第2話 シホ・リリシア
アヴァロニアと呼ばれる大陸に、同名の、大陸を統一した王国が、かつてあった。
剣と魔法で繁栄した大陸を、強大な魔法の力で制覇したその王国は、自らの権威の象徴として、魔法の力を宿した剣を、百振り作らせた。
やがて王国は崩壊の時を迎えるが、それ以後も百振りの剣たちはその魔力ゆえに永遠に失われることなく、また、その魔力ゆえに様々な伝説を残した。
あるものは聖なる剣として、勇者の手に握られた。
あるものは暴君の傍らに置かれ、多くの血を吸った。
そうして時は流れ、徐々に人々はその伝説すら忘れて行った。
統一王国の崩壊と共に大陸は再び分断され、人々は千々に分かれ、大陸は今日、国という単位で争いあう時代へと逆戻りしていた。
アヴァロニアの西方、大陸最大の信徒を持つ宗派『天空神教』が根付く神聖王国カレリアも、この戦乱の世にあって、無関係ではいられなくなっていた。隣接する軍事国家ファラの国境侵攻を受け、聖戦を宣言。東方の最前線では既に戦端が開かれていた。
このような時代に、人々にかつての伝説を思い起こす余裕はなく、そもそもそのほとんどが失われた現状では、忘れ去られていくに等しいものであるはずだった。
『天空神教』の高司祭、神託によって前最高司祭、ラトーナ・ミゲルから見出された少女、シホ・リリシア。その人がいなければ。
「王都警護騎士団からは、彼らが集めた民兵、三十人しか集めることができませんでした。わたしの力不足です。申し訳ありません、シホ様」
自分より五つも年上の、長身の神官が、几帳面に短く切りそろえた頭を下げる。それ自体はもう、珍しくない光景になりつつあったが、それでもやはり、その行為を受ける身として、シホ・リリシアはまだまだ慣れることができずにいた。おそらく、一生慣れることはないだろう、と思っている。
「いえ、あ、頭を上げてください、クラウスさん。わたしに力がないのが原因なんですから……」
神聖王国カレリア王都には、二つの城がある。
国の内外で、そんな言葉が交わされていた。
ひとつは聖王の居城、白い化粧石で飾られ、朝日に美しく輝く様が翼を広げた鳥に見えることから『白鳥城』の異名で知られる王城・シュレスホルン。
もうひとつはその『白鳥城』から碁盤目状に整備された王都の東側に位置する『天空神教』の教会区。その中心に位置する大聖堂。いま、シホのいるこの建物である。
二年前、シホはこの大聖堂に招かれた。十三歳の時だ。カレリア北方の山岳地帯にある寒村で、養父母と共に暮らしていたシホは、この大聖堂を目の前にして、自分が本当に生きているのかを疑いたくなったことを覚えている。こんな建物を作ることができるのは、天上の世界にいる天空神様だけだと思っていたからだ。死して神の地へと招かれたのだと、数日は本当に信じていた。
それが次第に現実へと切り替わって行ったのは、汚れ放題だった少しくせのある髪を整えてもらい、自分の髪が陽光のように輝く金色だったのだと知った時でも、いま身に纏っている高司祭用の、白を基調にした法衣に袖を通した時でもない。高司祭としての厳しい教え、修練が始まった時でもなければ、実際の務めが始まった時でもなかった。
自分を見つけ出した人に出会った時。
その瞬間、シホは自分の置かれている状況が、死後の世界でも、夢でも幻でもないことをはっきりと理解した。そしてそれと同時に、現実の重みとして感じるほど、大きな宿命を背負うことになったのだ。
「いえ、そうした交渉を、シホ様に代わって力になるようにと、亡きラトーナ様から申し付かったのは……」
「そ、それに、三十人も手があるじゃないですか。クラウスさんの神殿騎士の方々もいらっしゃるのであれば、きっと大丈夫ですよ!」
クラウスとは、『奇跡の人』と呼ばれた前天空神教最高司祭、聖女ラトーナ・ミゲルと出会った時、初めて引き合わされた。それから右も左もわからない自分の手となり足となり、目となり耳となってくれる、よき兄のような存在として、常に傍に控えていてくれた。そのことには本当に感謝しているし、これからも頼り切りになるだろう自分を不甲斐なく思い、クラウスには申し訳なく思い、少しでも自分ひとりでできることを増やしたいとは思ってもいた。ただ、どうにも慣れないのは、クラウスの必要以上に生真面目な部分であり、まるで自分を神そのもののように扱う、その接し方だった。
あなたには、様々なものを背負わせてしまう。
許してね。それでも大丈夫。あなたには力がある。
他人には決してない、力が。
初めてラトーナと話したとき、ラトーナはすでに病の床にあった。天蓋付きの巨大なベッドの中で、老いたラトーナの小さな身体がひどく寂しそうに見えたのを、シホはいまでも思い出す。寂しそうに、そして心から申し訳なさそうに、寒村の薄汚れた村娘に過ぎない自分に謝罪した大陸最大宗派の長は、それと同じ口調ではっきりと、強く言い切った。あなたには力がある、と。だからこそ、ラトーナは神託を受けたと、シホをこの大聖堂へ招き入れたのだ。
