第6話 幼い決意

 馬車の揺れに、シホは、ひい、と小さく声を漏らしてしまった。石でも踏んだのだろうか。客車内は広くはないが、車輪が大きな音を立ててくれたおかげで、対面に座るクラウスには声が届かなかったようだ。


 報告、として伝えられた、三日前の神殿騎士宿舎での一件。その後、クラウスが介入し、傭兵は三々五々、それぞれの宿舎に戻っていき、騒動は収まったとのことだったが、負傷した傭兵の治療や、騒動の原因となった傭兵に対する聴取など、すべてクラウスが奔走した様子だった。シホも出立の準備をしていたこの三日間に、クラウスがシホの前に姿を現さなかったのは、珍しいことだと思っていたが、まさかそんなことになっていたとは。


 そして何より、『死神』である。


 クラウスの報告を聞いているだけで、シホはその身が震え上がるほどの恐怖を感じた。もちろん、力があること、腕が立つこと、強さとは、傭兵たちにとって最も重要なことはわかっている。しかし、クラウスが目の当たりにしたという戦闘は、あまりにもシホの常識の範疇を超えていて、そんな人間がこの百魔剣捕縛の一団にいるということ自体が、百魔剣とこれから相対すること以前に、別種の恐怖となっていた。


 懸念、という言葉を使ったが、それはクラウスも同じようだった。


「少し『死神』のことを調べました」


 クラウスは膝の上に置いていた紙の束を捲った。


「リディア・クレイ。数年前から北方の小諸国間で度々起きている領有権争いの武力衝突は、昨今、間断なく続く戦争へと発展していますが、彼はこの地域で主に傭兵として活動していたようです」


 その地域の戦場では、彼にまつわる逸話がいくつも残されているという。


 中でも強烈なものが、リグ山岳砦での戦いに関するものだった。


 その砦は、陥落目前だったという。陣営の撤退が始まったことも確認され、攻城側勢力は最後の一押しと、一個中隊を攻め込ませた。しかし、一向に陥落の知らせは入らず、勝ち名乗りの声も上がらなかった。不審に思ったものの、砦側勢力の主力の撤退が確認されたため、攻城側指揮官は、自ら兵を率いて静まり返る砦に足を踏み入れたのだという。


 そこで指揮官が見たものは、二百に迫る惨殺死体と、その只中に立つ、黒い人影だった。


 丈の長い、黒い衣服を身に着けた、背の中ほどまである黒い髪を持つ、黒い人影の手に握られていたのは、柄から切っ先まで、赤黒く血に染まった剣だった。


「この話が広く知られるようになり、彼は『血のリディア』『紅い死神』などと呼ばれるようになったそうです。正直なところ、作り話の類だとは思いますが……」


 クラウスは続けていたが、シホは先の言葉をほとんど聞くことができていなかった。自分の顔が青ざめているのが見ていなくてもわかる。作り話にせよ、それだけの話が作られるだけの何かが、そのリディア・クレイなる人物にはあったのだ、と考えると、シホには恐ろしくてならなかった。


 他方、それだけの実力者がこの一団に戦力として加入している、と考える頭もあったが、シホの中では『死神』なる人物に対する恐怖のほうが勝っていた。


 シホは大きく震える息を吐くと、車窓の景色に目をやった。窓外には地平線まで続く広々とした穀倉地帯があり、立ち働く農夫の姿があちらこちらに見えた。濃緑の季節を過ぎ、実りの季節へ向かういま、小麦の穂は大きく背を伸ばし、風にそよいでいる。


 シホを乗せた馬車の他、五台の車列は穀倉地帯を抜ける一本道を北へと走っていた。シホは行き先へ視線を向けた。小麦の波の向こうに、黒く、帯のように横たわる森が見え、その背後に、蒼天に抱かれた高い山の峰が見えた。神聖王国カレリアの北の大屋根と言われるシフォア山脈と、その麓に広がるシフォア大森林である。


 発端は、この森林の入り口にあるシフォアの街の天空神教神殿からの知らせだった。


 大森林にある旧王国時代の遺跡で、百魔剣らしきものが見つかった、というのだ。


 前最高司祭ラトーナ・ミゲルが生前、密かに構築していた百魔剣探索の連絡網から寄せられた確かな情報で、既に犠牲者が出ているとの報もあった。


 ラトーナから託された戦いの、初めの一歩が踏み出された瞬間だった。


 ラトーナが傍にいた一年、そしてラトーナが去った後の一年、シホはそのための準備をしてきた。王都大聖堂の地下に作られた『百魔剣神殿』への魔剣封印方法と、対魔剣対策の戦闘方法。ラトーナから実際に手ほどきを受けることもできたが、その時間は決して長いものではなかった。それでもラトーナは、まるで命の炎を燃やし尽くすように、シホに自分が体験したすべてを伝えてくれた。


 百魔剣との戦いがどんなものなのか、実際にはラトーナの言葉から想像するほかない。そしてその想像だけで、シホには恐ろしくたまらなかった。それでもラトーナから伝えられた想いを、願いを、投げ出そうと思わなかったのは、ラトーナの姿を間近で見続けた一年があったからだ。


 誰からも知られることなく、それでも世界にとって、いまの人々にとって過ぎた力である『人の作り出した罪』を封じ、災厄の訪れを防ぎ続けたひとりの老女。誰よりも過酷な、『世界』という重みを背負いながら、優しく微笑むその姿が、いつでもシホの脳裏にある。


 様々な恐怖はある。自分は怯えているという自覚もある。それでもシホは自らの役目を果たそうと決めていた。ラトーナのように『世界』を背負っているという覚悟はまだない。だがそれでもラトーナの残した想いのため、自分の身の回りの人たちのため、シホは戦うことを決めていた。


『百魔剣』でも『死神』でも、向き合ってみせる。


 シホは密かに、膝の上に置いた短刀を握りしめた。

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