第2話

「さあ、試しにこの本を読んでみたまえ」


 僕は先生に手渡された本の表紙を見た。


 『エルマーのぼうけん』


 表紙に書かれた文字の情報が、一瞬のうちに頭に入ってくる。


 ……文字が、読める。


 いや、それまでもゆっくりだが読めてはいた。

 だが処理スピードが格段に違う。他の人にとってはこれが普通だったのか?

 立ち上げるのに時間がかかっていた旧式パソコンが、急に最新式のものに変わったみたいで、あまりの落差に面食らってしまう。


「気に入ったようだね。さあ、それを家に持ち帰って色々な本を読んでみるといい。きっと素敵な体験ができるよ」


 僕は先生に渡されたHGDと、先生が勧めてくれた小説を数冊持ち帰り、読んでみることにした。


 すると、本の中身がすんなり頭に入ってくるだけでなく、挿絵のない本にもかかわらず頭の中に絵や音声、さらには映像までもが鮮やかに浮かび、まるで本の中に入っているような感覚になった。


 こんな読書体験は初めてで、僕は興奮しながら何時間も本を読みふけった。


 しばらくして、本を読みつかれた僕はHGDを外した。なんだか頭がガンガンする。僕はふらふらとベッドに倒れこみ、そのまま深い眠りについた。




 その晩、僕はおかしな夢を見た。


 沢山の木の枝状に伸びたシナプスが、バチバチと赤や黄色の鮮やかな光を放つ。

 そんなシナプスやニューロンの樹海の中を、僕は泳ぐように探検している。深海魚のように。


 脳神経が織り成す色とりどりの幻想の中で、僕はあるものを発見する。扉だ。古びて錆びた茶色の扉。

 一見シンプルな石造りのようだが、頑丈そうで、よく見ると扉の周りにはびっしりと何か読めない言語が書かれている。


 夢の中にはHGDは持ち込めないから、残念ながらその文字は読めなかったのだが、目の前の扉には何故だか興味が惹かれたので、僕は扉を開けようと手を伸ばした。


 途端、僕の意識は急速に引き戻され、気が付くと僕はベッドの上に横たわっていた。頭が酷く痛い。耳鳴りがする。僕は天井を見上げた。




 一体何だったんだろう、あれは?




        *    



 あくる日、僕は再び小清水先生のもとを訪れた。


「文字が読めるようになりました。こんなに違うだなんて、びっくりです」


「そうかそうか、良かった」


 小清水先生は笑う。


「ただHGDを使うと酷く疲れて頭痛がするのであまり長い間は使えませんが」


「普段使わない脳の部位を使うから負担がかかっているのかもしれないな」


 ふむ、と小清水先生は唸った。


「毎日少しづつHGDをつける時間を伸ばして脳を慣らしていけばいい」


「はい、そうします」


 帰ろうとした僕に、小清水先生はこう提案してくれた。


「そうだ。大学で外国人向けの日本語の授業をやってるんだが、試しにそこで読み書きの授業を受けてみるのはどうだい? もしよければ私の脳科学の授業も受けてみるかい?」


 僕は先生について大学の授業を受けてみることにした。


 最初の講義は「初級日本語」

 外国人留学生に混じって授業を受けてみると、テキストはほぼ平仮名や片仮名で、簡単すぎて、拍子抜けするくらいだった。


「はあ、簡単だなあ」


 言ったのは僕ではなく、隣に座っていたアフリカ人の大男だった。


「そう思わないかい?」


 彼の名はロブ。彼はタンザニアの奥地の少数民族ング族の村の生まれ。


 アフリカの少数民族と言えば、テレビでよく見かけるマサイ族が有名だが、彼らは少数民族ではあるものの、実際には若者の多くは都市で暮らしており、村もテレビ局からの報酬で裕福。wifiすらも通じるのだという。


 だがロブの出身であるング族はマサイ族が暮らす土地よりも遥かに奥地にある。

 村の外を「穢れた地」として文明との接触を徹底的に拒んできた彼らは、正真正銘の文明と隔絶された部族と言えよう。


 ロブが日本に興味を持ち、日本語を学ぶようになったのは、たまたま小清水先生がその地を訪れたのがきっかけだったのだという。


「本当は小清水先生は僕らの住む村より少し手前の村に行く予定だったらしい。それが運転手が道を間違えちゃって、現地のガイドも『やばいですよ、やばいですよ』ってずっと震えてんだって」


