人魚の鱗
祖父はこの地方ではそこそこ名を売った彫刻家で、地元の漁師町には祖父自身が彫った人魚の石像がある。祖父は幼かった私を連れて、よくここを訪れた。海のそばで人魚の伝説が残る場所らしいのだが、観光地とは離れていたため石像もそれほど注目されなかった。それでも祖父はこの人魚に執心していた。
人魚像の尾びれ、人間で言うと膝小僧のあたりの鱗模様のなかに、ひとつ小さな白い石がはめ込まれてあった。それは目立たないが、日光に当たるときらめいた。人魚の鱗だぞと祖父は言った。若い頃、海で人魚に出くわしたときに手に入れたのだと。漁師の家に生まれた祖父はずっと海が好きで、漁師をやめてからも毎週のように船を出していた。
人魚の鱗をどのように手に入れたのか知りたがる私に、祖父はそのたび違った作り話を聞かせた。大物を奪い合って喧嘩した時にむしり取ったとか、人魚の島で歓待を受けた時の土産だとか、見知らぬ旅人の首飾りの一部だとか。その出鱈目な物語を聞くのが私は大好きで、だから真相にはたどり着かないまま、祖父は亡くなった。去年の夏のことだ。
大人になった私はもちろん鱗が本物だとは考えていなかったが、祖父の遺した印象深い思い出だった。里帰りすると散歩ついでに人魚像に立ち寄り掃除をした。子どもには巨大に見えた人魚像も、今はもう私の背よりも低い。布切れで人魚の体を拭きながら、例の鱗を確かめた。注意深く磨くと、ここだけが虹色に輝く。旅先で目にした真珠貝にとても似ていて、それ以来この鱗の正体は貝なのだろうと思っていた。かつての持ち主からの申告があるまでは。
この朝も散歩がてら掃除に来ると、人魚像の前に誰かが座り込んでいた。道路からも離れた人目に立たないところなので人がいること自体珍しいことだったが、驚いたのは、その人影が人魚像をガンガン叩いていることだった。
「なにしてるんですか!」
叫んだ私を振り返ったのは、像とそっくりな顔、そっくりな尾びれを持った人魚だった。
人魚は私を認めると、また像に向き直ってがんがんやり始めた。なにやらノミのような道具を像に打ち込んでいる。私は思わず駆け寄って人魚の腕を押さえた。ひやりと冷たい裸の腕は、細くはあるが固く、私を簡単に振り払った。
「邪魔するな」
人魚は顔に似合わぬどすのきいた声を発した。
「あたしは自分のものを取り返したいだけだよ。この鱗が外れたらさっさと帰るからほっといてくれ」
うろこ。
本物の人魚の鱗だったのか。私は人魚の尾びれをまじまじと見た。土に汚れてはいるけれど、たしかにそうだ。腰から下はまるで真珠貝でできた鎧。
「でも、それは祖父が作ったものなんです。壊さないで」
「知るもんか。約束を反故にしたのはあんたのじいさんだ。担保だった鱗を返してもらうのは当たり前だろ」
話しながらも人魚は鱗の周りを叩き続けている。私ははらはらしながら尋ねた。
「祖父はなんの約束を……?」
「パンだよ」
「ぱん……パン?」
「人間にはわからないだろうけどさ、鱗を剥がすのは痛いんだよ。新しいのが生えても色がそろわないし」
人魚は叩くのを中断して、道具で膝のあたりを指した。なるほどひとつだけ色が薄い鱗がある。
「あたしたちはパンが好物でさ。だからって海の真ん中では作れないだろ。あいつが人魚の鱗を欲しがるもんだから、取引してやったのさ。食パンを五十年間、毎週届ける約束だった。なのに去年の夏になってぱったり来なくなったんだ」
そういえば祖父はパンが好きだった。若い頃から船にも持ち込んで食べていたのだろう。
私は祖父が亡くなったことを告げた。人魚はまったく同情を示さなかった。
「それでも約束は約束だよ。契約期間が残ってる。たとえ三ヶ月でもね」
交渉の末、私が祖父の代理でパンを届けることに決まった。三ヶ月ならば、この町に滞在している間に終わらせることができる。私は船には乗れないからこの岸まで取りに来てもらわなければならないが、その代償も払うと約束した。人魚はおまけの提案に心惹かれたらしく、わりとあっさり承知した。
「それにしても五十年は長すぎやしませんか」
交渉成立のあとに出た私の質問に、人魚はゆっくり首を振った。
「人魚の鱗はそれだけの価値があるんだよ」
どういった価値なのかは教えてくれなかった。秘宝として高く売れるとか、薬やお守りになるのだろうとか想像してみたけれど、いまの私にはどちらでもいいことだった。
週に一度、晴れた日に商店街に出かけて食パンを六斤買い、ビニールを二重にして、決めた時間帯に人魚像まで持っていくと、三、四人の人魚たちが待っている。ベーグルやデニッシュをおまけにつけて渡すと、目新しいパンにはしゃいだ。そしてそそくさと頭にパンの袋を乗せて、器用に沖まで泳いでいくのだった。
おいしいパン屋を知っていて良かった。人魚を見送りながら、私は胸をなで下ろした。人魚像を無事に守れた。人魚の鱗がなくなってしまったら、祖父の冒険譚を話せなくなってしまうところだった。祖父の出鱈目話に混ぜて、今度はほんとうにあったことも語り聞かせてやれる。大切にとってある人生の楽しみ。
ぽこん、とお腹のなかから返事があった。
そう、もうすぐ生まれてくる君に。
【短編集】箱宇宙 戸田鳥 @todatori
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