第3話 暗闘
クラウスがラトーナの『暗闘』について知ったのは二年前。シホと出会う前日のことだった。
魔法の力を用い、大陸各地の人々を、老若男女、身分の貴賤を問わず、癒し続けてきた『奇跡の人』ラトーナ・ミゲル。その彼女の口から、自らに備わった癒し以外の力と、その力を使い、人生のほぼすべてをかけて続けられてきた『暗闘』について、クラウスは聞かされたのだ。
それは、目の前にいる本人の口から語られているにもかかわらず、まるで真実味のない話だった。
「百魔剣物語。古い言い伝えです。クラウス、知っていますか?」
「……概要は」
かつて存在したという大陸統一王国。その王国が残した魔法の力を宿した百振りの剣にまつわる伝説。そんな話があることは、当時のクラウスも知っていた。ただ、あくまでも伝説としてだ。子供が寝物語に聞かされる程度の、作られた話だと、クラウスは思っていた。それは大陸に暮らす大半の人間と同じだった。
巨大な天蓋付きの寝台上、細く萎れた手を、傍に立つクラウスに伸ばし、その手に触れると、ラトーナは皺だらけの顔に笑みを刻んで小さくうなずいた。クラウスの好きな、聖女の微笑みだった。我が子を愛でる母のような笑みだと想像していた。クラウスの知らない温かさがそこにはあり、だからこそクラウスは、この老いた聖女の傍に、常にありたいと思っていた。
「あの剣たちが、目覚めはじめています。特に力の強い者たち……『領主』たちが」
ラトーナによると、百の魔剣には階級が存在し、五十九の兵士と三十の騎士、そして十の領主と、統一王国の王がその手に握った、ひと振りの剣があったのだという。
「他の剣たちは、いまも人知れず不思議な力を振るい、時に詩人の叙事詩になることがありました。しかし、一の『王』と十の『領主』そして一部の『騎士』は別です。理由はわかりませんが、何らかの封印を施された剣たちは、これまで眠りについていたのです」
「それが、目覚めると……?」
「ええ、だからこそ、わたしはその力を封じるための力を授かったのです。そして彼らと戦い、封じてきた」
戦い。
聖女ラトーナに最も似つかわしくない言葉だった。クラウスの前で微笑む老女の優しい瞳は普段と変わらず、それゆえさらに彼女の言葉だけが上滑りして、真実味がまるでなかった。
「目覚めるとどうなるのか、という顔をしていますね、クラウス」
本当は、それ以外にも考えていた。戦いとは何なのか。封じるとは何なのか。本当にラトーナが何らかの形で、比喩としての意味ではなく、命の取り合いとしての戦闘に身を投じてきたのか。与えられた情報は多く、予備知識は少なく、いったい何をどう聞けばいいのか、いや、何をどう信じればいいのかを、クラウスは考えていた。
「端的に言えば、力ある魔剣の目覚めは、この大陸に滅びをもたらします。あれは、過ぎた力なのです」
そこでクラウスから手を放したラトーナは、胸の前で自身の両手を組み合わせ、目を閉じ、祈る仕草を取った。
「罪も痛みも、本来、創造神によって与えられるもの。だからわたしたちは乗り越えられるのです。神はわたしたちを滅ぼそうとはお考えになりません。しかし、あれは、神の罪でも痛みでもない。人の手が作り出した罪であり、痛みなのです。いまのわたしたちには、強すぎる」
人の手が作り出した罪。
百の魔剣が、本当に魔法の力を宿しているのだとすれば、わかる話だとクラウスは思った。
いま、この大陸に魔法を扱える人間はラトーナ以外にはいない。その現在の人間たちが強すぎる力を使おうとすればどうなるか。ラトーナの言う通り、大陸が滅ぶかどうかまでは想像できなかったが、災厄になるであろうことまではクラウスも想像できた。
「かつて存在した統一王国は、万能の力、魔法の力を膨大に使い、そしてその暴走によって滅んだそうです。それを確かめる術はありませんが、魔剣に残された力は、統一王国時代のもの。いま、この大陸に生きるわたしたちには、強すぎるのです」
