わず舌打ちした。反撃の機会を失い、退くしかない。防戦一方だ。


 シャーリンの剣がリディアの眼前を行き過ぎ、薄く白い帯を引く。


 あの剣は……


 どんっ、と背中に、固く冷たい感触がぶつかった。遺跡の崩れた石壁だった。もう後がない。


「どうした、リディア・クレイ! おれの左目が見ている貴様は、もっと速かったぞ!」


 叫びながら、息一つ切らすことなくシャーリンが迫る。シャーリンがとどめの一撃とばかりに、青い巨大な刃を上段に振り上げた。


 瞬間、リディアはその場に座り込んだ。そしてその体勢のまま、背にした壁を右足で蹴った。反動を利用し、急加速したリディアは、さながら這っているかのような低さで、上段からの一撃のために踏み出した、シャーリンの右足を狙って剣を振った。


 しかし、シャーリンは獣のような感覚と敏捷さで、その場を飛び退ってその剣を躱した。


 だが、リディアはその動きまで予想していた。


 一瞬、宙に浮いたシャーリンに、リディアは、今度は左足で地面を蹴りつけると、伸び上がるように紅い斬撃を見舞った。


 切っ先がシャーリンの頬を傷つけた。とっさの判断でシャーリンが首を捻ったことで、顔面を狙った一撃は避けられてしまった。


 互いに着地し、対峙する。


 シャーリンが頬に付いた傷から流れた血を、指先で拭ってニタリ、と笑う。


「これだよ、こうでないとなあ。これでこそリディア・クレイだ。獲物が抵抗するほど、自分の命が危機に追いやられるほど、そいつを殺った時の感動は、一入ってもんだ」


 狂気の笑みが深まる。心の底から楽しそうだ。


 リディアは剣を構えた。普段の、だらりと手を下げた姿勢ではない。しっかりと正面に剣を持ち上げ、両の手で保持した、中段の構えだ。


 元々、シャーリン・ティネットは強かった。だが、いま目の前にいるシャーリンは、その認識で収まりきらないほど、強い。いまの返し技を避けた反応。身のこなし。剣の速さ。突進の膂力。どれをとっても、三年前のシャーリンを凌駕している。一瞬の油断が、死につながる。そういう相手だとリディアは思った。


 それに、あの剣。


 突然、シャーリンがその剣を振った。


 青く、分厚く、長い、巨剣と呼ぶに相応しい両刃剣を振るうと、その瞬間、霧が周囲に立ち込めた。


「貴様、その剣は……」


「ああ、これはなっ!」


 シャーリンが剣を上段に振り上げ、その場でリディアに向かって振り下ろした。


 刹那、辺りの空気が急速に凍えた。ざらりとした殺意を感じたと思う間に、リディアの身体は考えるよりも早く動いていた。


 横に飛んだリディアの長い髪が帯を引く。その髪の先が、一瞬で凍り付いた。


 確認するまでもない。リディアのいた場所を含む、シャーリンが剣を振り下ろした直線状の地面や遺跡建物は、完全に凍り付いていた。


「やはり、魔剣か」


「その通り」


 ゆっくりと姿勢を戻し、リディアの方に向き直りながら、シャーリンが言う。物語でも語るような、どこか演技じみた調子だった。


「百魔剣『領主』の一振り、魔剣フェンリル。あの伝説の魔狼、フェンリルの骨から作られたという、究極の一振りだ」


 剣から放たれる冷気が、周囲の空気を一瞬で凍り付かせることにより、霧が生まれている。魔剣フェンリル。あれは冷気を自在に操る魔剣。


 どくん、と何かが脈打つ音が聞こえた。心臓の音ではない。その音は、自分の身体ではない部分の音だと、リディアは知っていた。


「貴様……そんなものを、どこで……」


「てめえにゃあ関係ねえ話だ。それに、おれにもどうでもいい」


 シャーリンの顔に、また狂気の笑顔が浮かび、ゆっくりと剣を上段に構え直した。


「てめえを殺れンならなあ!」


 振り下ろす。リディアは、今度は完璧に見た。青い巨剣から生まれた、渦を巻く吹雪が、剣が振り下ろされると同時に、一直線に突き進み、すべてを氷漬けにした。それをしっかりと見切ったリディアは、最小限の動きで、それも相手に近づく動きで、躱してみせた。


 吹雪が止まないうちに、リディアはもう一度地面を蹴った。大きい一撃の後の隙を突く。


 そのつもりだった。


 剣を振り下ろしたまま動かないシャーリンを見据え、跳躍する。が、一瞬、シャーリンの握った魔剣フェンリルの切っ先が、わずかに上下したように見えた。


 考える間はなかった。


 突然、リディアの足元が凍り付き、そこから巨大な氷の塊が打ち出された。それは前かがみになっていたリディアの腹部をまともに捉え、耐え難い衝撃でリディアの身体を弾き飛ばした。


 がはあ、と思わず声が出た。宙に浮き、受け身も取れずに地面に叩きつけられた。大量の血が喉の奥から込み上げ、盛大に吐き出される。それでもリディアはすぐさま立ち上がった。倒れていれば、命はない。耳にはあの狂気の笑い声が響いていた。


「そうだ、それでいい、簡単に死ぬンじゃあねえぞ!」


 剣から打ち出される吹雪と、足元から打ち上げられる氷の塊。狂ったような連続攻撃が始まった。一撃をまともに受けたリディアは、それを避けるので精一杯だった。周囲は次々に凍り付き、息さえも白く染まる。薄氷の張った地面には、リディアの紅い血が広がっていた。


 だが、絶対の優位にもかかわらず、シャーリンの攻撃がぱたりと止んだ。


「どうした! てめえはこんなモンじゃねえんだろ!」


 笑みは消え、怒りを露わにしたシャーリンが叫ぶ。


「てめえにはまだ底があるんだろう! そのままで勝てるとでも思ってンのか!」


 魔剣フェンリルを地面に叩きつけた。周囲の薄氷が割れ、広く隅々にまで地面がひび割れる。


「てめえのことは『連中』が調べたんだ。もう全部割れてんだよ」


 リディアに向き直ったシャーリンの顔は、正気とも狂気とも取れる表情だった。何かを渇望するように、リディアに向かって剣の握っていない左手を伸ばした。


「底があるなら見せてみろ! そして『統制者』の務めを全うするんだなあ!」


 びくっ、と全身が痙攣した。


「貴様……」


 それをどこで、とは訊かなかった。


 口の中で血の味が濃くなった。


「何を望んでいるんだ? 死か?」


「ああ、貴様の死をな!」


 相手を殺す。


 それだけに生き甲斐を見出す化け物。


 闘争本能の塊。


 シャーリンは止まらない。


 死ぬまで。


 リディアはまた、脈打つ音を聞いた。


 シャーリンが持つ剣が百魔剣である以上、リディアもまた、


 覚悟を、決めた。


「……いいだろう」


 リディアは剣を持った右手を真っ直ぐ真横に突き出し、だらり、と剣を下に向けた。


「但し」


 リディアは顔を俯ける。脈打つ音が早くなるのがわかる。何かが忍び寄り、這い上がり、背を伸ばすのがわかる。


「後悔するぞ」


 変化は、唐突に始まった。

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