13-2
今年の初春、三角家に長らく勤めていた年下の家政婦が、結婚するからと勤めを辞めていった。住み込んでいた三角の屋敷を出て、新居の小さなアパートで暮らすのだという。綾はその娘が内心羨ましかった。綾とは違い、彼女には人生の目的ができたのだ。愛する夫のために、いずれは自分の子どものために、家庭を守るということ。
唯一無二の相手を愛し、愛されるということ。
綾はそんな平凡な結婚生活に憧れを抱いた。けれど自分には一生縁のないことだとも思っていた。
生活は充分すぎるほどに満たされ、健康で美しく、働かなくても食べてゆける。
綾の周囲にいるのは、そんな苦労知らずの友人ばかりだった。もちろん綾自身も。とっぷりとぬるま湯に浸かっているときにはまったく気がつかなかった。この森に来て、はじめて知った。自分がどんなに恵まれた世間知らずだったのかを。
こんな辺鄙な場所にも、人間の営みが存在しているのだ。彼女の愉しんできたことがなにひとつ存在しない場所で、幸せそうに暮らしている人々がいる。彼らは一様に、毎日愚直なまでに自分の勤めを果たし、すぐそばにいる隣人を愛しながら、慎ましやかな生活を送っていた。自分と彼らとでは、果たしてどちらが幸せなのだろうか?
彼女の価値観は次第に変容を遂げていった。まったく違う世界に触れることで、この年齢になってはじめて、自分というものを見つめなおす機会が与えられたのだ。
一志が死んでしまったことも大きな衝撃だった。
彼は亡くなる前日までは元気だった。話す機会はほとんどなかったが、若く瑞々しい少女たちの中心にはいつも彼がいたように思う。
一志は二十歳だったと聞いた。
自分も永遠に若いわけではない、いつかは容赦なく死ぬ。果てなく続く毎日の中で忘れかけていた真実を、いきなり目の前に突きつけられた。
働くという選択肢がないまま遊び惚けていたけれど、自分はこの世界に生きて、果たしてなにかの役に立っているのだろうか?
頼りなかった年下の遠縁でさえ自分の道を見つけ、この村での役割を立派に果たしているというのに。
十代なかばの少女でさえも亡くなった兄の代わりに、苦労が多そうな専門職をこなしているというのに。
わたしには、なにができるのだろう。
これほどまでに、わたしは役立たずな人間だっただろうか?
綾はこの森で自分を見失いつつあった。
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