楽園への扉

深水えいな

第1話


 僕は生まれた時から文字が読めなかった。


 両親は僕の知能が低いんじゃないかと心配して検査をしたのだが、IQは正常だった。むしろ他より高いくらい。下された診断はディスレクシアだった。


 ディスレクシアとは先天性の失読症のことで、知能に問題がないのに文字の読み書きに困難をきたす学習障害の一種だ。


 失読症は学習障害の中で最も多い障害であり、性別や国に関係なく人口の3%から10%ほどにこの症状が見られるのだという。


 ハリウッドスターのトム・クルーズやオーランド・ブルーム、や映画監督のスティーブン・スピルバーグがディスレクシアであると告白したことで、この症状の認知度が飛躍的に高まったと言われている。


 彼らは台本を読むのに困難をきたすため、台本を朗読したものを録音し、それを繰り返し聞いて台詞を覚えたのだという。


 僕は近所の大学に併設されている特別支援学校に通うこととなり、そこで小学校、中学校と過ごした。


 知能に問題はないので、問題文を読み上げてもらえば数学の問題は解けるし社会や理科の暗記もできる。それでも文字を読むのが困難だというのは中学に入っても相変わらずだった。


 僕は本棚から1冊の本を取り出す。


 失読症の中には文字が鏡文字に見えたり二重に見える人もいるというが、ぼくの場合は文字の上に薄い半透明の幕が張られたみたいにぼやけて見える。


 文字以外はそんな風に見えないから視力に問題はないのだけれど、なぜか文字だけがそんな風に見えるのだ。


 その文字も、じっと見つめていればだんだん文字の形に見えてくるのだが、「あ」という文字を見て頭の中で「a」という音と結びつけるのに酷く時間がかかるし、「あいす」という単語を見て「あ」と「い」と「す」という音だと分かってもそれをアイスクリームの絵と結びつけるのにはさらに時間がかかる。

 

 小、中学校と訓練を重ね、一字一字ゆっくり読めば何とか読めるもようにはなったものの、それでも他の人が5分で読める文章を読むのに1時間以上かかることすらあった。


 まるで一つ一つ暗号を解いていくみたいな地道な作業。

 なぜ他の人がその手間のかかる一作業一作業を一瞬のうちに処理できるのか全く分からない。きっとそこが、僕の脳が他の人と違うところなんだろう。


 僕もハリウッドスターみたいに自分の才能を生かして生きれたらいいけど、ここはアメリカじゃなくて日本だ。


 イケメンでもなければ特別演技が上手いわけでもない。


 就ける職は限られるし、これからも不自由を抱えて生きて行かなくてはいけないのだろう。


 特別知能が低いわけでもないのに障害者扱いされ、将来に漠然とした不安を抱くしかない日々。


 曇り空の下、僕はいつもやり切れない不満や閉塞感を抱きながら磨りガラスの向こうを見つめていた。

 

 そんな僕の生活に変化が訪れたのは高校に入ってすぐのころだった。




「――まだ研究段階なんだけど、失読症を克服する装置を脳科学研究所で開発中なんだ。もし良かったら試してみないか?」


 大学内の脳科学研究所で研究を行っている小清水先生が、僕を呼ぶとそんな事を言い出したのだ。


 にこやかに笑う先生の手には、白い小さな器具。

 大きさは丁度USBぐらいで長細く、耳に引っ掛けるU字状の金具がついている。

 見ようによっては補聴器のように見えなくもない。

 帽子を被ったり、髪を少し伸ばすだけで気にならなくなるようなサイズだ。


 僕は戸惑いながら、蛍光灯の明かりを反射し病院の床のようにつやつやと光るそれをそっと手に取った。


 装置の名はHGD。


 脳のシナプスを流れる微弱な電波をキャッチし、人工知能が視覚から音韻データへの変換、音韻データから意味データへの返還を代わりに行ってくれるというものなのだという。


 小清水博士は僕の脳を映した機能的時期共鳴画像装置・fMRIの画像を見せてくれた。白黒の脳の断面図に、赤やオレンジの色が一部分だけついている。

 色のついた部分は血液の流れを意味しており、脳のどの部分が使われているかを示しているのだそうだ。


「これが普通の人が文字が本を読んでいるときのfMRIだ。そしてこっちが君の。活動分野に違いがあるのがわかるかい?」


「……赤い場所が少ないですね」


「その通り! 普通の人は、読み書きをする際に、脳の前方系、頭頂側頭系、後頭側頭系の3か所を使っていると言われているが、君の場合、普通の人に比べ音韻の処理に関わる頭頂側頭系、後頭側頭系の働きが鈍いね」


 僕は眉間にしわを寄せ画像を見つめた。


 どこが前方でどこが頭頂なのかさっぱりわからない。ただ、普通の人と違うな、と言うのだけは分かった。博士はそんな僕に構わず続ける。


「君の場合、特に文字と音を結びつけたり音と意味を結びつける機能が弱いようだ。それをこの装置が代わりに行ってくれるんだ。脳機能の一部を人工知能に移す、というイメージかな」


「……脳機能の一部を人工知能に移す? そんなことが」


「電卓のようなものだと思ってもらえばいい。あるいは表計算ソフトのようなものだと。我々が昔手動で行っていた処理や計算の一部をパソコンに任せることで、我々の仕事は効率化した。それと同じで、脳機能の一部を人工知能に移すことで脳の負担は減り、より有用なことに思考リソースを割けるようになる。楽園への扉も開かれるんだ。それが私の研究だ」


 先生の言わんとしていることはよく分からなかったが、ともかく僕はHGDを受け取り、試しに着けてみることにした。


 本当にただ身につけるだけで文字が読めるようになるのか?


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