13-1

 静かな夜だった。

 森の中の暗がりに浮かぶ診療所内で、綾はひとり、安楽椅子にもたれて微睡んでいた。

 部屋の中では年代物の石油ストーブが炎を上げていた。現役で使えるのが奇跡のような外観だと、綾はうとうとしながら思う。

 男二人と少女一人は揃って出かけ、彼女は留守番を言いつかっている。あの三人は仲がいいのか悪いのかよく判らない。端から見ていると面白いのは確かだ。

 本格的に、瞼が重くなってきた。

 住めば都……と、言うけれど。

 ことわざにはやはり含蓄があると綾は思った。ここは不便に過ぎるが、居心地は悪くない。夏に訪れ、十二月に入った今も逗留しているなんて。本人がいちばん驚いている。

 ——帰ろうと決めたときに、引き止めてくれたひとがいたから。

 流されて居着いていたら、帰るタイミングをすっかり逃してしまった。

 この集落では、誰も彼女のことを気にしなかった。余所者だから勝手な噂話くらいはされているかもしれないが、それは綾自身に伝わってこない。それならば言われていないのと同じことだ。関わる人間が圧倒的に少ないことも気分を楽にさせてくれた。なにをせずとも目立ってしまう性質の彼女にとって、この場所は安楽の地とも言えた。

 ふっくらとした唇から、寝言のようなつぶやきが洩れる。

 「……昔は、目立つことが快感だったのだけれど……もう充分だわ」

 家柄も申し分なく、上流階級に相応しい教育を受けて綾は育った。生まれついての美しい容姿も彼女に揺るぎない自信を与えた。

 高名な私立大学を卒業したのち、予定通りに、祖父の会社の役員という肩書きを与えられた。税金対策の意味合いがあるらしく、実務には一切関わらずとも不自由なく暮らしてゆけた。自分を磨くのが仕事だと周囲に言い聞かされて、その通りにさせてもらった。買い物も観劇も、サロンも旅行も、習い事も楽しかった。はじめのうちは。

 ふあ、と欠伸をする。目のふちの涙を指先で拭った。

 ——唯一、いつまでも退屈でないのは、恋くらいのものだ。

 恋愛は素敵だった。

 けれど悪意と嫉妬に満ちた眼差しや、近しくもない者にあることないこと噂をされる生活には飽き飽きしてきた。

 このあたりで落ち着いて、田舎で静かに暮らすのも悪くないかもしれない。半年前なら正気を疑うようなことを、いまはなかば本気で思う。

 歳をとったということだろうか。まだまだ娘のつもりでいたのに。

 唇の端に微笑みが浮かぶ。

 ……もう、若いなんて言えないわね。

 綾は自分が強い女だと思っていた。加えて冷静沈着、頭のいい女だとも自負していた。

 だから、相手が別れたがっていることにはとっくに気がついていたのだ。綾のほうから何度も別れを切り出そうとした。しかしどうしても言えなかった。愛人のくれる優しさ、それは卑怯な男の優柔不断な態度でしかなかったが、当時の彼女は知りながら見ないふりをしていた。それほどまでに、優しさに飢えていたのかもしれない。

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