それゆえのクラウスの態度であるし、それが現在は空席になっている最高司祭の地位にいずれ座るものとされている自分に対する、正しい態度なのかもしれない。しかし、本当にそんな力があるのかどうかもわからない自分には、過ぎたものにしか思えなかった。
だが、ラトーナが受けた神託を否定することもできなかった。
それだけの『力』が、ラトーナにはあった。
いまは亡きラトーナは、魔法が使えたのだ。
かつてこの大陸では、魔法の力が生きていた。人々は生活の中で、当たり前のように万能な力を行使していた。才能の多少はあっても、誰もが力を使えていたのだ。
だがいま、この大陸には魔法の力を使える人間はいない。それがなぜいなくなってしまったのかは、誰にもわからないし、伝わってもいない。とにかく魔法としか呼ぶことのできない不思議で強い『力』を行使できる人間は、ひとりもいなくなってしまっていた。
そんな大陸の中で、ラトーナは若い頃、やはり神託を受けたのだという。『天空神』から授けられた力は、主に治癒の力で、各地を回り、その力を使って、治せぬ病に苦しむ人々を救い、治る病を放置するしかない人々にさえ、手を差し伸べた。そうして『奇跡の人』と呼ばれるようになったラトーナは、晩年になって『天空神教』の最高司祭となった。最高司祭となってのちも、活動的に、分け隔てなく奇跡の力を用いて各地を回っていたのだと聞いた。
シホも、彼女を育ててくれた養父母も、『天空神教』の信徒だった。ラトーナの話は何度も寝物語に聞いて育った。養父は実際にラトーナに会って傷を癒してもらったことがあったらしく、その話になると熱が入った。
そんなラトーナが、病の床で受けた神託が、シホ・リリシアを自分の後継者にすることだったのだという。ラトーナ以外が口にすれば、誰も信じたりはしない世迷い事だったが、彼女が口にしたことで、誰もが、指名されたシホ自身さえも、信じる他ない『力』がその言葉に宿った。まさに神託となったのだった。
「しかし、その三十人というのも……」
クラウスは何かを言いたげな様子で続けようとしたが、思い直したのか、口をつぐんだ。そしてシホに向き直ると、背筋を伸ばし、自分の部下たちにも、用意を徹底させます、と言い残して、シホの部屋を出て行ってしまった。
シホにあてがわれた部屋は細長い作りで、両脇は天井まで本棚で埋まっていた。入口の反対側の突き当りに置いた執務机に向かっていたシホは、机越しにクラウスが出て行った入口の扉を見ていたが、しばらくして椅子に腰を落とした。
本棚の間から、採光用の窓が並ぶ天井を見上げ、シホはため息をついた。
本当は、もっと広く、煌びやかに飾られた部屋をあてがわれていた。それが高司祭の地位にふさわしい、と。しかし、書物から学ぶことが多くあり、半ば書庫として使われていたこの部屋に滞在する時間が長くなると、シホはこの部屋を自分の部屋にしたいとクラウスに頼み込んだ。さすがのクラウスも、初めは渋い顔をしていたが、結局、折れた。
実際、書物から学ぶことは多かった。この大陸の歴史。『天空神教』の歴史。このカレリアという国の成り立ち。礼儀作法、生活習慣、式典とその意味合い、などなど。何も、そもそも文字さえもまともに読めなかったシホにとって、書物は膨大な知識の宝庫だった。求められもしたが、それ以上に、シホ自身の欲求として、書物を読み漁っていた。
ただ、この部屋を自分の部屋にしたのは、そうしたことだけが理由ではなかった。この部屋の狭さが、シホは好きだった。広すぎる部屋は、落ち着かなかったのだ。養父母と三人、くっつきあって寝なければ、寝れぬほど狭いあばら家にいた身には、この大聖堂は広すぎた。天蓋付きの巨大なベッドに、寂しそうに横になるラトーナの姿が浮かび、それがあまりにもつらくて、シホは自分が落ち着ける場所を探していた。
この机から見上げる採光用の窓は、似ても似つかないが、どこかシホが育ったあばら家の、屋根近くにあった窓を思い出させてくれた。
ずいぶん遠くに来てしまった。
ずいぶん多くのものを背負ってしまった。
窓から降り注ぐ光の帯をぼんやり見つめながら、シホは考えていた。ラトーナの言葉。自分に託された宿命。
百の魔剣と戦い、封じるということ。
その初めの一歩となる戦いの旅が、間もなく始まろうとしていた。クラウスは、そしてクラウス以外にも、そのための準備に奔走してくれている人たちがいる。きっと名前も、姿さえも見たことのない人たちが、自分のために自らの役割を果たしてくれているのだろう。
なさねばならない。
この宿命に従い、成し遂げなければならない。
シホは気持ちを改めた。改めたが、やはり自信にはつながらず、結局、堂々巡りを繰り返すいつもの村娘、シホ・リリシアから脱却するには至らなかった。
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