第15話 この男、本当に人間なのか?
「クラウスさん!」
裏門を目の前にして、その向こうから聞こえた悲鳴は、野太い男のものだった。クラウスの後ろに駆け寄り、息を切らせるシホにも、その異様な絶叫は聞こえたはずだ。クラウスに呼びかける声は、明らかに怯えの色を含んでいた。
いったい何が。
クラウスさえも一瞬躊躇した。それほどの悲鳴……恐らく、断末魔だ。しかし、ここでのためらいは、魔剣を盗み出した賊たちの逃亡を、より確実なものにしてしまう。クラウスはすぐさま門に向き直り、その扉を開いた。
「おい、ローグ!」
門をくぐり、正面に視線を向けるまでのわずかな間に、再び悲鳴と、アシャンの動転した叫び声がクラウスの耳を打った。
裏門の向こうには、シフォアの街の、きれいに敷き詰められた石畳の路地が続いている。二階建ての家々が両脇に立ち並ぶが、余裕をもって作られた道幅は広く、大人五人が並んで歩くことのできるほどの広さがあった。両脇の家屋に商店はなく、すべてが寝静まった住宅で、灯りに乏しい。この騒ぎを恐れて、戸を閉め切っているのかも知れない。
宵闇にほとんど塗りつぶされ、それでも薄青く通りが見渡せるのは、空に浮かぶ大きな月の明かりのせいだと、クラウスは初めて気づいた。門から延びる路地、その延長上の空に、大きな丸い月が、煌々と光り輝いていた。
「くっそ、なんでてめえが!」
ローグの声が路地に反響し、次の瞬間、それは人間の身体から出たとも思えない、悲鳴に変わった。
「ローグ!」
アシャンが半狂乱の声を上げる。クラウスも声こそ上げなかったものの、一瞬、息を呑んだ。
月の明かりを背に立つ、黒い影。黒い衣服を身にまとった、長い黒髪の人間。男か女か、性別がわからないほど線は細く、闇に沈んだ顔はあの優男のものか、判断がつかなかった。しかし、それでも、クラウスにはわかった。いや、こんな姿をした人間を、クラウスは一人しか知らなかった。
その足元に、あの小男が蹲っていた。撫でつけた髪は乱れ、うめき声を上げながら、右の腕で左腕を抑えていた。その左腕は、肘から先がない。先ほど、アシャンに『死神の剣だ』と見せびらかしていた、その剣を握ったローグの左腕は、蹲る小男から少し離れた場所に落ちていた。
その周囲には先ほど、魔剣アンヴィを納めていたと思われる黒い箱を運んでいた、四人の男たちが箱と一緒に倒れ、その身体から流れ出た大量の血が、石畳を汚していた。はっきりとはわからなかったが、皆斬られたような傷があり、幾人かはローグと同じく、身体の一部を胴体と切り離された様子で倒れていた。
斬られたのだ、とクラウスは直感的に理解したが、すぐさまそれは疑問へと変わった。黒い影を見たからだ。黒い影は、なんら武器を持っていなかった。いったい、この男たちは、何に斬られたのだ?
「てめえは、死んだはずだろうが!」
丸まったローグの背中から、いがらっぽい声が響き、次の瞬間、ローグがその場で回転し、黒い影に足払いの蹴撃を見舞った。と、同時に、ローグは素早くその場から飛び退る。
ローグの足払いを回避したのか否か、黒い人影はそよとも動かず、ただ静かに右腕を上げた。
人影の伸ばした右腕に沿って、奇妙な現象が起こった。石畳に広がった男たちの血が、まるで帯のような形になって中空に浮き上がり、それが黒い影とローグの切断された左腕を繋いだ。そのまま血の帯に巻き取られるように、ローグの腕は剣を持ったまま、黒い人影の、右手の中に納まった。
黒い影は左手で柄に手をかけると、ローグの手が握ったままの鞘から、ゆっくりと、刃を抜き放った。
月明かりに、赤黒い刀身が煌いた。
「し、死神……」
アシャンが後退る。背後にいるクラウスの存在など忘れてしまったかのように、下がり、クラウスと横並びになって、歯の根の合わないほど震えた顎から、うわ言のように何度も、その言葉を繰り返していた。
『紅い死神』
それはローグとアシャンが話していた言葉だった。リディア・クレイと呼ばれる、この優男の二つ名で、クラウスが調べた限り、それは二百近い人間を、たった一人で斬り捨てた、この男の返り血を浴びた姿から、そう呼ばれるようになった。そのはずだった。
しかし、いま、目の前にいる死神の姿は、確かに『紅い』と表現するに相応しかった。まったく返り血を浴びていないにも関わらず、彼の剣は血を塗ったように赤黒く、そして他のどんな剣よりも妖艶とすら言える輝きを放っているのだ。
この男、本当に人間なのか?
初めてリディア・クレイの戦う姿を見たクラウスは、その圧倒的な強さを前に、そう感じた。
そしていま、クラウスは同じことを感じていた。
血を操作したような仕草で剣を引き寄せたあの不可思議な現象。手には得物を持っていないにも関わらず、斬られた傭兵たち。それらすべてを行ったリディア・クレイ。『紅い死神』
この男、本当に人間なのか?
「化け物が……!」
ローグの地を這うような低く、暗い声に、クラウスはリディアに釘付けになっていた視線を向けた。死神の前から逃れたローグは膝をつき、失った左腕から大量に流れ落ちる血も構わず、残った右の手で、彼のすぐ脇にある黒い長方形の箱に手をかけた。
魔剣アンヴィの納められた箱。
「だがな!」
クラウスが制止の声を叫ぶ前に、黒い箱は開かれた。
その瞬間だった。
黒い箱の中から強烈な紫色の光が溢れ、それは生き物の触手のように、うねる光となって、その場にいた全ての人間を、次々と貫いていった。
真正面から、稲妻のように胸を貫いた光を、クラウスは見た。痛みはなく、痺れる感覚もない、ただ、身体が透き通るような、得体の知れない感覚がクラウスの身体を支配した。
そして、声が聞こえた。
頭に響く、脳裏に絡みつくような、気持ちの悪い笑い声。
(欲、欲、欲…… てめえらの中にあるのは薄汚い欲望だけ。欲を詰めた肉袋。それが人間様だ)
野蛮な話し方。
無法者のそれ。
だがなぜかはわからない。クラウスは聞こえてくる声に、奇妙な説得力があると感じた。
(認めろ、そして諦めろ。なぜ縛られる。貪欲で狡猾。それがてめえら人間様の本当の姿。この世で最も醜い生き物。そうだろう?)
不思議な感覚だった。否定する言葉がまったく思い浮かばなかった。代わりのように思い浮かんだのは、遠くから見た、自分の父親だという、着飾った男の姿だった。なぜいま、あの男の姿が現れる? 微かな苛立ちが、クラウスの胸を頭の中に蟠った。
(さあ、化けの皮で覆い隠した、そのどろどろの欲望を……曝け出せ!)
光が、弾けた。
凄まじい閃光が一瞬、あたりを淡い紫の輝きに染め、閃光の残す白い闇が周囲を包んだ。
クラウスはその光の中に、自分の父親ではない、誰かの姿を見たような気がしたが、それが誰の姿だったのかまではわからなかった。
光が、小さくなって行く。
絡みつく声は消え、意識が徐々に覚醒して行く。
なるに任せていたクラウスの意識を、完璧に引き戻したのは、突然響いた剣戟の音だった。
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