第11話 紅い剣
「おいおいおい、なんだよ、ありゃあ……!」
背中越しに聞こえたローグの声は震えていた。酒のせいではないだろう。当然だ、とリディアは思った。自分もそうだった。『あれ』と初めて対峙した時。動く死体は間違いなくこの世のものではないし、なぜあんなものがいるのか、自分は何を見ているのか、これは本当に現実なのか、そう疑い、全身を震わせ、恐怖に慄いた記憶は、そう遠いものではない。
酒場を出てすぐの路地から、大通りに向かう道筋に、それはいた。奇妙に傾いた腰と、力なく下がった腕は、全体の影を実物より長く見せる。まるで自分の上半身を引き摺っているかのように歩く異形は、人の形をしているが、もはや人とはかけ離れているように見えた。そこここの店から漏れる明かりに照らされ見えるのは、土色に変色した肌。澱んだ目の色。それは、完全に、死体だった。
「死体……だよな、死体が歩いてるぞ、おい、『死神』ありゃあ……」
背後で動転しているローグを捨て置き、リディアは走り出した。こいつらがどう動くのかは知っている。動き出す前に片づけておいた方がいい。腰に佩いた剣の重さを確かめた。
駆け出したリディアを、死体も認めたようだった。唸り声ともため息ともつかない、喉が震えたような音が街路に反響した。動くか。リディアは踏み出す足の力を強めた。
およそ二十歩はあった距離を、ほんの数歩で無にしたリディアは、その最後の一歩と同時に、腰の剣を抜き放った。
必殺の速度で振るわれた剣だったが、手応えはなく、機を逸した、という理解が、すぐにリディアの頭の中で閃いた。リディアはその場に留まる愚は侵さず、すぐさま飛び退った。
一瞬前までリディアの立っていた場所で、轟音が響いたのは刹那の後だ。わずかでも反応が遅れていれば、轟音の発生源に巻き込まれていた。やはりそうか、という感想がリディアの中に広がる。
「おい、おい、『死神』! 何をやってるんだ、おい!」
駆け出した位置まで、ふわりと飛び退ったリディアの背後で、ローグの声は半狂乱に達していた。そうだろう。おそらく、いまのリディアと死体の交錯は、何が起こったのか、ローグには見えていない。いや、傭兵としての腕がそれなりにあるとすれば、わずかに、何をしたか、までは見えたかもしれない。リディアの速さと、死体の常識では考えられれない動きが、その目に見えたからこそ、理解しがたいものを目にしたからこその半狂乱、ということもある。
「おい、ありゃあ……」
「あれは魔剣の魔力に当てられて、動き始めた死体だ。身体の限界を超えた動きが可能になる」
リディアはローグに言って聞かせるため、というよりは、自分のこれまでの経験を、自分で理解するためにつぶやいた。右手に握った剣の切っ先を上げ、轟音と共に発生した、もうもうと立ち上がる土煙を指し示した。
「おれの一刀を避けて飛び上がり、壁を蹴った反動で体当たりをしてきたんだ。普通の人間なら地面に叩きつけられて死ぬが、そもそもあれは死んでいるからな」
また喉の振動のような音がした。そうだ。この叫びだ。あの時もそうだった。あの時、怯え、震えるしかなかった自分に、あの時の死体も喉を震わせたのだ。笑うとも、叫ぶともつかない、声とも呼ぶことのできない耳障りな音を聞かせたのだ。
「ほんとかよ…… 本当にありゃ死体なのかよ……」
ゆっくりと晴れた土煙の向こうに、死体は先ほどよりも身体を傾けた姿で立っていた。骨折したのだろう。腕があらぬ方向に曲がっている。
「あいつらに痛みはない。自分の肉体が壊れることも恐れず、身体の力を限界まで使って攻撃してくる。生前、抑えつけられていた破壊的欲求を糧に動く、怪物だ」
「『死神』……あんた、なんでそんなに……」
そんなに詳しいんだ。ローグは先を続けなかったが、言いたいことはわかった。そうだろう。ローグのように、初めてこの状況に遭遇した人間からすれば、当然だ。なぜあんな怪物について知っているのか、問いたくなるところだろう。少し話過ぎた。
剣戟が、街のそこかしこから聞こえてきていた。どうやら敵は、この一体だけではないらしい。先ほど自分たちを呼びに来た騎士も、酒場にいたほかの傭兵たちも、もう路地にその姿は見当たらなかった。さすがは『領主』の一振りといったところか。魔力に相当した影響力の大きさだ。
「その剣が……うわさに聞く……」
ローグの声が変わっていた。不自然なところで言葉が切れたのは、おそらくリディアの握っている剣を見たからだろう。背後にいる彼の視線はわからなかったが、おそらくいま、彼はこの剣を見ている。この紅い剣を。
「大丈夫だ」
リディアは剣を胸元まで引き上げ、掲げた。刀身がまるで血のように紅い、奇妙な剣だ。
「この剣ならば、斬れる」
そう。あの死体たちの動きを、この剣ならば断てる。通常の武器では、痛みも崩壊も気にせず、再び起き上がってくる死体だが、この剣ならば、この紅い剣ならば斬り伏せることができる。
「……じゃあ、それも頂いておくとするか」
それまで存在しなかった、猛烈な殺気が、リディアの背後に立ち上がったのは、それまで聞いたことのない声が耳朶を打った直後だった。
なに、とリディアが思った時には遅かった。
異物が身体に侵入する、壮絶な違和感と衝撃が、リディアの脇腹を襲った。
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