第5話 死神
それは、およそ戦う姿とは思えなかった。
だらりと下した右の手に、木剣を握った人影が、一歩、人垣の中に歩み出た。まるで子どもの遊びのような、およそこれから、手にした得物で、剣術という暴力を振るうとは思えない、あまりにも無造作な姿。しかしクラウスは、その姿に奇妙な緊張感を覚えた。それが何かはすぐにはわからなかった。
先に動いたのは大男だった。一足飛びで人影との間合いを詰めると、上段に振り上げた木剣を、長身を生かした渾身の一撃として繰り出した。
速い。
その太刀筋は、クラウスがこれまで目にしてきた中でも速いものだった。
先ほど、別の傭兵に勝った決闘にしてもだが、この大柄の傭兵は、その動きを見るだけで、かなりの手練れと知れた。剣速、鍔迫り合いから相手を押しのける腕力、咄嗟の判断で当身を浴びせる体捌き。その全てが戦い慣れている人間のもので、神殿騎士として様々な戦闘訓練を積んできたクラウスにも、その強さは理解できた。高慢に、居丈高に、周囲に叫び散らすだけの自信と、それに見合った力を持った男であることは、大男の戦い方からクラウスにもわかった。
対して、黒い人影は動かなかった。
いや、クラウスには動いていないように見えた。
しかし、大男の木剣は空を切った。返し刃で息つく間もなく繰り出された、振り上げる一撃も空を切ったが、それでもクラウスには人影が動いたようには見えなかった。
いや、とクラウスは人影の足元を見て気づいた。
大男が木剣を引き、今度は鋭い突きを繰り出す。その瞬間、人影の足はほんのわずかに動いていた。まるで舞踏のように優雅で、最小の足捌きで大男の突きを避けた人影は、踏み込む次の一歩で大男の懐に飛び込んだ。
クラウスには、人影が何をしたのか、すべては見えなかった。
人影の、背中まである長い黒髪が帯を引き、何かが大男の木剣を握った腕にまとわりついたようだったが、それも刹那の間だった。大男の腕が跳ね上がったと思った時には、大男は膝をついていた。その傍らに黒い人影が立ち、握った木剣の刃は大男の首筋に当てられていた。
大男がうめき声を上げて、木剣を地面に取り落とした。逆の手を、木剣を握っていた腕に添えた仕草で、一瞬の交錯の間に、人影が木剣で男の腕を打ったのだと悟ったが、いったいどんな打ち方をしたのか、丸太のように太い腕は完全に動かなくなっているように見えた。
クラウスは息を呑んだ。圧倒的だった。クラウスの見立て上、相当の手練れだったはずの大男は、一瞬の交錯で戦闘能力を完全に奪われていた。これほどの戦いを、クラウスは見たことがなかった。およそ誰かに師事して会得したようには思えない、構えともつかない仕草から始まった黒い人影の剣劇が、クラウスには恐ろしいものに思えた。
それで気がついた。
クラウスが人影を見たときに感じた奇妙な緊張感。
それが何だったのか。
それは、恐怖だった。
人影が放つ、異様な気配から感じ取られる、恐怖。
それが緊張感をクラウスに与えていたのだ。
「すげえな、やっぱり」
「当然だろう。あれが『紅い死神』」
クラウスの背後で、またアシャンとローグ、二人の傭兵が話す声が聞こえた。『紅い死神』とは、あの黒い人影の事だろうか。しかし、『紅い』とはどういうことだ。
「リディア・クレイだよ」
ローグが人影の名を口にした。
リディア・クレイ。
クラウスはその名を、声にはせずに反芻してみた。女性のような名前だが、女性なのだろうか。あの線の細さからして、あり得るような気がした。しかし、腕力自慢の大男を一瞬で動けぬものにしてしまった手練れと、女性という印象はどうしても重ならなかった。
リディアが、男の首筋に置いた木剣を、そっと離した。木剣とはいえ、動けば切る、と伝えた仕草は、二人の勝敗をはっきりと伝えていた。そして何より、地面にうずくまる大男の姿が、二人の勝敗をはっきりと周囲に伝えていた。
リディアが大男に背を向け、振り返った。
その目と、クラウスの目が合った。相手もクラウスを認めたようだった。
端正な顔立ちの男。艶のある長い髪が女性的な印象を与えるが、その倦んだような冷たい眼差しは、男性のものに違いなかった。おそらく自分よりも年齢は下だろう。無意識のうちにシホの瞳を思い出したが、しかし、あのような年齢相応の輝きはリディアの瞳にはなかった。全てを飲み込むような、髪と同じ色の瞳はそよとも動かず、ただじっと、クラウスを見返していた。
『紅い死神』リディア・クレイ。
クラウスがいま一度、彼の名を反芻した瞬間だった。
大きな唸り声が中庭に木霊し、周囲を取り囲んでいた傭兵たちのざわめきが、ぴたりと止まった。
クラウスは見た。
リディアの背後に、うずくまっていた大男が立ち上がった。だらりと力なく垂れ下がった腕はそのまま、敗北の怒りと、うめくほどの痛みに任せて、残った腕を振り上げ、背を向けたリディアに襲い掛かった。
そしてクラウスはさらに見た。
リディアに、木剣よりも太い腕が伸び、徒手空拳という鈍器と化した拳が、その頭を打ち砕く、その一瞬前。
リディアの倦んだ瞳が見開かれ、身体は流れるような動きでその腕をかい潜った。鋭い横薙ぎの一線は、あの細身のどこにそんな力があったのか、木剣を折るほどの力で大男の腹を打ち、木剣と、それ以外の何かが折れる、ぼきりという鈍い音を、中庭を包んだ一瞬の静寂の中に響かせた。さらにリディアは折れたままの木剣の返し刃で、くの字に曲がって前に倒れかけた大男の顔面を叩きつけた。
大男の身体は、傭兵の人垣に飛び込み、そこにいた数人を巻き込み、それでも止まらず、中庭の砂地の上を転がって、ようやくうつ伏せに倒れて止まった。
ぞくり、とした恐怖が、再びクラウスの背中を走った。
素朴で、しかし、あまりにも突拍子もない疑問が、クラウスの頭の中に浮かんでいた。
『紅い死神』リディア・クレイ。
この男、本当に人間なのか?
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