 ロブが笑う。


「大人たちは村の敷地に入ってくる小清水先生たちの車をクワやシャベルで叩いて壊そうとしてた。農耕民族じゃなくて狩りで生活してるから、クワを武器だと思ってるんだよね」


 僕はクワやシャベルで襲ってくる現地の人たちの姿を想像しようとしたが、中々できなかった。


「ング族には文字はなかったの?」


「ああ。でも文字のない言語は珍しくはないよ。世界には5000以上の言語があるって言われてるけど、その内4割の言語は文字をもたない言語と言われているんだ。日本でいえば、アイヌ語なんかもそうだね」


「そうなんだ」


「まあ、その4割の言語話者も殆どは英語やフランス語などの第二言語を通して文字には触れているんだけどね。今では途上国にも教育は行き渡り、識字率は大幅にアップしたし」


 ロブが笑う。


「でも僕が生まれたのは本当に奥地の秘境でね。タンザニアの公用語は英語とスワヒリ語なんだけど、僕はそのどちらの言語にも触れたことがなかったんだ。小清水先生に会うまで『文字』というものの概念すらピンとこなかったぐらいなんだよ」


「へえ、そうなんだ」


 だとすると、ロブの境遇はすこしだけ僕に似ているかもしれない。

 僕は流暢な日本語を話し、スラスラとひらがなを書くロブを見ながらそう思った。



 次の講義は「言語学概論」で、大学の授業だけあって高校生の僕には少し難しかったが、興味深い内容だった。


 特に興味を惹かれたのがノーム・チョムスキーの「生成文法理論」という理論だ。


 チョムスキーによると、人間の言語には、すべての言語に共通する本質的特徴「普遍文法」が備わってがあり、それにより母語が何であっても、全く別の他の言語を習得できるらしい。


「日本人の遺伝子を持っていないのに、僕が日本語を話せるようになったのはそういうわけなんだね」


 またもや隣に座ったロブが囁く。僕は頷いた。


 言葉を話せるいうことだけじゃない。文字が読めるのだってそうだ。


 何億年にもわたる人類の長い歴史の中で、文字が登場するのは、たかだか四千年ほど前のこと。


 だが異なる文明、離れた地域で形は違うものの「文字」と言う概念がほぼ同時に登場し、それをいかなる人種の人でも訓練すれば読むことができるというのは、人類にそれに適した脳構造があるからだと考えられる。


 そして文字を手にしたその日から、人類の文明は瞬く間に発達した。僕からしてみたら、それは神様が人間に施した奇妙な仕掛けのようで、凄く不思議なことに思えた。


「遺伝子によって決められるのは『文字を読むのに適した脳の構造になる』とということだけで、その上にどんな言語プログラムを載せられるかまでは定められていない。だから生まれた地がどこであろうと、そこでどんな言語が話されていようと対応できるようになってる。すごいことだよ」


 ロブは講義が終わってからも興奮した様子で語り続ける。


「僕には残念ながらその機能は搭載されなかったようだけど」


「おそらくほんの些細な神経上の配線ミスや脳の傷が原因なんだろう。そんなに気にすることはない」


 ロブは慌てて付け足した。 


「人類の長い歴史の中では、文字が登場するのはごく最近のことだ。識字率も昔はそんなに高くなかったから、昔は文字が読めなくても全然大したことじゃなかった。僕の村でも一人も読めなかったしね」


「僕もロブの村で生まれてれば良かったかな」


「でも今は小清水先生の装置がある。これがあれば文字がよめるんだろ?誰でも文字が読めるようになる、素晴らしいことだ」


 熱っぽく語るロブ。

 確かに、この装置が普及すれば世界中からディスレクシアの患者はいなくなるかもしれない。それはとても素晴らしいことのように思えた。



 だがそれが僕とロブが交わした最後の言葉となった。


 その数日後、ロブは、自宅アパートで大量の睡眠薬を飲み、自殺したのだ。

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