第2話 神など、信じていない
朝日は、どんな夜明けでも変わらない。前夜がどれほど凄惨な、血の宴の夜であったとしても、その鮮烈さ、清潔さで、すべてを塗り替えるように、眩しい光を大地へと届ける。
天空神教の教義でも、朝日は再生の光とされる。どんなものも、その輝きの前に許され、癒され、次なる魂の階層へと歩を進めることができる。
そうでありますように、とシホは思った。シフォア神殿の、一般信徒のために開かれた礼拝堂の祭壇前。シホはわずかな従者と祈りを捧げていた。昨夜の犠牲者たちの魂が、正しく天空神の御許へとたどり着くことができるように。
身体は借り物のように重く、今朝は起き上がることさえ苦労した。百魔剣を手にした傭兵が、そのまま逃走した後のことは、よく覚えていない。いや、あの傭兵が自分の方に向かって来た時、その瞬間から、シホの記憶は曖昧になっていた。自分がどうやって助かったのか、どうやって神殿の自室へ運ばれたのか、それすら曖昧になっていた。百魔剣が傭兵によって盗み出されたことも、言われてどうにか記憶の片隅から呼び起こすことが出来ただけだった。
おそらく、魔法の力を極限まで引き出したのだろう、とシホは思った。
いつもそんなことが起こるのは、自分の限界以上に、魔法の力を使った時だった。百魔剣を握った傭兵に襲われ、魔法の力を使って撃退した。そういうことなのかもしれない、とシホは祈りの姿勢を解き、立ち上がって身を正しながら思った。腰に下げた短刀が、わずかな金属音を立てた。
「何者です、貴方は!」
その時だ。突然、礼拝堂に女の叫び声が響いた。入口付近にいた従者のものだ。昨夜のこともあり、反射的に視線を入口付近へ向けたシホは、従者の叫び声よりも強い衝撃を受けた。
そこに、黒い影が立っていた。
入口の形に朝日の輝きが差し込み、それを背にして立つ黒い人影の髪は長く、艶やかで、陽光を浴びて輝いていた。昨夜の、闇そのものといった印象とは遠く、女性にも見える端正な顔立ちも、今日はどこか、穏やかに見えた。
「祈りを」
「え?」
「祈らせてもらえないか、ここで」
「え、あ、いや、今日は……」
従者と黒い影のやり取りが聞こえ、シホはそちらに歩き出した。
「今日は一般の……」
「通してあげてください。その方はわたしの警護の方です」
若い従者は振り返り、驚いた顔を見せた。首を垂れ、彼女が身を引くと、シホは黒い人影と真正面で見つめ合った。
「どうぞ、昨晩犠牲になられた方々のために、祈りを捧げてください。リディアさん」
リディア・クレイは何も言わず、シホの横を通り、祭壇の前まで歩いて行ってしまった。シホは少し遅れて、その背中にしたがった。
一段高くなった祭壇の間近までは上がらず、その手前で立ち止まったリディアは、跪いて祈りを捧げた。その動作に違和感はなく、天空神教の作法通りの祈りだったことに、シホは驚いた。傭兵でも、天空神教の信徒である人間は少なくはない。リディアもそうしたひとりなのかもしれない、とシホがどこか気を緩めていると、リディアが立ち上がり、振り返った。
「昨夜の戦いで、犠牲になられたお仲間の方のため、ですか? 昨夜は……」
「いや」
頭一つ高い位置にあるリディアの目がシホを見た。先ほど感じた穏やかな印象はそこになく、ひどく冷たい双眸がシホを睨んだ。
「習慣だ」
「あなたは天空神教の信徒なのですか?」
習慣、という意外な言葉に、閉口しかけたシホは、それでも思いつくまま言葉を重ねた。まるで向きになっているかのような自分に、シホ自身が驚いたが、シホはこの傭兵と話がしたいと思っていた。
女性のような容姿に女性のような名前。一見すると女性と見紛う線と、長い丈の外套。『死神』と呼ばれる所以となった事件、その真相。なぜこの魔剣輸送の護衛についたのか。シホがこの傭兵と話したいと思うことは、数え上げればきりがないほど、いつの間にかできていた。しかし、その中でも最もシホは、どうしても訊かねばならない、訊いてみたい、と思っていることがあった。
昨夜の戦いで、超人的な力を見せた、『紅い死神』の二つ名を持つ傭兵。
シホは、その傭兵の口から漏れた、たった一つの言葉。
貴様はおれが封じる。
封じる。
曖昧な記憶の中に、強烈に焼き付いている言葉。封じる。この傭兵は、確かにそう言ったのだ。
百魔剣の力を封じ、王都大聖堂の地下へ魔剣を封印する。それはこれまで『奇跡の人』ラトーナ・ミゲルが行ってきたことであり、これからシホが、長い年月をかけて続けていく『暗闘』であるはずだった。
しかし、リディア・クレイは確かに言ったのだ。魔剣と同等か、それ以上の戦いを見せつけた上で。確かに、封じる、と。
それがどんな意味を持つのか。シホは知りたかった。自分だけがこの過酷な運命と向き合っていると思っていた。しかし、もしかしたら、そんなことはあり得ないとしても、もしかしたら、自分以外にも、魔剣と戦っている人がいるのかもしれない。そう考えたのだ。
「いや」
シホの熱に浮かされたような、半ば怒っているかのような声にも動じず、冷たい目には何ら感情も浮かべず、視線を外したリディアは、ため息を吐くように言った。
「神など、信じていない」
「では、なぜ……」
「言っただろう。習慣だ。シホ・リリシア」
リディアはそのまま歩き出し、シホに背を見せ立ち去っていく。高司祭様になんて無礼な、と年増の従者が声を上げる中、リディアは悠然と歩いていく。シホは、その背中を見つめるしかなかった。
神など、信じていない。
そう言ったリディア・クレイの声音に、はっきりとした感情があったからだ。
あれは、強い怒りだった。
むきになって、どうにかしてでも彼が、なぜ魔剣のことを知っていたのか、なぜ封じる、と口にしたのかを話したい、と思っていたシホの想いを、半ばから断つほどの、それは強い怒りだった。
一体、彼に何があったのか。
「シホ様、こちらにいらっしゃいましたか」
リディアの背中を見送っていると、その向こうに別の人影が現れた。鎧を着こんだ長身の影は、すぐにクラウスのものとわかった。
「捕らえた傭兵が目を覚ましました。これから魔剣の逃亡先を訊き出そうと思います。……リディア・クレイ殿、貴方にも同道願いたい」
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