三階

 静けさに目を覚ますと、窓の外が白かった。道も、屋根も、車もすべて雪に覆われて、街は白く塗り替えられていた。

 窓から顔を出して、息まで白いことを確かめる。雪で洗われた青空にぴかぴか輝く街は、こってりとデコレーションされたケーキのようだ。このクリームの上に、誰より先に足跡をつけたい。僕は誰も起こさないよう、玄関から靴を持ってくると窓から隣の屋根に下りた。

 ずずず、と足が雪に沈む感触が楽しい。けれど真っさらのケーキに穴を開けるのももったいない気になってきて、できるだけそっと歩くようにした。すると少しずつ足の運びが軽くなり、足跡をつけずとも歩けるようになった。その気になれば宙を歩けるものなのだ。そうしているうち、僕の足は見えない階段を上っていて、やがて知らない街の入口に着いた。


「ここは三階です」入口には郵便ポストが立っていて、僕をじろじろと見た。

「あなた、二階の人ですよね。許可がないと三階に立ち入ることはできません。そこの窓口で整理券もらってきてください」

 向かいの建物には順番待ちの列ができている。列に並んだ人はひとりずつ電車の切符みたいなものを受け取っていた。僕ももらうと、ポストの前に戻る。

「切符はここに入れてください」郵便ポストが言う。

 素直に投函してから、疑問に思う。手紙はじゃあどこに入れるの?

「手紙ってなんですか?」

「手紙とは」僕は考え、「用事を紙に書いて送るものです」

「紙に書く?どうして直接言わないんですか。そのために劇場があるというのに。さあ入った入った」

 急かされて入場してみると、客席に観客はほんの数名しかいなかった。席がわからないので端のほうに座る。舞台の緞帳は上がっていて、ひとりの男がパントマイムをしていた。ドアを開けるしぐさ。閉めるしぐさ。椅子に腰かけるしぐさ。何を演じているのかわからないけど、ほかの観客は拍手喝采だった。僕も拍手をすべきなのか迷っていると、出番が終わった男が舞台から下りてきて、こちらへ近寄ってくる。慌てて拍手しようとした僕の腕をつかむと、すごい力で僕を立たせ、舞台の上まで引きずった。

「ちょっと、やめてください」とあらがう僕を押し出し、

「次は君の番だ。やりたまえ」

 そう言って男はタ、タンとステップを踏み、舞台からとたんに消えた。スポットライトがぱっと僕を照らした。舞台にひとり残された僕がぼんやりしていると、

「突っ立ってないでなんかやれ!」と野次が飛んできた。

 とっさに思い出せたのは雪の中を来たことだけで、僕はぎこちなく腕を振り上げた。雪が降っている様子をパントマイムで表したつもりだった。

 客席はしいんとした。

 最前列の客が隣同士で「つまらない」「面白くない」と首を振っている。

 頭上のスピーカーがキインと鳴り、僕は動きを止めた。

「落第です!」

 郵便ポストらしき声がスピーカーから聞こえた。

「落第だ」

「落ちた落ちた」

 ヒソヒソ笑い声が客席に広がる。さっきまで閑散としていたはずの客席は、観客で埋まっていた。頬から耳たぶまでがかあっと熱くなった。

 またスピーカーが鳴った。

「落第のひとは追試会場へ行ってください。はい次ー」

 後ろから押されて、舞台の袖へ追いやられる。

 スポットライトから外れて幕の後ろへ入ると真っ暗闇だった。

 誰かが「こっちこっち」と呼んでいる気がしたので、そろりそろりとそちらへ向かう。そのうち目が慣れてきて、何人かが床に固まっているのが見えてきた。でもどうやら「こっちこっち」と聞こえていたのは、ちょきちょき、というハサミの音だったようだ。近くに寄ると、ハサミの音に歌声が混じる。


 ちょきちょきこっち

 落第さんは

 ちょきちょきここで

 ちょきちょきぱらぱら

 雪づくり


 五人が輪になって、ハサミで紙を切り刻んでいる。一人にハサミと白い紙を渡された。これが追試かと思いながら、五人がやっているように紙を刻み、小さな三角や四角を作る。僕を合わせて六人の真ん中にはたらいが置かれていて、こんもりと紙の山ができていた。

 ハサミの音を聞きながらちょきちょきやっているとだんだんと無心になる。紙を切りながらうとうとしだして、ふと目が覚めた。

 いま手にしているこの紙は、真っ白ではない。ところどころ黒い線があるじゃないか。切ったばかりの紙片をかき寄せて並べ直すと、いくつか文字が読めた。『んにち』『ケーキをあ』

「ちゃんとたらいに入れないとちょっきん」

「駄目だよ切っちゃ。これは誰かの手紙だよ」と僕が訴えると五人は手を止めて、

「手紙ってなに?」と聞くのだ。

「だから手紙というのは」急に自信がなくなってきた。「ひとに伝える言葉を紙に書いたものです」

 五人は顔を見合わせて、わからないといった顔をした。それからまたちょっきんちょっきんやりだした。うちの一人が立ち上がると、紙片が山盛りのたらいを持ち上げて、明るいほうへ歩いていった。まだ手紙が入ってるかもしれないと、僕はそのあとを追った。その人は床に膝をつき、たらいの紙片をつかむと、体の前でこぶしを開いた。床のその場所にはすき間があって、紙片はそこに吸い込まれていく。僕は紙を拾おうとしてつまづき、勢い余ってたらいがひっくり返ってしまった。中の紙片はたらいからあふれて、いくつかはひらひらと舞いながら、すき間から下へとこぼれていった。

 床に這ってすき間を覗くと、吹雪が僕の視界を真っ白にした。くるくる翻る雪がいったい落ちているのか昇ってくるのか、僕はいったい下を覗いているのか仰向いているのか。どちらともわからなくなってしまった僕は、雪の渦にすうっと吸い込まれていった。


 気がつくと、郵便ポストの前に立っていた。

「やあ」とこちらから声をかけたけれど、このポストは返事をしなかった。

 差込口に溜まった雪を払ってやろうとポケットから手を出すと、右手は白い封筒を握っていた。切手の貼られていない、宛名の書かれていない手紙。差出人はないのかと裏を返してみた時、雪がまた降り出した。見上げると、くるくると落ちてくる雪に、目が回りそうになる。僕はぎゅっと目をつむった。



(了)

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