ラトーナはそこで祈りを解き、もう一度クラウスを見た。
「これまでわたしが封じてきた剣たちよりも、強い力を持った剣はまだあります。特に、わたしは『領主』たちとはついに戦うことはなかった。クラウス」
近くに呼ばれている。そういう名の呼び方だと気づいたクラウスは、寝台に乗り上げるようにして、上半身をラトーナに近づけた。
「明日、少女がここへ来ます。彼女とあなたには、辛いことを頼むことになる。どうか、彼女を助け、彼女と共にこの大陸を、この大陸に生きる人々を、密かに守る戦いに、力を尽くして欲しいのです。クラウス」
ラトーナがクラウスの頭に手を置いた。
温かい手だと、クラウスは思った。
そしてその翌日、クラウスはシホと出会った。
ラトーナの部屋で見た彼女の印象は、どこにでもいるような、いや、それよりももっと貧しい生活を迫られている、薄汚れた娘だった。この娘が、ラトーナの後継者だとは、到底信じられなかった。
それから二年が過ぎた。
昨年、ラトーナは天空神の身元へと旅立った。
クラウスとシホ、二人に看取られながら、静かに息を引き取ったラトーナは、最後まで笑顔だった。しかし、彼女の『暗闘』を知ったクラウスには、その笑顔の下で苦悩し、その身を命の危険にさらし、死の間際まで大陸に生きる人々の未来を案じていた彼女の心根が透けて見え、泣いてはならぬと思いながら、止めどなく溢れる涙をこらえきれず、嗚咽さえ漏らしながら泣いた。
母のような人だった。
クラウスには想像しかできない、母のような人だった。
と、不意に大きな揺れが、クラウスの身体を揺さぶった。目を閉じ、過ぎ去りし始まりの日を思い出していたクラウスは、到着を理解し、そっと目を開いた。
二人が向かい合って座るのが限界の、小さな空間が視界に広がり、次いで開かれた側面の扉から、眩しい陽光が差し込んだ。クラウスはすぐさま立ち上がると、扉から小さな空間……馬車の客車の外へと出た。
石造りの館が目の前にあった。陽光を背にしてそびえる影は大きく、しかし大聖堂の作りよりはるかに無骨で、すでに見慣れたクラウスも、威容を感じた。
「お帰りなさいませ、クラウス様」
「王都警護騎士団から提供された兵の寄宿舎へ行く。いま、全員いるな?」
神殿騎士たちの詰め所となっている館にはいま、警護騎士団から提供された兵たちも寝所を与えられ、寄宿していた。兵、といってもそのほとんどは職業として雇われ兵力を担ってきた人間たち……傭兵だった。
神に仕える騎士の詰め所に、一時的とはいえ人を殺めることを生業とする人間を入れること。それだけでもクラウスには耐えがたいことだった。厄介ごとをいち早く手放したい王都警護騎士団から押し付けられた形だったが、それでも実際、どの程度の兵力を必要とするのかも定かではない『魔剣』との戦いに向かう以上、背に腹は代えられないのが実情だった。
シホには、自分の部下たちにしっかりとした準備をさせる、と言い残して大聖堂を出たが、それはもちろんのこと、クラウスは傭兵たちがどの程度の戦力となるのか、把握しておく必要があった。これも背に腹は代えられないところだった。使えるものは使わなければならないし、使えないならば使えないなりの準備をしなければならない。歩きながら確認に向かう意思を、迎えに出た従者に告げたクラウスは、立ち止まることなく兵たちの寄宿舎へ向かおうとした。
「いえ、いま彼らは訓練場に集まっています」
その足を、従者の言葉が止めた。長身で足が長く、歩くのが速いクラウスに遅れてついてきていた従者を、立ち止まって振り返り見たクラウスは、その言葉の意味を理解しかねた。
「訓練場?」
確かに、館には訓練場がある。中庭が武術訓練をする場になっていた。しかし、なぜ突然、傭兵たちは訓練場に集まっているのか。
「はい。それが……」
従者が気まずそうに口を開いた。
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