16-3
「でも……こんな事態を想像したら、なかなか決断できないのは当然です」
集落を崩壊させるような決断なのだ。彼はあの村に長く住んでいたのだから、土地に対する愛着もあったのに違いない。
しかし、芝はゆっくりと首を振った。
「いや、自分のことしか考えていなかったんだ。自分と、妻のことしか」
「奥さま……ですか」
「あの花への思いが強すぎて、自分の手で弾劾することができなかったんだ。あれは妻が愛した花でもあったから。……私はあの花を憎んでいたが、もう、自分でもよく判らないんだ」
老医師は顔を伏せた。
「……そうでしたか。そういえば、奥様のお墓も阿香にあるんですね」
弥絵がそう言っていた。
芝は顔を上げると頷いて、おもむろに立ち上がった。作りつけの棚に飾ってあった写真立てを大事そうに手に取ると、ソファに戻って杉本に手渡した。
色褪せた古い写真だった。小柄で可愛らしい和服の女性が、若き日の芝医師と寄り添っている。
写真の中のふたりはとてもよく似ていた。
杉本は写真の中の顔と、目の前の老人の深く刻まれた皺を眺め較べた。
「弥絵はどうしてるかね?」
ほうじ茶の入った湯飲みを手に取り、芝が訊ねた。
今回杉本ひとりが招かれたのは、弥絵の今後についての相談をするためでもあった。
「とても元気ですよ。僕が阿香にお邪魔したときよりも早く東京に馴染んでるかな。若いっていいですねえ」
「きみも充分若いよ」
老医師は磊落に笑った。杉本は照れ笑いを返した。確かに老医師から見れば三十代前半の自分など子どものようなものか。
「電話でもお話ししましたが、弥絵ちゃんは僕が引き続きお預かりします」
上条家の土地を売却した金と一志の保険金とで、弥絵の当座の生活費はなんとか賄える。また杉本家の所有するマンションの部屋がいくつか余っていること、彼にとっても大きな負担は生まれないこと、などを微細に説明する。それは弥絵本人にも言って聞かせたことだった。迷惑をかけるという負い目を感じてほしくなかった。
「僕よりも、芝さんのそばで暮らしたいかもしれないけれど」
「私もこんな身体でなければ引き取ってやりたいんだが。娘夫婦には私だけでも負担だから、これ以上わがままを言うわけにもいかない。本当に申し訳ないね」
「いいえ! 僕のほうは迷惑どころか、助かるくらいなんです」
研究職に戻れば、国内外への出張が多くなる。弥絵には家の留守を預かってもらうこともあるだろう。綾や浪岡にも協力してもらい、彼がいない間の援助は頼んであった。
弥絵自身にも苦労をかけると思うが、成人するまではなんとか見守ってやりたいと思う。
一志との約束を全うするためにも。
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